第九話:外伝 韓信の視点―屈辱からの救いと新たな誓い
私は韓信、秦の始皇帝陛下の忠実なる配下であり秦国の大元帥である!
陛下に会う以前の私は地位も名誉も金もなく、更には矜持すらも奪われた、赤貧浪人だった。
私はかつて人より抜きん出た能力があると自分を高く見積もり、それを頑なに信じていた。
自分の才能は文武を極め、学は天人以上であり、戦に出れば国士無双、100戦100勝も容易くこなし、内政をさせれば大国の丞相さえ務まる器だと本気で信じていた。
兵法書は『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』全てを暗記した上で応用できる自信がある。
「活躍の場さえあれば……。私に相応しい活躍の場があれば誰よりも成果を上げる事ができるのに!」
しかし、実績も人脈もない私は学んだ様々な学問や兵法を活かす場がなかった。
士官するために必要な事はまずは誰かの目に止まる事が必要であり、私の能力を認めてもらうという事がこれ程に難しい事とは思わなんだ。
私は誰にも相手にされず、楚の淮南で食うや食わずの生活の日々だった。
だが、あの冬の日、秦の始皇帝、嬴政陛下に救われたことで、私の人生は一変した。
淮陰の市場での暮らしは、飢えと寒さに耐える毎日だった。川で潜りで小さな魚を獲り、老婆に飯を世話してもらい……。生きて行くだけで精一杯だった。
ぼろぼろの布をまとい、擦り切れた草鞋で泥濘を歩く姿は、自分でも惨めだと思っていた。
それでも、盗みを働かず、誰かにすがらず、ただ自分の力で生きようともがき、士官を目指すが何処もかしこも門前払い。とりつく島もなければ当てもない。そんな毎日が繰り返される煉獄とも思える毎日だった。
だが、そんなある日のことだった。
市場の路地で、粗野な若者たちが私を取り囲んだのだ。
不遇で不幸なこの身の上の私を、更に虐げるのが目的のようだった。
弱肉強食、今の私はこんな粗野な連中にすら屈する弱者に見えるらしい。
「おい、韓信! また魚乞いか? お前みたいな落ちぶれが生きてても仕方ねえよ! 俺が引導をわたしてやろうか? 殺されたくなかったら、俺の股の下をくぐれ! ほれ! ほれ!」
こいつを腰の刀で殺す事等は雑作もない事だが、私がこいつを私怨で斬り殺したならば私は罪人となろう。
そんな罪人を召し抱える君主はおらぬだろう……。
野次馬の嘲笑が響き、私はうつむいた。
空腹で震える手で地面を支え、言い返す力すらなかった。
屈辱を耐えるしかなく、私は膝をつき、若者の股の下をくぐった。
泥にまみれた手で地面を這い、背を屈めたその瞬間、哄笑が耳を刺した。立ち上がった時、足がよろめき、目の前が虚ろになった。だが、心のどこかでは「いつか必ず」と誓う炎は消えていなかった。
その時だった。
衛兵が野次馬を退かし、一人の男が近づいてきた。威厳ある声が私の耳に届いた。
「韓信、朕は秦の始皇帝、嬴政だ。これより、朕に仕え、秦のために力を貸してくれ」
私は驚き、よろよろと跪いた。
秦の始皇帝だと?
なぜこんな場所に?
私を?
