第十二話:誠の統治:新たな法律とその緩和
秦の始皇帝・嬴政――佐藤誠として転生した彼――は、戦国時代の終焉と統一を果たした奏の法家の厳格な統治に改革をもたらした。
誠は奏の法律、その冷徹さと厳罰主義が民の反発や臣下の不満を招く危険性を察知し、各春秋戦国時代の思想の長所を取り入れ、法を緩和し調和させるように調整した。
彼は玉座に座り、具体的な法律の改定を命じ、その効果を見極めるべく自ら記録を整理した。
(俺は秦を強国にした法家の現実主義を捨てるつもりはない。だが、厳罰だけで民を縛れば、いずれ反乱が起きる。法を明確にしつつ、儒教の仁や道家の自然さで緩和し、民の心を掴む。それが長期的な安定への道だと考えている。しかし、上手く行くだろうか?)
誠は不安に感じながらも思いつく政策を実行する。
以下に、誠が施行した具体的な法律、その緩和策、そして民や臣下への影響を記す。
1. 農地と租税に関する法律。
従来の法家に基づく法律は商鞅の変法以来、秦では農民に土地を分配し、生産性を高める政策が続いていた。厳格な租税制度が課せられ、収穫の6割を国家に納めることが義務付けられていた。納税を怠れば、即座に土地没収と家族全員の連帯責任による労役が科され、逃亡者は死刑に処された。これにより農耕が奨励され、国力は増したが、農民の生活は困窮し、不満が燻っていた。
これが続くのはやはり問題であると誠は考え対策する。
誠による緩和策。
まずは租税を収穫の4割に軽減した。
さらに、豊作時には3割まで引き下げる特例を設け、不作時には納税猶予を認める「緩租令」を発布した。また、道家の「無為自然」の精神から、過度な干渉を避け、農民が自然のリズムで働くことを尊重する方針を打ち出した。
労役の連帯責任は廃止し、違反者には個別の罰金または短期労役を課すにとどめた。
税収が減る事が懸念され、臣下の反発もあったが、誠は儒教の「仁政」と孟子の「民を子のように愛する」思想で臣下を説得しこれを強引に実行した。
「民は我が子同然である! 我が子の負担を軽くし、愛するは君主として正しい!
それに民の数が増えればやがて税収は増える。民からの税を取る割合を減らして一時的に下がろうが、民が増えればやがて税収も回復し、増える! これは朕の勅命である!」
そう強く言われては臣下も納得せざる得ない……。
秦の始皇帝の権力と圧は絶大だった。
「緩租令」の民への影響はすこぶる評判であった。
農民たちは租税の軽減に歓喜した。
咸陽近郊の農村では、「始皇帝は我らを子と見做してくれた」との声が上がり、奏の始皇帝への忠誠心が民にさらなる広がりを見せた。
豊作時の特例により、余剰穀物を市場で売る農民が増え、経済も活性化した。
不作時の猶予制度は飢餓を減らし、逃亡者も激減した。ある農夫はこう語った。
「以前は収穫のほとんどを奪われ、腹いっぱい食えなかったが。今は違う! 腹いっぱい食えるし生活はより豊になっただ! 皇帝陛下様万歳だべ!」
この緩和策に、法家を信奉する一部の官僚――強硬派――は反発した。
「民を甘やかせば規律が乱れる」と彼らは警告したが、法家の代表の李斯は誠の忠臣でありそれら強引に抑え込み、誠も「民が飢えれば国が滅ぶ」と一蹴した。
