第八話 外伝:范増の視点―老軍師の過去と新たな忠義
わしは范増、楚の地に生まれ、長い年月を鬼謀妙計に費やし繰り出し、他者の生命を沢山散らし、生きてきた。
戦乱の中で幾度も死地をくぐり抜けた。
若き日は楚の貴族に仕え、韓や魏との戦いで知恵を尽くしたが、秦の勢いに抗えず、故国は滅亡した。
その後、隠遁し、世の流れを静かに見守ってきた。
項羽という若者に仕える道も考えたが、私はまだその時を待っていた。だが、あの秋の日、秦の始皇帝、嬴政陛下に召されたことで、私の人生は再び動き出した。
始皇帝陛下の存在は今の中華に生きる者ならば誰もが知っている。
500年以上続いた戦乱の世を武力で統一した稀代の傑物に足る王だ。
旧六国を滅ぼした武断の王ではあるが、民に対する仁政には目を見張る物がある。
匈奴の防衛に関しても事前に準備を怠らず、中華の民に安心を与えている。
わしが咸陽に呼ばれた時、匈奴との戦いが終結したばかりの時だった。
陛下が匈奴の襲来に備え、万里の長城と内陸の守りを固めて敵を退けたという。
わしはその詳細を知らなかったので、自身が持つ密偵から情報を集めせて報告を聞いた時、驚嘆を隠せなかった。
わしは思った。
(始皇帝は、軍事と内政を完璧に調和させている。楚の君主にはなかった統率力であり。実行力だ。匈奴襲来の時期をどう予見したのかは分からぬが、その決断力は驚異的だ)
匈奴防衛の後、陛下が私を探し出して使者を送ってきた時、私は驚きを隠せなかった。
楚の滅亡後、隠遁していた私をどうやって見つけたのだろうか? そんなに目立つ真似をした覚えはないが……。
わしは使者に丁重に案内されるま咸陽に連れられ、広間で陛下と対面した。
陛下に対面した瞬間、わしの心は揺れた。
陛下は玉座から立ち上がり、自らわしに近づき、深く頭を下げたのだ。
「范増、朕が秦の始皇帝、嬴政だ。お前の知略を聞き及んでいる、その能力を秦のために使って欲しい。朕に力を貸してほしいのだ。匈奴を防いだが、秦をさらに強くするにはお前が必要なのだ」
その一瞬、私は言葉を失った。
楚の貴族に仕えた頃、君主が私に頭を下げたことなど一度もなかった。
秦の始皇帝は歴史上、これ以上の存在はいないという偉業を成し遂げた君主だ。
陛下はこの世の誰にも頭を下げる事を必要としない、至高の存在なのだ。
その陛下がわし如き隠者に礼を尽くし、頭を下げ臣下になって欲しいと乞うてくださる。
わしはこれだけで、始皇帝という存在がとても好ましい存在に思えた。
わしはかつて仕えた君主に知恵を尽くし、戦場では様々な策を巡らせたが、結果をだしても報われることは少なく、ましてや君主に頭を下げられて礼を言われる事もなかった。
楚に仕えていた私は、楚の名門、項梁、項羽に仕える道も考えたが、項羽の若さと荒々しさに、私はまだ距離を感じていた。
だが、始皇帝陛下は違う。自ら頭を下げ、私が必要だと言ってくださるのだ。
私は過去の苦い記憶を思い出した。
(楚の君主は我が策を軽んじ、軽々に扱う事の方が多かった。楚国が滅び秦国が中華を統一した今、わしを求めて陛下は頭を下げる。この陛下は私の知恵を真に求めている……。この徳の高さは、ただ者ではない)
わしはしばらく黙考し、杖を握る手に力を込めた。そして、低く答えた。
「陛下自らがわしのような隠者に頭を下げるとは……。私は旧楚の民に過ぎませんが、陛下の志に心を動かされました。陛下のため、ひいては秦のために知恵を尽くしましょう」
陛下が笑みを浮かべ、私の手を取った時、私は老いた胸に熱いものを感じた。
陛下に仕える決意を固めた私は、早速その実力を試される機会を得た。
陛下が韓の臣下だった張良を探し、味方に引き入れたいと望んだのだ。
わしは張良の名を知っていた。韓の滅亡後、隠遁していると噂される天才軍師だ。
彼を今の段階で捕えるのは賢明な一手だ。
流石は陛下である。