掠れた声で私は答えた。
「陛下……」
そして、陛下は私の震える手を取り、力強く言ってくださった。
「朕はお前の才能を見抜いている。貧しくても、誰に認められずとも、耐えるその心は人間としての素晴らしい資質だ。そしてこんな苦難はもう終わりだ。秦に来れば、暖かい衣と食事が得られ、軍を率いて活躍できる。天下万民の恒久的な幸せのため、秦のため、朕にその力を貸してくれ!」
「陛下の救済に感謝します……。私はこの命を捧げ、秦に仕えます」
陛下に連れられ、陛下の臣下に守られながら咸陽へ向かう道すがら、私の絶望の日々が終わりを迎えたことを実感した。
咸陽に到着した私は、秦の都の壮麗さに息を呑んだ。石畳の道、威容を誇る宮殿、往来する人々の活気――これまで淮陰の市場で見たどの光景とも異なる世界がそこにあった。陛下の側近に導かれ、まず温かな湯で身を清め、新しい衣を纏った。粗末な布と擦り切れた草鞋しか知らなかった私にとって、絹の柔らかさと革靴の堅牢さは別世界のようだった。そして、初めて味わう満腹の食事――炊きたての米と熱い汁、肉の香ばしさは、飢えに慣れた私の体に力を取り戻してくれた。
陛下は私を宮殿の一室に呼び、こう仰った。
「韓信、朕はお前の才を見込んでここに連れてきた。秦は中華を統一したが、未だ各地で反乱の火種がくすぶっている。内政も軍事も完全には掌握しきれていない。お前にはその才を存分に発揮し、秦を支えてほしい。まずは軍の補佐として働き、やがて大元帥として秦軍を率いてもらうつもりだ」
私は深く頭を下げ、答えた。
「陛下のご信任に報いるため、この命を賭して尽力いたします」
最初の任務は、秦軍の兵站と装備の強化、そして反乱に備えた準備だった。陛下は私に、軍の補給線を盤石にし、各地の不穏な動きを抑える策を講じるよう命じた。私は早速、『孫子』や『六韜』の教えを思い起こし、実践に移った。
まず、各地の駐屯地の状況を調査したところ、武器や鎧の質が部隊間で不揃いであり、補給物資の管理も杜撰な箇所が見られた。
私は補給の流れを一元化し、各駐屯地に必要な物資が迅速かつ確実に届く仕組みを構築した。具体的には、馬車と伝令を活用した輸送網を再編成し、反乱の兆候があれば即座に対応できる態勢を整えた。
これにより、物資の不足による不満が減り、兵士たちはいつでも戦える準備が整った。
さらに、兵士たちの士気を高めるため、食事の質を向上させた。単なる糧食ではなく、栄養を考えた献立を導入し、長期間の駐屯でも体力を維持できる携行食を支給した。
『呉子』の「兵は食に頼る」という言葉を信条に、反乱鎮圧の鍵は兵士の意欲にあると考えたのだ。結果、軍の結束力は強まり、陛下からも「韓信、迅速かつ的確な改革だ」とのお言葉を頂いた。
次に陛下は私に、統一後の大陸各地で起こりうる反乱に備えた戦略の立案を命じた。
私は『尉繚子』の「知彼知己、百戦不殆」の教えを基に、まず各地の情勢を把握することから始めた。斥候を派遣し、旧楚や旧趙、旧魏の領地で不満を抱く勢力の動きや、民衆の声を集めた。
さらに、秦軍の配置を分析し、どの部隊がどの地域で最も効果的に動けるかを検討した。
私が提案したのは、反乱の芽を早々に摘む「分進監視」の戦略だった。
秦軍を小部隊に分け、各地に分散配置しつつ、主要な街道や拠点を押さえる。これにより、反乱勢力が結集する前に動きを封じ込められる。私はこの案を陛下に進言し、演習を通じて実効性を証明することとなった。
演習では、私が自ら指揮を執り、各部隊に的確な指示を出した。旧楚の地を想定した模擬戦では、反乱勢力が拠点とする村を包囲し、補給路を断つ作戦を展開。兵士たちには「民を傷つけず、敵のみを制せ」と命じ、統率力を発揮した。
演習は成功裡に終わり、陛下は「韓信、この策は反乱を未然に防ぐ妙手だ」と高く評価してくださった。私はこの瞬間、初めて自分の才が秦の安寧に繋がる実感を得た。
私は大元帥へと異例の昇進をした。
兵站・輸送・軍事・戦略、部門での数々の功績を認められ、陛下の強い推薦もあって、わずかの間に私は秦軍の大元帥に任命されてしまったのだ。
