第十五話:張良の説得失敗のツケ払い。
秦の始皇帝に捕縛されている張良と蒼海公は牢屋から咸陽の宮殿の一室に移されていた。
これは賢人、勇者を牢に入れて腐らせるつもりないという誠の意思からでた厚遇であった。
そこは牢屋とは程遠い優雅な空間で、絹の幕が窓を飾り、木製の机には書物が積まれ、食事は温かい湯気を立てていた。
張良、蒼海公はそこに軟禁されており、衛兵が扉の外に立ち完全に自由とはいかないまでも、それなりに快適に過ごせるように配慮がなされていた。
秦の始皇帝、嬴政――意識は佐藤誠として転生した彼――は、張良にそれなりの礼を尽くしつつも、彼の才を秦に引き入れるべく拘束と説得を続けていた。
部屋の中央に座る張良は、瘦せた体に鋭い目を光らせ、静かに書物を手にしていた。
傍らには蒼海公が立ち、不機嫌そうに壁を睨んでいる。
誠が部屋に入ると、張良は書物を閉じ、冷ややかな視線を向けた。誠は穏やかだが力強い声で語りかけた。
「張良、朕はそなたの才を惜しむ。秦に加われば、天下万民のためにそなたの知恵を活かせる。韓への想いを過去に縛り付けるのではなく、未来のために使ってほしい」
張良は冷たく笑い、目を細めた。そして、その声には鋭い刃のような響きがあった。
「陛下、忠臣は二君に仕えず。私は韓に尽くす所存です。韓を滅ぼした秦に仕えるなど、あり得ぬ話。韓再興こそが私の生きる道であり、陛下の甘言に心を動かすつもりはありません。こうして軟禁され、礼を尽くされたところで、私の意志は変わる事はあり得ません」
(とりつく島もないな……。張良とはこんなに頑な御仁だったとはな。昔の人は忠義心がぶ厚すぎてかなわんなー。)
誠は張良の言葉に一瞬目を閉じ、その頑なな態度に内心ため息をついた。
張良の瞳には、韓への深い忠義と、秦への憎しみが渦巻いている。
それでも誠は諦めず、さらに言葉を重ねた。
「そなたの忠義は立派だ。だが、韓を再興することは戦乱を招き、民を苦しめる事になりかねない故に約束はできかねる。朕は中華をさらなる平和に導き豊でより良い国にしたい。そなたの知恵があれば、それをより確かなものにできると信じている。この部屋で書物を与え、礼を尽くしているのも、そなたを敵視せず、同志として迎えたいからだ」
張良は首を振って誠の言葉を遮った。
「陛下の志がどれほど高かろうと、私には関係ありません。韓を滅ぼした事実は消えぬ。秦の統治が民を豊かにしていると主張されても、私の心は韓にしか向かぬ。陛下の誘いは無駄です。この軟禁がどれほど快適であろうと、私の決意は揺るがぬ」
(この無礼さ……。臣下の前なら切って捨てられる程に無礼極まるが……。)
誠は張良の決意の固さを感じ取り、しばらく黙り込んだ。
張良の瞳には迷いがなく、ただ韓への忠義だけが燃えている。蒼海公が低く唸り、張良を支持するように口を開いた。
「張先生の言う通りだ。俺は張先生のために生きてる。秦なんかに仕える気はねえ。こんな部屋に閉じ込められても、俺たちの気持ちは変わらねえ」
誠は二人を見つめ、心の中で呟いた。
(張良の忠義は予想以上に深い。無理に説得しても心は動かぬか……。だが、このまま宮殿に閉じ込めておくのも得策ではない。その才能を腐らせる前に何とかせねば……。)