「陛下、張良は蒼海公という巨軀な武術の達人と共にいます。捕えるなら、それ相応の準備が必要となるでしょう」
陛下が頷き、
「范増、お前に将と万の兵士を預ける、張良と蒼海公を捕まえよ。だが、殺さず、丁重に扱え」
と命じられた。
わしは王翦将軍と協力し、作戦を練った。王翦の老練な統率力にわしの知略を重ね、万の兵士を動かした。
わしと王翦将軍は張良の隠れ家を包囲する策を立て、二人の抵抗を最小限に抑えた。
張良も蒼海公もあっさりと生け捕りが成功した。
彼らは咸陽の牢屋に丁重に収容された。
楚での日々を振り返れば、私は鬼謀妙計発案し、忠義を尽くしても報われず、そして楚国は滅んだ。
わしは老いた今、このまま隠遁生活で終わるかと思っていたが、陛下に召され、新たな道が開けた。
陛下は人材を欲して心から大事にするお方だ。
張良と蒼海公を捕えたことも、陛下の深い志の表れだろう。
その夜、わしは陛下の御前に跪いた。
広間に響く秋風の中、私は杖を握り、声を絞り出した。
「陛下、わしを配下とし、張良と蒼海公を捕えてなお丁重に扱う……。あなたの徳の高さに、私は心から感服いたします。
楚で仕えた君主にはなかった仁と知恵が、陛下にはあります。わしはこの老いた身を捧げ、秦をさらに強き国とするために尽くすことを誓います」
陛下が微笑み、私の手を取った。
「范増、朕は秦を導きさらなる発展を望む。范増よ! 共に歩もうぞ」
わしは涙を堪え、深く頭を下げた。
「陛下、あなたこそが秦の光です。この命ある限り、忠義を尽くさせていただきます」
范増(はんぞう、紀元前277年頃 - 紀元前204年)は、中国の秦末から楚漢戦争の時期に活躍した政治家・軍師で、特に項羽の側近として知られています。
彼は優れた知略と洞察力を持ちながらも、最終的には項羽との関係が破綻し、悲劇的な結末を迎えた人物です。以下に范増の代表的な逸話をいくつか。
范増の最も有名な逸話は、紀元前206年に起こった「鴻門之会」です。このとき、項羽は劉邦(後の漢の高祖)を宴に招き、范増は劉邦が将来項羽の強力な敵となることを見抜いていました。范増は項羽に「今すぐ劉邦を殺すべきだ」と強く進言し、宴の席で暗殺の機会をうかがいました。合図として玉の杯を掲げるなど、暗に項羽に決断を迫りましたが、項羽は優柔不断で決断を下せず、劉邦は范増の策を逃れて生き延びました。この出来事は、范増の先見の明と項羽の判断力の欠如を象徴するエピソードとして後世に語り継がれています。
范増は70歳を過ぎてから項羽に仕え、「亜父(あふ、第二の父)」と呼ばれるほど信頼されました。彼は項羽の軍事戦略を支え、特に秦の滅亡を早めるための助言を行いました。例えば、秦の都・咸陽を攻略する際、范増の策が功を奏したとされています。しかし、項羽が感情的で短慮な性格だったため、范増の忠言が聞き入れられないことも多く、それが後の悲劇につながりました。
范増と項羽の関係が決定的に悪化したのは、劉邦の離間策によるものでした。劉邦の側近・陳平が「范増が裏で劉邦と通じている」という偽情報を流し、項羽の猜疑心を煽ったのです。項羽はこれを信じてしまい、范増を遠ざけました。激怒した范増は「これ以上あなたを補佐することはできない」と項羽のもとを去り、故郷へ向かう途中で病に倒れ、亡くなったと伝えられています。このとき彼は73歳でした。范増の離脱は、項羽の滅亡を加速させる要因の一つとされています。
范増は鋭い洞察力と戦略眼を持つ人物として高く評価されますが、項羽の性格を見抜けず、最後まで彼を導ききれなかった点で限界も指摘されます。『史記』では、司馬遷が范増を「知恵はあるが運に恵まれなかった」と評しており、彼の人生は知略と運命のせめぎ合いの象徴ともいえます。
范増はとても忠義者でありとても優秀な人間なのです!
そんな忠義者で素晴らしい能力を持った范増を知っている誠は、心から范増を欲して頭を下げるのは当然といえば当然かもしれません。




