第十六話:范増の処遇と韓信の執念
張良は范増によって暗殺された。
元韓の川辺に血が流れ、張良と蒼海公の亡骸が冷たく横たわっていた。
范増の独断による暗殺は、秦の未来を守るための決断だったが、その波紋はすぐに広がり始めた。
張良の死は、韓の残党勢力や反秦勢力に衝撃を与え、彼らにとっての希望の灯がまた1つ消えた瞬間でもあった。
韓の地では、張良の名を知る者たちが密かに涙を流し、秦への憎しみをさらに募らせた。
一方で、張良が生きていれば巡り合わせがあれば劉邦に与し、秦を脅かす可能性があったのも事実であり、范増の行動は秦の安定に一役かったともいえる。
しかし、この暗殺は秦内部にも波乱を巻き起こした。
咸陽に報告が届くと、宮殿内では重い空気が漂った。李斯や蒙毅ら重臣たちは、張良の才を惜しみつつも、その頑なな忠義が秦にとって危険だったことを認めざるを得なかった。
だが、范増が独断で手を汚した事実は、誠の統治理念――民を豊かにし、賢者を味方に引き入れる――と相反するものであり、誠の心に深い葛藤を生んだ。
咸陽の玉座に座る秦の始皇帝、嬴政――佐藤誠――は、韓信からの報告を聞き終えた後、長い沈黙に陥った。
范増が拘束され、張良と蒼海公が死に、元韓の地が血に染まった事実が、誠の胸に重くのしかかった。
広間には李斯、蒙毅、韓信が控え、誠の言葉を待っていたが、彼の心は乱れていた。
(范増……。お前が朕のために、秦のために汚れ役をかって出たのか。張良を殺すことで、朕の治世を守ろうとしたその忠義は分かる。だが、朕は張良を殺すつもりなどなかった。説得し、味方に引き入れる道を模索していたのに……。)
誠は目を閉じ、范増の老いた顔を思い浮かべた。白髪を垂らし、杖をつきながらも鋭い眼光で秦の未来を見据えていた老軍師。
その范増が、自らの命を賭して張良を葬ったのだ。誠の心には感謝と怒り、悲しみと後悔が交錯した。
(俺が甘すぎたが故に、お前が手を汚さねばならなかったのか? だが、張良が臣下にならぬのなら、結論としては始末に傾く事も俺には想定内ではあった……。しかし、それで秦の統治は本当に盤石になったと言えるのか? いや、逆に反秦勢力を刺激し、混乱を招くやもしれぬ)
誠は玉座から立ち上がり、広間を見渡した。李斯が瘦せた体を進めて口を開いた。
「陛下、范増の行動は確かに独断でした。しかし、張良が生きていれば、いずれは、秦を脅かした可能性は高いのもまた事実」
蒙毅が穏やかに続けた。
「ですが、范増の張良の暗殺は、陛下の治世に影を落とす行為です。陛下の命に背くは臣下にとってあってはならぬ事!」
誠は二人の言葉を聞き、心の中で呟いた。
(范増、お前を責めるべきか、感謝すべきか……。俺の心は定まらぬ。俺はどうすればいい?)