一方で、穀物の流通増加による税収の安定を見た穏健派の臣下たちは支持に回り、緩租令を地方に広める協力者となった。誠は彼らを登用し、法家の硬直性を和らげる新たな官僚層を育て始めた。
誠は緩和策がそれなりの効果がで始めた事で気を良くし、更なる政策をはしらせる事を決意する。
2. 軍功爵位制と兵役に関する法律を新たに制定する。
従来の法家に基づく法律は、秦の軍功爵位制である。
戦場での功績に応じて爵位と土地を授ける制度であり、兵士の忠誠と戦意を高めた。しかし、兵役は全国民に義務付けられ、拒否者は即座に斬首、家族は奴隷に落とされた。また、戦功を上げられなかった兵士は報酬を得られず、貧困に喘ぐ者が多かった。
この厳罰が軍の規律を保った一方で、過酷な訓練と長期遠征による疲弊が奏の民衆を苦しめていた。
誠はここにも緩和策でメスを入れた。
誠は兵家の「戦わずして勝つ」戦略と儒教の「民への配慮」を融合させ、兵役制度を見直した。
まず、兵役義務を20歳以上の健康な男子に限定し、貧困層や一家の働き手を免除する「免役令」を制定した。軍功爵位制は維持しつつ、戦功を上げられなかった兵士にも最低限の食料と帰郷支援を与える「帰農支援策」を導入。また、道家の「自然な流れ」を取り入れ、過度な訓練を減らし、休息日を増やした。違反者への罰も死刑から鞭打ちや短期労役に軽減した。
これも民への影響はすこぶる良かった。
免役令により、貧しい農家の若者が兵役から解放され、家族を支える労働力として残れるようになった。帰農支援策は、戦場から戻った兵士が再び農民として生活を立て直す助けとなり、秦の始皇帝への民の信頼が広がった。
休息日の増加は兵士の健康を改善し、脱走者が減った。ある退役兵は言った。「以前は死ぬまで戦うしかなかった。今は生きて帰れる希望があり未来がある!」
臣下への影響や反発もかなりあったが……。
軍の将軍たちは当初、規律の緩みを懸念したが、兵士の士気向上と脱走減少を見て態度を軟化させた。特に、匈奴との繰り返される防衛戦で休息を取った兵士がより効果的に戦った事例が報告され、兵家の実践派も誠の方針を評価した。
一方で、法家の硬派官僚は「軍の弱体化だ」と批判したが、誠は戦果と数字でもって彼らを黙らせた。
将軍の中には、儒教的な「仁」を取り入れた統治に共感し、民兵訓練の指導者として地方に派遣される者も現れた。
続いて誠は奏の法に更なるメスを入れる。
3. 刑罰と監視に関する法律
従来の法家に基づく法律。
法家の「人の性は悪なり」に基づき、秦では厳罰主義が徹底されていた。
窃盗は手首の切断、反逆罪は一族皆殺し、虚偽の報告は舌を抜かれるなど、恐怖で民を統制した。
また、相互監視制度(什伍連坐)が敷かれ、隣人が罪を犯せば通報義務があり、隠せば同罪とされた。これにより秩序は保たれたが、民衆は互いを疑い、共同体が崩壊していた。
(これが続けば人が人を信じれない世の中になるのは無理もない。つまるところ、他人を信じれないから自分すらも信じる事ができない。それが不和を呼び込むようになり人心は乱れる! 刑罰と監視に関する法律も緩和する必要があるな!)