陛下は私に全軍を統括する権限を与え、
「韓信、秦の天下を永遠に守るのはお前だ」
とまで言ってくれた。
私はその重責に身が引き締まる思いだった。
そして、陛下の期待に全力で応え、常に最高の結果を出す事に注力した。
最初の試練は、旧趙の地で起きた反乱だった。旧貴族の残党が民を扇動し、秦への抵抗を始めたのだ。
私は事前に地形を調査し、山間部を利用した包囲作戦を立案。反乱軍が拠点とする砦を急襲し、指導者を捕縛した。戦闘はわずか半日で終わり、民衆には寛容な処置を施して帰順を促した。
この迅速な鎮圧は秦の威信を示し、他の地域への波及を防いだ。
次に旧魏の地で起きた反乱では、私は情報戦を展開した。反乱勢力が民を味方につける前に、秦の施策――税の軽減や農地の支援――を広く知らせ、民心を離反させた。さらに、敵の補給を断つため河川を活用し、反乱軍を孤立させた。
『三略』の「戦わずして勝つ」という教えを実践したこの戦いは、流血を最小限に抑えつつ勝利を収めた。陛下は「韓信、お前の知略は秦の礎を固める」と目を細めて褒めてくださった。
戦場での成功に加え、私は内政でも成果を上げた。
反乱で荒れた地域の復興を任され、農地の整備や灌漑施設の建設を推進。民が自立できるよう市場の活性化も図った。
これにより、旧諸国の民の秦への抵抗を緩和し、反乱の火種を減らして行くもくろみだ。
咸陽の宮殿で陛下と対面するたび、私はかつての自分を思い出す。
淮陰で股の下をくぐり、泥にまみれたあの日の屈辱は、今や遠い過去だ。陛下に仕え、秦の安寧を守ることで、私は自分の存在意義を見出した。
そして、陛下が仰っしゃる。
「天下万民の恒久的な幸せ」
それに貢献出来た事に私は心から嬉しく思う。
こうして、
秦国は以前より安定度が増したがやはり大陸は広い。
しばらくして、会稽で項氏の反乱が起こり鎮圧の命令が降った。
咸陽での日々を重ね、私が大元帥として秦の軍を統べるようになってから、陛下の信頼はますます厚くなった。ある日、陛下は私を急ぎ宮殿に召し出し、厳かな声でこう仰った。
「韓信、会稽の地で項梁とその甥の項羽が反乱を起こした。旧楚の勢力を糾合し、秦に刃を向けている。この反乱を早々に鎮圧し、項梁と項羽を生け捕りにせよ。だが、民をできるだけ傷つけることなく、秦の威信を示すのだ。お前ならできると信じている」
私は深く頭を下げ、「陛下のご命令、必ずや果たします」と答えた。
陛下はさらに、
「この戦には范増を同行させよ。彼の知恵がお前の力となるだろう」
と陛下の軍師をつけてもらえる事となった。
范増は老練な策士として知られ、かつて楚の復興を夢見たという噂の男だが、今は秦に仕えている。
というより陛下に絶対なる忠誠を誓っている。彼とは年は離れているが私とは気が合いそうな気がする。
それに彼の洞察力と密偵の情報網があれば、項氏の動きをより的確に読めると私も考えた。
戦略の立案と準備。
私は直ちに作戦会議を開き、范増と共に会稽の情勢を分析した。
斥候の報告によれば、項梁は旧楚の貴族や民を扇動し、項羽はその武勇で兵を率いている。会稽は山と川に囲まれた地形で、守りを固めれば長期戦にも耐えられる。
私は『孫子』の「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」を胸に、まず敵の弱点を洗い出した。
范増は項梁の性格をこう評した。
「項梁は誇り高く、民の支持を得ることに執着する。だが、性急で大局を見失いがちだ。一方、項羽は勇猛だが、短慮で感情に流されやすい。韓信殿、この二人を分断し、戦意を挫けば、生け捕りも難しくない」
私は范増の助言を基に、以下の作戦を立てた。
分断策: 項梁と項羽を別々の戦場に引き離し、連携を断つ。
心理戦: 民衆に秦の寛容さを示し、反乱への支持を削ぐ。
包囲網: 会稽の主要な街道と河川を押さえ、補給を断ちつつ一気に仕掛ける。
私は秦軍を三部隊に分け、第一部隊を私が率い、第二部隊を范増に預け、第三部隊を予備として後方に控えさせた。