誠は深呼吸し、決断を下した。
「分かった。そなたらの意志がそれほど固いなら、無理に引き留めはせぬ。だが、そなたらには天下万民の今の状況をその目で見てほしい。元韓の地に送り届けよう。そこで秦の統治がどうなっているか、実感してくれ」
張良は意外そうな顔をしたが、すぐに表情を硬くした。
「元韓の地に帰れるなら、それに越したことはない。だが、陛下の意図が何であれ、私の決意は変わらぬ」
誠は頷き、部屋の外に控えていた范増と韓信を呼び寄せた。
「范増、韓信、張良と蒼海公を元韓の地まで送り届けてくれ。軍を率いて、安全に護送するのだ。范増には現地で張良と話し説得を試みて欲しい。韓信には軍の指揮を任せる」
(史実では劉邦と張良を絶対殺すマンだった范増だけど、今の状況なら多分大丈夫だろう……。俺は結構口下手だけど范増ならもしかしたら……。うまく交渉してくれるかもしれない。)
范増は白髪を揺らし、鋭い目で誠を見つめた。韓信は若々しい顔に自信を浮かべ、胸を叩いた。
「陛下、必ず任務を果たして参ります」韓信が力強く答えた。
范増は静かに頷きつつも、心の中で複雑な思いを抱いていた。(張良を元韓に送る……。陛下は説得の最後の機会を与えるつもりか。だが、この頑なな男をどう扱うべきか。今のままで秦に心から仕える事はあるまいて)
旧、韓への旅路。
数日後、張良と蒼海公は宮殿の一室から解放され、范増と韓信率いる一万の軍勢に護送されて元韓の地へと向かった。道中、張良は馬車の中で無言を貫き、蒼海公は隣で不機嫌そうに外を睨んでいた。
范増は別の馬車に乗り、密かに昔からの手勢である20名の暗殺者たちを同行させていた。
これらの暗殺者は、范増が楚の時代から秘密裏に育て上げた忠実な部下たちだった。
黒装束に身を包み、顔を布で隠した彼らは、范増の命があれば命を捨てる覚悟を持つ手練れの者たちだ。范増は誠にこの存在を明かしておらず、万一の事態に備えて自らの判断で動かしていた。馬車の中で、范増は暗殺者たちのリーダーに密かに耳打ちした。
「張良が陛下に仕えぬ場合、最悪の決断を下すやもしれぬ。その時はそなたらの力が必要だ。準備を怠るな」
暗殺者たちは無言で頷き、馬車の影に隠れた。范増は杖を握り、心の中で呟いた。
(陛下には知らせず、この老人が全てを背負うしかない。張良の才は惜しいが、秦の未来が懸かっている)
韓信は軍を統率し、道中の安全を確保していた。若き将軍の鋭い指揮のもと、軍勢は整然と進み、反秦の残党や盗賊の襲撃をまったくという程に寄せ付けなかった。
旅は順調に進み、数週間後、一行は元韓の地――現在の韓城付近に到着した。
そこはかつて韓の都があった場所だったが、今は秦の統治下で大きく変わっていた。上下水道が整備され、農地が広がり、市場には物資が溢れている。孤児院や学校が建ち、民の暮らしは明らかに豊かになっていた。張良は馬車から降り、その光景を静かに見つめた。蒼海公が驚いたように呟いた。
「張先生、ここ、昔とは全然違うぜ。秦の奴ら、ずいぶんと色々やってるみたいだな……。」
