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第十七話:范増の覚悟と遺言

 

 咸陽の宮殿に戻った范増は、秦の始皇帝、嬴政――佐藤誠として転生した彼――から罪を免じられ、今後の貢献で禊とする裁決を受けた。


 老軍師は広間で誠の手を取り、感謝の言葉を述べたが、その心は穏やかではなかった。


 牢から解放され、再び軍師として仕える身となった范増は、夜になると自室で一人、灯火の揺れる中、深い思索に沈んだ。


(陛下はわしに甘すぎる……。張良を殺した罪は、陛下の意に反した独断だ。死罪に値する罪を犯したこの老骨を、功績で償えと生かすとは……。)


 范増は杖を握りしめ、目を閉じた。敬愛する陛下の顔が浮かぶ。優しさに満ちた眼差しで、范増の忠義を認め、未来を託すと語ったその姿が、逆に彼の心を締め付けた。


(陛下の志は高潔だ。天下万民を幸せにし、賢者を登用して秦を盤石にする。だが、このわしへの裁決は法を歪めるものだ。わしを大事に思う気持ちは確かに有り難いが……。とはいえ贔屓が過ぎる、その事を盾に陛下の命を聞かぬ者が今後でたり、さらには法を守らぬ者が増える。それでは国は立ち行かぬ)



 范増の鋭い目は暗闇の中で光り、心の中で自問自答が続いた。楚の出身である彼は、かつての戦国時代の混乱を目の当たりにしてきた。


 法が緩み過ぎれば、統治が揺らげば、国はたちまち崩壊する。ただでさえ陛下は厳罰を緩和せる政策をとっている今、この件でさらなる緩みとなる結果を招くのは秦が揺らぎかねないと范増は思いつめていた。


(わしが生きて功績を重ね、罪を償う道は確かに陛下の優しさだ。だが、その優しさが秦を危うくするやもしれぬ。法を曲げてまでわしを生かすことは、陛下の志に反する。秦のため、法のため、この老骨が自ら裁きを下さねばならぬ。)



 范増は立ち上がり、机に向かった。

 短剣を手に取り、その刃を見つめた。


 范増の心はとうに決まっていたのである……。


(陛下、許されぬ罪を犯したわしを赦すお心はありがたい。だが、秦の未来を守るため、法の厳しさを示すため、わしは自決するしかない。陛下の優しさに甘えるわけにはいかぬのです)


 范増は短剣を胸に当て、深呼吸した。そして、静かに刃を突き刺した。血が畳に滴り、白髪の老軍師は静かに息を引き取った。



 そして、机の上には、彼が最後に書き残した遺書が置かれていた。





 ーーーー



 范増は自決の前夜、韓信を密かに呼び寄せていた。


 宮殿の一角、静かな庭で、二人は向かい合った。韓信は范増の異様な雰囲気を察し、不安げに尋ねた。


「范増殿、何か用か? 夜遅くに呼び出すとは……」


 范増は杖をつき、韓信を鋭く見つめた。


「韓信、そなたに最後の言葉を伝えたい。わしは明日、自決するつもりだ」


 韓信は目を丸くし、声を荒げた。


「何!? 范増殿、なぜだ! 陛下はそなたを生かし、秦のために働いてほしいと仰った。それなのに自決とは……。!」


 范増は静かに首を振った。


「韓信、陛下は優しすぎる。わしが張良を殺した罪は、陛下の意に反した独断だ。死罪に値する罪を犯したこの老骨を、功績で償えと赦すのは、法を歪める行為だ。寵愛する臣下に優しいとは聞こえ良いが、処罰を甘くすれば、法を守らぬ者が増える。それでは国は立ち行かぬ!」



 韓信は言葉を失い、范増の瞳を見つめた。老軍師の決意は揺るぎないものだった。



 范増はさらに言葉を続けた。


「だが、韓信、陛下には未来を見通す力がある。いや、それに加えて聡明すぎるゆえに、能力の高い者を殺したり、才能が潰れることを何より惜しまれる。故に、殺すべき者を殺せぬ時がまたくるやもしれん……。それがわしには気がかりだ」


 韓信は息を呑み、范増の言葉に耳を傾けた。范増は一歩近づき、韓信の肩に手を置いた。


「陛下の優しさは秦の強さでもある。天下万民を幸せに導くその志は、そなたもよく知るだろう。だが、その聡明さと優しさゆえに、非常な決断が苦手やもしれぬ。わしが去った後、陛下が優しさに流されぬよう、時に厳しい決断を下せるよう、そなたが補佐してくれ」



 韓信は范増の手の重さを感じ、胸が締め付けられた。


「范増殿……。 私にそんな大役が務まるのか? そなたが生きて陛下を支えるべきではないか!」



 范増は苦笑し、首を振った。


「韓信、陛下の力はそなたもいずれ分かる。聡明すぎるがゆえに、張良のような才を殺すことを避け、わしのような罪人を赦す。だが、そのような事で法を曲げてはならぬ。この老骨の命で、法の厳しさを示し、秦の礎を固める。それがわしの最後の忠義だ」