準備が整い、軍を進発させ、会稽へと向かった。
会稽に到着した私は、まず民衆に向けた布告を出した。
「秦は反乱の首謀者を罰するが、民を害する意はない。帰順すれば罪は問わず、暮らしを保障する」と。これにより、項氏に味方する民の数が減り、反乱軍の士気は揺らぎ始めた。
初戦は項羽が率いる部隊との遭遇だった。
彼は自ら先頭に立ち、猛然と突撃してきた。私は『六韜』の「敵を誘い、その勢いを挫け」を応用し、あえて後退するふりをして項羽を誘い込んだ。
山間の狭路に引き寄せたところで、伏兵を配置した第一部隊が側面から急襲。
項羽の軍は混乱し、私はさらに追撃をかけ、彼を孤立させた。
だが、項羽の武勇は噂以上だった。一騎当千の勢いで兵を薙ぎ払い、包囲網を突破しようとした。
私は冷静に状況を見極め、直接対決は避けつつ、弓矢と投石で動きを封じた。
疲弊した項羽を捕らえるため、私は「降伏すれば命は保証する」と何度も呼びかけるが項羽の戦意は衰えない。
それから何度となく激しい抵抗を続ける項羽だったが……。
物量に押され体力の限界が来たのか、ついには力尽きた。
そして私は項羽に縄をかけ、生け捕りに成功した。
互角の兵数であれば、正面から戦えば項羽に勝る人間は古今東西いないやもしれぬ。
項羽を捕らえた私は、次に項梁の拠点へ向かった。
范増が率いる第二部隊はすでに項梁の補給路を押さえ、彼を会稽の城砦に閉じ込めていた。
范増は私にこう進言した。
「項梁は甥を失えば動揺する。項羽が捕らわれたと知らしめ、降伏を促しましょう」
私は范増の策に従い、項羽を城砦の見える場所に連れ出し、「項梁よ、甥は我が手に落ちた。無駄な血を流さず降伏せよ」と叫んだ。
項梁は城壁の上から項羽を見て取ると、顔を歪ませた。范増はさらに使者を送り、
「命の保証はする。
ただし、反乱を続ければ容赦はしない」
と伝えさせた。
項梁は民の支持を失い、補給も尽きた状況で抵抗を諦め、城門を開いた。
私は軍を率いて入城し、項梁を縛り上げた。彼は私を見据え、「韓信か……。貴様の名は聞いたことがある」と吐き捨てた。
私は静かに答え、「陛下の命により、貴公を生かす。恨むなら己の選択を恨め」と。
項梁と項羽を生け捕りにした私は、反乱軍の残党を解散させ、民衆に食料と支援を配った。
これにより、会稽の民は秦への敵意を和らげ、平穏が戻った。
私は二人の捕虜を連れ、咸陽へと凱旋した。
宮殿で陛下に謁見した私は、経緯を報告した。「陛下、会稽の反乱は鎮圧し、項梁と項羽を生け捕りにいたしました。秦の威を示せたかと存じます」
陛下は満足げに頷き、「韓信、范増、よくやった。お前たちの才があれば、秦の天下は揺るぎない。項氏を生かし連れて来た事も高く評価しよう」と褒めてくださった。
私は范増と共に頭を下げ、陛下の信頼に応えられた事に安堵した。
こうして、会稽の反乱は流血を最小限に抑えて鎮圧された。
項梁と項羽は咸陽に連行され、秦の支配はさらに強固なものとなった。
そして私は心に誓った。
「陛下の天下、陛下の身を この命ある限り、私の全身全霊持って命に懸けても守り抜く」と。
韓信(かんしん、紀元前231年頃 - 紀元前196年)は、中国の前漢時代初期に活躍した著名な軍事家であり、劉邦(前漢の初代皇帝、高祖)の重要な将軍の一人です。彼は卓越した戦略家として知られ、漢の建国に大きく貢献しました。
韓信は楚の淮陰(現在の江蘇省淮安市付近)に生まれ、貧しい家庭で育ちました。若い頃は貧困に苦しみ、食事を乞うこともあったと言われています。また、彼には有名な逸話「胯下の辱」があります。地元のならず者に「俺の股の下をくぐれ」と侮辱された際、韓信は怒りを抑えて屈辱に耐え、その場を去りました。このエピソードは彼の忍耐力と大局を見据える姿勢を示すものとして後世に語り継がる程有名です。
本来の歴史では功績のわりに悲しい運命を辿る韓信ですが、この物語ではできるだけ韓信をハッピーな人生を送らせてあげたい!