張良は無言で頷きつつも、表情を硬く保った。范増が馬車から降り、杖をつきながら張良に近づいた。
「張良、陛下の政策がこの地をどう変えたか、その目で見たであろう。秦の統治は苛政ではなく、民を豊かにするものだ。これでもまだ陛下を拒むのか?」
張良は范増を一瞥し、冷たく答えた。
「確かに、秦の始皇帝の手腕は認めざる得ぬでござる。民が豊かになっているのも事実であろう。だが、私は韓の臣だ。秦に仕えることは、韓への裏切りだ。范増殿、あなたも楚の出身のはず。私の気持ちが分からぬはずはないだろう」
「しかし、その韓はもうないのだぞ。聡明なお主程の男が時節を読めぬとも思えぬ! あまり意地を張るのは身のためにならんぞ!」
「ほう! 范増どのは完全に秦の犬になりもうしたか……。これは残念にござる。しかも、我が身を脅しになるか! それも良いでしょう。韓の再興叶わぬなら我が身は死んだも同然! 好きにするがよろしい!」
范増は張良の言葉に目を細め、少し苛立ち心の中で葛藤が渦巻まく。
(張良の忠義は深い。だが、この頑なさ、この男の韓を思う心は変える事が出来ぬだろう……。放置していては陛下の治世を脅かす可能性もある。我が君以外に、張良が仕える事になっては、秦にとって災いとなり得る事は明白だ。どうすべきか……。)
范増の葛藤と決意
その夜、元韓の地に設営された陣営で、范増は一人天幕の中で考え込んでいた。
灯火が揺れる中、白髪の老軍師は杖を握りしめ、深いため息をついた。
(陛下は張良を活かしたいと願っておられる。だが、この男の忠義はあまりにも頑なだ。韓再興を諦めぬ限り、秦に仕えることはないだろう。ならば、このまま野に放てば、いずれ反秦の勢力に力をかすだろう。それが秦の災厄となればまた戦乱の世に逆戻りとなろう……。)
范増の鋭い目は暗闇の中で光り、心の中で自問自答が続いた。
(張良を説得できれば最善だ。だが、何度も言葉を尽くしても心は動かぬ。この老人が陛下に忠義を尽くすなら、張良を生かしておくべきか、それとも……。)
范増は悩み……決断した。
そして韓信に相談を持ちかけるため、天幕に韓信を呼び、静かに張良の件を切り出す。
「韓信、張良と蒼海公をこの地で始末するつもりだ。陛下の治世を守るためだ。そなたの意見を聞きたい」
韓信は目を丸くし、即座に反発した。
「范増殿、それはなりませぬ! 陛下は張良を活かしたいと仰っておられた。それを暗殺するなど、陛下の意に反する。私には賛同できんし、そんなことに手を貸すつもりもない」
范増は韓信の反応を見て、静かに頷いた。
(やはり韓信は若く純粋だ。陛下への忠義はあれど、この決断には賛同せぬか。ならば、この老人が秘密裏に進めるしかない)
范増は韓信に穏やかに答えた。
「分かった。そなたの気持ちは理解した。この話は忘れてくれ。軍の指揮に専念してくれればよい」
韓信は疑うような目で范増を見たが、それ以上追及せず天幕を後にした。范増は一人残り、杖を地面に突き、心を決めた。
(張良を活かせば、陛下の治世が揺らぎかねぬ。反秦を掲げる勢力に渡れば、後に秦の憂いとなろう。この老骨、陛下のために汚れ役を担うしかない。わしの手勢を使い、張良と蒼海公を葬り、未来の禍根を断つのだ!)