 韓信は涙をこらえ、范増に深く頭を下げた。



「分かった……。范増殿……。しかし……。そ、」


「韓信よ。男たる者一度決めた事は千金を積まれたとしても覆すわけにはいかぬ。わしはそう誓って生きてきたのだ……。すまぬな」



「范増殿……。」



 范増は満足げに頷き、韓信を帰した。


 その夜、彼は自決の準備を整え、遺書に最後の思いを書き加えた。


「この度は陛下のご温情を無にする事をお赦し下さい。しかし、死罪に値する臣下を庇うために法を歪めては国が立ち行きませぬ。陛下は未来を見通す力と聡明さゆえに、殺すべき者を殺せぬ時がまたくるやもしれん。それが気がかりです。


 どうか一時の情に流され大局を見失う事のないよう、中華全体を導いてくださいますよう、秦の発展を心から願いまする。


 非才な身ではありますが、陛下にお仕えできたこの数年が私にとってもっとも価値のある時間でございました。陛下の行く末を横で見守れぬ事に心残りもありますが、私の死は運命と思い諦めて頂ければこれ幸いでございます」




 翌朝、范増の遺体が発見された。



 宮殿は一時騒然となり、誠は知らせを聞いて玉座から立ち上がり范増の部屋に駆けつけると、そこには血に染まった老軍師の亡骸と、遺書があった。


 誠は遺書を手に震え、読み進めるうちに心が凍りついた。


(范増……。お前は俺が未来からの転生者とどこか感づいていたのか?  そして、殺すべき者を殺せぬと甘さか……。確かに。言われて見ればここ最近の俺はどこかしら緩んでいたやもしれぬ)



 誠は遺書を握り、膝をついた。佐藤誠として現代から転生した彼は、未来の知識と経験を持ちつつ、秦を導いてきた。


 その秘密を誰にも明かさなかったが、范増の鋭い洞察がそこに迫っていた可能性に、誠は戦慄した。



(范増、お前は俺の本質を見ていたのか? 未来を知るがゆえに、張良のような才を殺すことを避け、お前を赦した。だが、お前はその甘さが法を歪めると……。)


 誠の心は再び葛藤に苛まれた。范増の忠義が、秦の法を守るために自ら命を絶つ形で示されたことに、深い悲しみと敬意が交錯した。


 宮殿内では、重臣たちも范増の死に沈黙した。


 そんな中にあって李斯が静かに進み出た。

「陛下、范増の自決は、法の厳しさを示すものでした。彼の忠義は秦の礎となるでしょう」


 蒙毅も続けて進言する。

「范増殿の遺言にある陛下への懸念……。我々も心に留めねばなりません。陛下、それに范増殿は重臣とはいえど臣下の一人です。臣下の一人にいつまでも心をさかれては他の臣下がおもしろくありませぬ。悲しみを乗り越え、前進してくださいますよう切にお願い申し上げます」


 誠は立ち上がり、遺書を胸に押し当てた。


「范増、お前の忠義……。けして忘れぬぞ」



 范増の死後、韓信もまた彼の遺言を胸に刻んだ。


 特に「陛下は未来を見通す力と聡明さゆえに、殺すべき者を殺せぬ時がまたくるやもしれん」という言葉を、韓信は常に心に留め置く事にした。


 その後、韓信は范増の抜けた分を補うように、秦の始皇帝を支え、秦を守る決意を新たにし、軍の指揮を一層強化した。


 反秦勢力の動きを監視しつつ、范増が懸念した「非常な決断の難しさ」を補うため、時に厳しい進言を厭わなかった。


 誠は范増の死を悼みつつ、韓信の存在に支えられた。


 誠は玉座に座る時に、范増の事をときおり思い出す。


(范増は法を守るために命を捧げた。お前の犠牲は秦の大きな礎となっている。その覚悟は無駄にはせぬ!)


 張良暗殺と范増の自決は、秦に深い影響を残し、反秦勢力は一時沈黙し、内部では法の厳しさが再認識され、秦はまた史実とは違う未来を切り開くかたちで新たなる道を歩み始めた。



 范増の遺言は、誠の心に刻まれ、秦の統治に新たな覚悟と信念をもたらす結果となった。

 それにより、秦はより発展する未来に向かうのであった。




 范増 享年約65歳 

 神機妙算、奇策妙計の軍師は史実とは違い、秦の始皇帝にその才能を見出され、心血を注ぎ仕えたが、史実よりも10年程早く亡くなる。



 そして、秦の始皇帝にその死をもっとも惜しまれた男として名を残したのであった。



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― 新着の感想 ―
これは素晴らしいifやった。。。 范増△
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