一方、咸陽の牢に収容された范増は、静かに死を待っていた。
白髪を整えた老軍師は、牢の石壁にもたれ、目を閉じていた。心は穏やかだった。
(張良を葬ったことで、陛下の治世に禍根を残さず済んだ。この老骨、死罪でも構わぬ。陛下に忠義を尽くせたなら、それで十分だ)
范増は自らの決断に一片の悔いもなかった。
張良の才を惜しみつつも、秦の未来を優先した選択が正しかったと信じていた。
だが、その覚悟を知った韓信は、范増をこのまま死なせることに耐えられなかった。
韓信は范増の牢を訪れ、格子越しに語りかけた。
「范増殿、そなたの忠義は私が誰よりも理解しているつもりだ。忠義の臣が、このまま死罪になるのは忍びない。張良を殺した罪を軽減する方法を探す」
范増は目を開け、韓信を静かに見つめた。
「韓信、そなたの気持ちはありがたい。だが、わしは覚悟の上だ。陛下の意に反し、罪を犯した。この命で償うのが筋なのだ」
韓信は首を振った。
「いや、范増殿。張良が過去に陛下を暗殺しようとしていたという噂もある、もし、証拠があれば、そなたの行動に正当性を持たせられるかもしれん。私はそれを探し出し、そなたの罪を軽くする道を模索する」
范増は驚いたように目を丸くしたが、すぐに苦笑した。
「韓信、そなたは若く熱いな。だが、無駄な努力だ。わしは死を望む」
韓信は范増の言葉を無視し、張良が秦の始皇帝を暗殺しようとしていた証拠を探す決意を固めた。
彼は自らの軍勢を動かし、元韓の地や張良の故郷である韓の旧都周辺に密偵を放った。
昼夜を問わず、かつて張良が蒼海公と共に暗殺計画を練った痕跡を執念深く追った。韓信の心には、范増の忠義への敬意と、罪を軽減したいという強い意志が燃えていた。
数週間後、韓信の努力が実を結んだ。韓の旧都近くの廃墟で、張良が書いたとされる書物が見つかった。
そこには、秦の始皇帝を暗殺し、韓を再興するための具体的な計画が記されており、蒼海公との連携や武器の調達方法まで詳細に書かれていた。
韓信はその書物を手に咸陽へ急ぎ戻り、誠に報告した。
「陛下、これが、張良が暗殺を企てていた書物が発見されました。これで范増殿の行動は、陛下の命を守るためのものとして処理する事に大義名分が立ちまする!
范増殿の罪を軽減する寛大な処置をお願いしたく存じます!」
誠は張良が書いたものとされる書物を手に取り、じっくりと読み込んだ。
張良の筆跡と計画の詳細が、確かに彼の意図を裏付けていた。誠の心に新たな葛藤が生まれた。
(張良、お前は本当に俺を殺すつもりだったのか……。確かに、史実でも張良は秦の始皇帝暗殺を目論み実行していたが……。)
誠は韓信を見据え、静かに言った。
「韓信、そなたの尽力に感謝する。この書物は確かに范増の行動に正当性を与える。だが、朕の意に反した暗殺は罪だ。どう裁くべきか……。今一度考慮する」
誠の決断は少し時間を要した。
誠は数日間、宮殿の奥深くで一人考え続けた。范増の忠義、張良の暗殺計画、韓信の嘆願。
そして秦の未来――全てが頭の中で渦巻いた。
范増を死罪にすれば、その忠義と知恵を失う。だが、無罪とすれば、朕の意に反した独断を許したことになり、統治の秩序が揺らぐ。
悩みながらも誠は最終的に、重臣たちを広間に召集し、裁決を下した。
「范増は朕のために張良を殺し、秦の安定を守った。その忠義は認めざるを得ぬ。韓信が見つけた証拠により、張良が朕を暗殺しようとしていた事実も明らかになった。だが、朕の意に反した独断は罪だ」
誠は一呼吸置き、言葉を続けた。
「范増の罪は死罪に値するが、朕はそれを免じる。代わりに、今後の貢献でこの罪を禊とする。范増にはこれからも秦のために知恵を尽くしてもらい、その功績で過去の罪を償わせる。これは朕の決定である!」
臣下達は少し困惑の反応を見せたが、始皇帝の決定に異を唱える臣下は1人としていなかった。
誠は広間を見渡し、心の中で少しほっとして、小さく呟いた。
(范増、張良を失ったことは悔やまれるが、お前には秦のためにこれからも働いてもらう。俺はその道を選んだ。これは俺の甘さかもしれぬが……。それでも忠臣を俺は失いたくないのだ!)
ほどなく范増は牢から解放され、咸陽の宮殿に戻った。
誠の裁決を聞いた范増は、驚きつつも深く頭を下げた。
「陛下、この老骨に罪を償う機会を与えてくださるとは……。感謝に堪えません。今後とも秦のために知恵を尽くし、陛下の志を支えます」
誠は范増の手を取り、静かに言ったがその表情は暗かった。
「うむ。范増、今後も秦のためによろしく頼む」
そして張良の死は反秦勢力に一時的な動揺を与えたが、大きな反乱には至らなかった。
が、
范増は再び軍師として働き始める事はなかった。