范増の心は重かった。張良の才を認めつつも、秦の未来を優先する決意が固まったのだ。
(陛下! 初めて貴方に背きます! 全てこの老人が勝手にした事。わしはこたびの件で死罪でも構わぬ。陛下に忠義を尽くすためなら、この命を捨てる覚悟はとうにできておる)
暗殺の実行
翌日、范増は韓信に知られぬよう計画を進めた。昼過ぎ、張良と蒼海公を元韓の川辺に誘い出す名目で呼び出した。
韓信には「張良と最後の話し合いをする」とだけ伝え、軍に周囲を囲ませ、二人が逃げられない状況を作らせた。
范増は20名の暗殺者たちに密かに合図を送り、彼らを川辺の茂みに潜ませていた。
川辺で、張良は范増の異様な雰囲気を察し、目を細めた。
「范増殿、何か企んでおるな?」
范増は杖を握りしめ、低く答えた。
「張良、そなたの才は惜しい。だが、そなたが韓再興を諦めぬ限り、秦の敵となる。陛下の治世を守るため、ここでそなたを葬る」
張良は驚き、蒼海公が咆哮を上げた。
「何!? 范増、てめえ!」
その瞬間、茂みから黒装束の暗殺者たちが一斉に飛び出し、蒼海公に襲いかかった。
蒼海公は巨躯を活かし、数人を殴り倒したが、暗殺者たちの動きは素早く統制されていた。短剣が閃き、蒼海公の体に次々と突き刺さる。血が川辺に飛び散り、巨漢は膝をつき、やがて倒れた。
その状況に張良は悟り、逃げようともせず堂々としていた。
暗殺者たちが張良の周りを即座に取り囲み、范増は杖を地面に突き、静かに命令した。
「張良を殺せ。ただし、最後の止めはわしが刺す」
暗殺者たちは張良を押さえつけ、数人が短剣で腕や足を刺した。張良は苦悶の声を上げつつも、范増を睨みつけた。
「范増……。所詮は秦の狗よ……。貴様如きに私の志しがわかるはずもないわ。さっさと私の留めを刺すがよい!」
「ふん。若造が! お前がここ迄ものの分からぬ愚か者とはな……。お前が語るは所詮は亡国悔しの一念のみよ! そこに天下の大義はもう有りはせぬのだ! 貴様に偉大なる陛下の御心は死んでもわかるまい、分からぬ愚かなお前のその罪を地獄で悔いるがよい。愚かなる張良よ。死ね!」
范増は張良に近づき、暗殺者の一人から短剣を受け取り、張良の胸に短剣を突き立てると、血が噴き出し、張良の体がぐったりと崩れた。
范増のか細く衰えた手が血に染まった。
暗殺が終わり、川辺に静寂が戻った。
范増は血に濡れた短剣を地面に落とし、暗殺者たちに命じた。
「韓信をここに呼べ。そして、わしを捕らえるよう伝えろ。この罪はわしが背負う」
暗殺者の一人が馬を走らせ、韓信を呼びに行った。やがて、韓信が馬を飛ばして川辺に駆けつけて、張良と蒼海公の亡骸を見て、韓信は目を丸くし、范増を睨んだ。
「范増殿、これは!? まさか本当に……。!」
范増は静かに答えた。
「韓信、張良を活かせば、陛下の治世が揺らぐやもしれん。もしも、張良が反秦の連中と結びつけば、やがて秦は滅びるやもしれぬ。それが未然に防げるならこの老骨、命は惜しまぬ! 陛下の命に背き張良を殺した事に一片の後悔もないわ! 韓信よ。遠慮はいらぬわしを捕らえ、陛下に報告しろ。死罪で構わぬ」
韓信は范増の言葉を聞き、しばらく黙り込んだ。范増の瞳には、陛下への深い忠誠心と、自らの命を捨てる覚悟が宿っていた。
その范増の意思は韓信に伝播し、韓信の胸に熱いものが込み上げ、目から血の涙が流れ落ちようというくらいになっていた。
韓信は范増の忠義に心を打たれ、内心で深い葛藤を抱く。
(范増殿の忠誠心はあまりにも高潔だ。陛下のために自ら罪を背負い、命を捨てる覚悟……。この老人の行いに私は感動した。だが、どれほど忠義であろうと、陛下の意に反した暗殺は罪だ。許すわけにはいかぬ)
韓信は血の涙を拭い、范増に近づいた。
「范増殿、そなたの忠義に感服した。陛下への想いがこれほど深いとは……。だが、罪は罪だ。私は陛下に報告し、そなたを捕らえるしかない。それが私の務めだ」
「気に病むな。韓信。わしが勝手にやった事よ」
韓信は冷静を装い部下に命じ、范増を拘束した。
元韓の地に血が流れ、張良と蒼海公の命が消えた瞬間だった。
だんだんと血なまぐさい展開になりつつある……。