誠による緩和策は「徳で民を導く」思想と墨家の「兼愛」を参考に、刑罰を大幅に緩和する事にした。
窃盗は鞭打ちと労役に、反逆罪は首謀者の処刑と家族の追放に軽減し、身体刑を減らした。什伍連坐は廃止し、代わりに村長や里長を選び、地域の自治を促す「自治令」を施行。道家の「無為」を取り入れ、過度な監視を控え、民が自然に暮らせる環境を整えた。違反者には罰を与えつつ、再犯防止のために教育を施す「教導処分」を導入した。
刑罰の緩和は民衆に安堵をもたらした。
咸陽の市場では、「以前は些細な罪で手が切られた。今は働いて償える」との声が聞かれた。
什伍連坐の廃止で近隣住民への猜疑心が薄れ、村々で助け合いが復活した。教導処分を受けた若者は、読み書きを学び、村の書記役として活躍する例も出た。ある商人はこう語った。「始皇帝は我らを罰するだけでなく、立ち直る道を示してくれた」
この誠の緩和策は民に対して絶大なる支持を得た。
当初は法家の官僚達は「秩序が崩れる」と猛反対したが、結果的に犯罪率が減少し、自治令で地方統治が安定すると批判は弱まった。
儒教に傾倒する臣下は教導処分を支持し、教育機関の設立を提案。誠はこれを認め、地方に「徳育所」を設置し、臣下の意識改革を進めた。一部の将軍は、自治令で民兵が自発的に国境を守る姿を見て、「民の力は侮れない」と評価を改めた。
誠の奏の法律改革は更に続いた。
4. 商業と交易に関する法律
従来の法家に基づく法律はなかなか酷かった。
秦では商人は厳しく監視されたいた。市場での価格統制が敷かれ、違反者は財産没収と労役に処された。交易は国家の許可制で、私的な交易は禁じられ、違反者は死刑だった。これにより経済は国家に依存し、商人の活動はかなり萎縮していた。
誠はここでも緩和策を用いた。
誠は管仲の「経済的な豊かさが礼節を生む」思想と縦横家の外交術を参考に、商業を活性化させる法を制定した。価格統制を緩和し、市場での自由な取引を認める「自由交易令」を発布。私的な交易を許可し、税を課すことで国家の収入を確保した。違反者への罰は没収から罰金に軽減し、商人の創意工夫を促した。また、道家の「自然な流れ」に倣い、過度な干渉を避ける事にした。
そうすると市場が活気づき、商人が地方で交易を始めた。咸陽では絹や陶器の取引が盛んになり、民衆の生活水準が向上した。
農民も余剰穀物を売り、収入を得る者が増えた。ある商人は言った。
「以前は隠れて交易し、捕まれば死だった。それがどうだ! 今は堂々と商売ができ、販路も増えて商売がやりやすくなった!」
交易の拡大で地方の物資不足も解消され、民は多いに喜んだ。
これに対して官僚の一部は「商人が力を増すと国が乱れる」と警戒したが、税収の増加を見て黙認した。
この交易販路の拡大に伴い、縦横家出身の策士たちは、交易ルートを活用した外交を提案し、匈奴との和平交渉を進めた。誠はこれを支持し、商人を外交使節として活用する臣下を登用。経済と外交の結びつきが強まり、臣下の視野が広がった。
そして、誠は教育制度にも改革をもたらす。
5. 教育と文化に関する法律
史実では思想統一の過程で焚書坑儒が起こったりした教育改革だが、誠はそれとは逆を行く政策を打ち出す。
誠による教育制度。
誠は儒教の「教育で民の徳を育てる」思想と墨家の技術力を取り入れ、教育を奨励する「教化令」を発布した。
諸子百家の書物を公的機関で管理し、民に公開。地方に徳育所を設け、読み書きや技術を教えた。道家の「個人の自由」を尊重し、強制的な思想統制をやめ、自由な議論を認めた。過度な内乱思想を伝播するような違反者は取り締まったが、そういう思想も一定量は許容し民の不満のガス抜きとして利用した。
