第十一話:史実とは異なる誠の統治の方向性
秦の始皇帝・嬴政――佐藤誠として転生した彼――は、咸陽の宮殿の玉座に座り、目を閉じて戦国時代の思想を振り返った。
500年以上続いた春秋戦国時代の戦乱を武力で終わらせ、法で統治を安定させた今、法で国の方向を決めるたびに儒教の政治批判は高まりを見せている。
史実の秦の始皇帝のように儒学や儒教、その他の思想を統治の邪魔だと潰すようなことはしていない誠ではあったが、それでも何かにつけて黴臭い儒者連中は彼の政治に反発を示していた。
(焚書坑儒のような真似はさらさらする気はない。だが、儒教との融和、ひいては中国の多様な思想と法をうまく調和させ、より良い統治の道を示せないだろうか?)
誠は内心で歴史と哲学を整理し、未来への道筋を模索した。
(春秋戦国時代は、まさに思想の百花繚乱だった。法家、儒教、道家、墨家、縦横家、兵家……。それぞれが国の命運を賭けて競い合い、王族も賢人も盗賊すらも乱世を生き抜くための答えを求め続けた。だが、秦が統一を果たした今、各思想の本質と限界を見極め、統治に活かす時だ。)
法家:現実主義の鉄則と起源。
まず、法家。秦の礎とした思想である。法家は管仲が斉を富ませ、商鞅が秦で変法を進めた現実主義の哲学に起源を持つ。
管仲は「倉廩実ちて礼節を知る」と説き、経済的な豊かさを基盤に法と秩序を確立した。法制度を整え、官僚制を確立し、人民を職業や地域ごとに管理する「士農工商」の制度で社会秩序を安定させた。また、公正な統治で民衆の支持を得て国力を底上げした。
商鞅は秦で厳格な法体系を導入し、農耕と軍事を奨励、国力を飛躍的に高めた。法家の核心は韓非子の言葉に集約される。「人の性は悪なり。利で誘い、罰で縛るべし」。人性は利己的で、欲望と恐怖によってのみ統制が可能だと断じるこの思想は、戦国時代の混沌に即効性をもたらした。
秦での実践例として、商鞅の変法は農民に土地を与え、生産性を高め、軍功に応じた爵位制で忠誠を確保した。法は明確なルールと厳罰で民を統制し、国を強くすることに成功した。だが、商鞅自身は恨みを買い、車裂きにされて殺された。
(法家の厳罰と統制がなければ、秦が大陸制覇を成し遂げることはできなかっただろう。しかし、その冷徹さゆえに民の心を掴むには不十分だ。)
誠は考えた。(法で社会のルールを明確にすることは人々の生活を安定させるが、厳罰に頼りすぎると反発を招く。法をシンプルに保ちつつ、過度な恐怖を与えないバランスが重要だ。俺は法家の現実主義を基盤にしつつ、厳罰を緩和し、民に寄り添う統治を目指したい。)
法家思想に儒教を足して、理想と徳で厳罰を和らげる効果を狙う。
儒教は平たく言えば、理想と徳の追求である。
孔子が周の礼制を理想とし、仁と徳で民を導く思想だ。人の性善説を基に、君主が模範となり、民の心を育てれば争いは消えると説く。
「克己復礼」を唱え、自己を律し礼を重んじることで社会秩序を回復しようとした。孟子はこれを発展させ、「仁政」を掲げ、民を子のように愛し、税を軽くし、教育を広める統治を理想とした。
しかし、戦国時代には現実の混乱に適応できず、儒教は政治の主流とはなれなかった。孔子の故国・魯は衰え、彼自身は諸国を放浪し、多くの君主に冷遇された。
誠は苦笑した。
(理想は美しいが、理想だけでは腹は膨れないし、理不尽な暴力を防ぐのは難しい。だが、法家の冷徹さを和らげ、民の心を育む力はある。)
(俺は法家の厳罰を儒教の仁政で緩和する道を探りたい。法で秩序を保ちつつ、税を適度に軽減し、教育を広めて民の徳を育てれば、長期的安定が得られるのではないか。)
誠は思考を広げる。
道家:心の平穏を統治に取り入れるのはどうだ?
道家は老子と荘子に始まる自然主義の思想だ。「道」を宇宙の根源とし、「無為自然」を説く。統治者は人為的な介入を控え、自然の流れに従うべきだと主張する。
荘子は個人の自由と精神の解放を重んじた。
誠は認めた。
(確かに心の平穏には役立つ。疲弊した民に癒しを与え、統治者の傲慢を抑える教えだ。)
しかし、国家運営には現実離れしているとも感じた。匈奴が攻めてきた時、反乱が起きた時に無為自然では国境を国家も民も守る事ができるはずもない……。
(だが、法家の厳格な統制に道家の柔軟さを加えれば、民の過度な負担を減らし、統治に余裕が生まれるかもしれない。)
墨家:技術と兼愛の実用性はどうだろうか?
墨家は「兼愛」と「非攻」を掲げる理想主義だ。墨子は全ての人を平等に愛し、戦争を否定し、防御技術に優れた集団を率いた。
誠は首を振った。
(匈奴に兼愛を説いても蹂躙されるだけだ。)しかし、墨家の技術力は評価した。
(防御技術を活用しつつ、法家の統制に墨家の互助精神を取り入れれば、民の結束力が上がるかもしれない。)
縦横家と兵家:実践的に補完させてはどうだろうか?
縦横家は外交と策謀の専門家であり、蘇秦や張儀のように諸国を操った。
兵家は孫子や呉起が体系化した戦争の哲学で、「戦わずして勝つ」を理想とした。
誠は認めた。
(縦横家の知恵は外交で、兵家の戦略は軍事で役立つ。統治の基盤ではないが、補完として活用できる。)
誠の方針:法家の基盤に緩和と調和を思考する。
誠は結論づけた。
(俺は法家の現実主義を基盤に、厳罰を儒教の仁政と徳で緩和し、道家の自然さを加えて民の心に余裕を持たせよう。墨家の技術と互助精神で結束を高め、縦横家と兵家の知恵で外敵に対応する。)
(法は明確かつシンプルに保ち、過度な厳罰を避け、民に寄り添う統治を目指す。それが秦を長期的に安定させ、民の心を掴む道だ。)
誠は目を閉じ、未来への道筋を固めた。法家の鉄則を軸にしつつ、厳罰をバランス良く緩和し、各思想の長所を融合させる――それが彼の新たな統治方針だった。
この考えをどうやって現実の政策に落とし込むか……。
こればかりはこの時代に生きる人間の思考では難しいと誠は頭を悩ませる。
しかし、まずは思いつく限りを実行に移す!
そう決意するのであった。
史実では秦の始皇帝の統治は行き過ぎた厳罰化により民の不平不満が酷かったようですが……。
この物語では何とか緩和して行きたいですが、なかなか難しいです。