民衆は教育の機会に喜んだ。徳育所で学んだ若者が村の指導者となり、技術を活かして灌漑施設を整備する例も出た。書物が公開されると、老子や孔子の教えに触れた民が「心の平安を得た」と語った。ある農夫はこう言った。「字を覚え、子供に教えられる。始皇帝は我らに未来を与えてくれた」
文化の復興で民の誇りが高まった。
儒学者たちは誠を称賛し、徳育所の運営に協力した。法家の官僚は思想の自由化を危惧したが、民の支持が高まるのを見て反対を控えた。墨家の技術者たちは灌漑や防御技術を教え、臣下としての地位を確立。誠は多様な思想を持つ臣下を登用し、硬直した官僚制に柔軟性をもたらした。
統治の成果と未来への道
誠の法の緩和策は、秦に大きな変化をもたらした。租税と兵役の軽減で民の生活が安定し、刑罰の緩和で共同体が復活。商業の活性化で経済が成長し、教育の普及で文化が花開いた。民衆は「始皇帝は法で我らを守り、仁で我らを救う」と讃え、誠への忠誠が深まった。
しかし、臣下の反応は分かれた。
法家の強硬派は不満を隠さなかったが、穏健派や儒学者、技術者は始皇帝を支持し、新たな統治体制を支えた。匈奴との戦いでは、民兵の自発的な協力と交易による和平交渉が進み、国境が安定。誠はこれを見て確信した。
(法家の現実主義に儒教の仁、道家の自然さ、墨家の技術を融合させた俺の統治は、民の心を掴み、国を強くする。厳罰を緩和しつつ秩序を保つこの道が、俺の方向性だ。今のところは上手く行っているが……。それでもまだまだ懸念はある。)
誠は玉座から立ち上がり、未来を見据えた。彼の法は、冷徹な鉄則を温かな調和で包み、民と臣下を新たな時代へと導いている事は確かだった。
李斯、韓信、范増による誠の政策の評価
誠の統治が軌道に乗ったある日、宮殿の大殿で李斯、韓信、そして范増が召集され、始皇帝の政策を振り返り評価を述べる機会が設けられた。
誠は彼らの意見を聞き、自身の統治をさらに磨く材料とするつもりだった。三者はそれぞれの立場――法家、兵家、縦横家――から独自の視点で誠の政策を分析した。
李斯の評価。
李斯は心情的には誠よりだが、法家の重鎮として、厳格な統治を信条とする立場から語り始めた。
「陛下の統治は、民の支持を得ております。緩租令による租税の軽減や刑罰の緩和で、民衆が陛下を称賛し、忠誠を誓う姿は認めざるを得ません。商業の活性化や教育の普及も、国力の底上げに寄与しているでしょう。しかし、法家の視点からは懸念が残ります。民を甘やかす緩和策は、法の威厳を損なう危険を孕んでいます。韓非子の教えにあるように、人は利己的で、恐怖と報酬でしか統制できません。什伍連坐を廃し、刑罰を軽減したことで、罪を隠す者が増えれば、秩序が揺らぐやもしれません。また、思想の自由化は儒者や道家の勢力を増し、法家の基盤を脅かす恐れがあります。陛下の仁政は短期的な平穏をもたらしましたが、長期的な安定には厳罰と統制が不可欠と存じます。緩和は民の心を掴む巧みな策ではありますが、法の鉄則を緩めすぎれば、秦の礎が崩れるやもしれません」
李斯の言葉は、法家の冷徹な現実主義を反映しつつ、誠の成果を部分的には認める穏当なものだった。彼は誠の寛容さを評価しつつも、統治の根幹に法の厳しさを求める立場を崩さなかった。
韓信の評価。
次に、軍略の天才である韓信も始皇帝に絶大なる忠誠を誓ってはいるが、兵家と実践の視点から忌憚のない意見を述べた。
「陛下の政策は軍事的にも成果を上げております。免役令と帰農支援策により、兵士の士気が向上し、匈奴との戦いで疲弊せず戦えたのは事実です。休息日の増加は兵の健康を保ち、民兵の自発的な協力は国境防衛を強化しました。自由交易令による和平交渉も、戦わずして敵を抑える孫子の教えに適うもの。陛下の『戦わずして勝つ』戦略は、私の兵法とも共鳴します。しかし、懸念もございます。兵役の義務を緩和し、厳罰を減らしたことで、軍の規律が長期的に弛む恐れがあります。戦場では一瞬の躊躇が敗北を招きます。法家の厳罰があってこそ、兵士は命を懸け、将軍は統率を保てるのです。また、商業の自由が進めば、商人が富を独占し、軍事資金が不足する事態も考えられます。陛下の統治は民の心を掴み、国を豊かにしましたが、軍事力の維持には厳格さが欠かせません。緩和策は戦時の柔軟性を高めた一方で、軍の根幹を揺るがす危険も孕んでおります。」
韓信は誠の軍事面での成功を高く評価しつつ、兵家の立場から規律と戦力維持の重要性を強調した。彼の評価は実践的で、誠の緩和策を称賛しつつも軍事への影響を冷静に見据えたものだった。
范増の評価。
最後に、この歴史では奏の重臣となり始皇帝に忠誠を誓う范増が、縦横家の知略と外交的視点から評価を述べた。
范増は静かに口を開く。
「陛下の統治は、縦横家の視点からも見事なものと映ります。自由交易令による商業の活性化は、経済を豊かにし、匈奴との和平交渉を可能にしました。これは張儀や蘇秦が諸国を操った策謀に通じるもの。民の心を掴む緩租令や教化令も、勢力均衡を保ちつつ支持を集める巧みな手腕です。刑罰の緩和と自治令は、民衆を味方に引き入れ、反乱の芽を摘む策と見えます。陛下は法家の厳しさと儒教の仁を融合させ、戦国時代の混沌を終わらせた知恵をさらに進化させた。しかし、危惧もございます。緩和策は民の支持を得ますが、臣下や地方の豪族が力を増せば、秦の中央集権が揺らぐやもしれません。商業の自由は富を生みますが、商人が私利を優先し、他国と結託すれば、国益を損なう恐れがあります。教育の普及は民を賢くしますが、思想の混乱を招き、統一の理念が薄れる危険も。陛下の政策は短期的な繁栄と安定をもたらしましたが、長期には知略と監視を怠らねば、敵に付け入られる隙を与えます。陛下の統治は確かに強力ですが、緩和の度が過ぎれば、かつての六国のような分裂を招くやもしれません」
范増の評価は、縦横家の現実的かつ外交的な視点から、誠の政策を称賛しつつも、中央集権と統一維持への懸念を示した。彼は緩和策の巧妙さを認めつつ、知略による統制の必要性を訴えた。
誠は重臣達の意見に耳を傾けつつ思考する。
(李斯も韓信も范増も完全なる俺のイエスマンじゃないのは嬉しい事だが、心配性過ぎないか? 罪に対して罰が重くなればなる程に、人は罪を犯す事が減るかもしれないが……しかし、罰が重すぎる故に、死を恐れぬならず者が増えて、国が乱れる可能性のがこの時代は高いはず……。だから厳罰主義は緩和する必要があるのだが、なかなか浸透させるの難しいようだな)
李斯、韓信、范増の評価を聞いた誠は、しばし黙考した後、静かに口を開いた。
「李斯、韓信、范増、貴公らの意見はよく分かった。法家の厳罰が秦を強国にしたことは朕も否定しない。韓信の言う軍の規律も、范増の指摘する中央集権も、国を守る柱だ。しかし、厳罰で民を縛れば、恐怖は服従を生むが忠誠は生まれない。朕は法の威厳を保ちつつ、仁と寛容で民の心を掴む道を選ぶ。租税や兵役の緩和は民に生きる力を与え、商業と教育は国を豊かにする。李斯の懸念する秩序の乱れは自治と教導で防ぎ、韓信の軍事への不安は士気と民兵で補う。范増の言う分裂の危険は、民に国に貢献する事が自身に利をもたらすと、理解させ反発を抑える。勿論、監視の目は必要だが極力、自由にし、目に余る事例は厳しく取り締まればよい。秦は厳しさと温かさの調和で統治し、千年続く帝国として繁栄させる。それが朕の信念である! 故に、朕の方針を優先して欲しい」
誠は三人の意見を尊重しつつ、
自身の統治理念を再確認し、未来への決意を新たにした。
彼は法家の鉄則を基盤に、儒教の仁、道家の自然さ、縦横家の知略を融合させ、秦を新たな時代へと導く道を踏み固めた。




