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安良津町の路地裏で女の子が神隠しにあうという噂

作者: 深崎伸


 何故僕は、あんな馬鹿な真似をしてしまったんだろう……?


 安良津(あらつ)という名の寂れた町に僕達一家が引っ越したのは、7月末のちょうど学校が夏休みに入った直後という、悪い意味で絶妙な時期のことだった。

 父の仕事の都合だからしょうがないのは頭では理解できる。それでも友人どころか見知った顔すらいない田舎の町で夏休みを過ごすというのが僕達兄妹にとって如何に退屈な事だったか、それは誰からも理解してもらえると僕は思っている。

 夕方のTVに流れる昔の特撮の再放送。それを観るのが唯一の楽しみなくらいに一日をダラダラと過ごしていた僕の元に友人から一本の電話が入ったのは、8月の上旬が終わり、もうすぐお盆になろうかという時期であった。


 名字の最初の一文字をとって、仮にA君としておく。父親の仕事の都合でそもそも転校の機会が多かった僕が彼に始めて出会ったのは、前回の引っ越しの時の三年前――僕達が小学五年生の時だった。

 オカルトや未確認生物に謎のオーパーツ――趣味が同じこともあり、僕は彼とはすぐに仲良くなった。少なくとも僕の方は、彼のことを親友だと今でもそう思っている。

 同じ町で過ごしたのはたった三年間だけだったが、その間僕達は放課後も良くつるんで遊んでいた。僕にとっては今でも良い思い出だし、今回の引っ越しで彼と別れることになったのは本当に寂しかった。

 だが、これは全部僕から見てのことである。

 僕とA君とでは大きく異なる点があった。

 僕は本を読むのが好きだった。本を読んでいる時間だけならクラスの誰にも負けない自信もあった。

 だが、逆に言うとそれだけである。チビでひ弱で、典型的なもやしっ子だった僕が、他に誇れるようなものは特には無かった。運動の苦手な優等生――と言える程に成績が優秀だった訳でもない。悪い訳でもなかったが。

 だが、A君は違った。彼は頭も良かったし、運動もできた。加えて聡明で人当たりも良く、クラスの誰もが一目置いていた。

 僕は彼のことを親友だと思っていたのは先に述べたが、同時に彼に対する強い憧れも胸の内にはあった。

 そんなA君が久々に電話を掛けてきてくれたものだから、只でさえ退屈な夏休みを過ごしていた僕が喜び勇んでしまったのは我ながら仕方の無いことだと思う。


 尼司(にし)峠には化け物の言い伝えがある――A君が電話口でおもむろに切り出したのは突拍子も無い、それだけに暇を持て余していた僕の興味を激しく掻き立てる昔話だった。

 尼司峠という名前だけは、この町に引っ越して来た後に僕も聞いた覚えがあった。

 安良津町と、町を取り巻く山々の間に位置する丘陵部。丘陵と言っても鬱蒼とした樹木に一面覆われているらしく、正直僕からしてみれば山岳部との境目の区分などあってないようなものとしか思えなかった。

 とにかく、その尼司峠を走る旧道に沿って進めば、やがて廃トンネルに辿り着く。更にそのトンネルを抜けた先には鏡面のように白い湖が広がっており、その中央の小島には一つの大きな御柱が墓標のようにそびえ立っている。そこに化け物達が封じられているのだが、湖の周りには大鴉の群れが陣取っており、その化け物達が外の世界に逃れ出るのを防いでいるのだという。


 流行のアニメじゃあるまいし――A君の話を聞いた時の僕の正直な感想はそれだった。だが与太話が過ぎると僕が電話口で笑い飛ばさなかったのは、何よりもA君には一目置いていたことと、先日に妹が似たような噂を聞いてきたことを思い出したからである。

 と言ってもA君の語った伝承のような、良くも悪くも外連味のある話ではない。どこで聞いてきたのか、妹の言うこの安良津町の噂話とは、夜の尼司峠には泥だらけの怪物が彷徨っており迷い込んだ人間をさらっているのだという、どこにでもある他愛の無い怪談だった。


 『それでだよ――』


 電話口の向こうのA君の雰囲気が一変した、そんな気がした。口調そのものが変わった訳ではない。上手くは言えないが、一足先に僕の知らない大人の世界に足を踏み入れた、そんな越えられない溝のようなものを感じた。

 A君が言うには、ただの言い伝えなどではなく、実際に彼の遠縁の人間が今も峠を護る儀式を欠かさず行っているのだという。

 後学の為に、実際に一度峠を見てみたい。久しぶりにお前にも会いたいし、ついでに峠まで案内してくれないか――それがA君が僕に電話を掛けてきた理由だった。

 僕としてもA君に会えるのを拒む理由は何も無い。二つ返事で案内を引き受けた僕だったが、日程の確認とは別にもう一つ彼に訊いておきたいことがあった。

 A君の語った尼司峠の伝承は勿論、妹の拙い噂にしても僕はまったく知らなかった。妹の聞いた噂だけに限って言えば、夜に不審者か何かを見誤っただけとしか思えない。幾らA君がオカルト好きだと言っても、わざわざ電車を乗り継いでまで見に来る程のものだとは到底思えなかった。

 僕の疑問に、いつもは聡明なA君にしては珍しく、彼は言葉を濁した。


 『まぁ、家業と言うか、修行と言うか……』


 そこまで言ってから、少しの間を置いてA君はこう続けた。


 『久しぶりに一緒に遊びたいって理由じゃだめか?』


        *


 A君がやって来るのが三日後と決まった時点で、僕の頭の中にはある一つの計画が浮かんでいた。

 既に話した通り、彼に案内を頼まれた尼司峠については僕も名前と大まかな場所しか知らない。A君にしても引っ越して間もない僕に本気で案内を頼んだ訳でなく、峠に行くこと自体が『一緒に遊ぶ』ことだというのも心得ていた。しかし――


 (下見に行こう……!)


 僕がそう決意したのはそこまでおかしな話ではないと自分でも思う。友達として、スムーズに案内する為にもむしろ下見しておかないと失礼なんじゃないかというのも本心ではあった。それは嘘ではない。


 何故僕は、あんな馬鹿な真似をしてしまったんだろう……?


 A君にいいところを見せたかった。結局のところは、これだった。どんなに言い繕ってみたところで、僕はA君の鼻を明かしたかったのだ。

 僕が彼に裏で何かされた訳ではない。A君は人を小馬鹿にするような男ではなかった。彼は何でもできる、僕の憧れだった。だからこそ僕は、A君の友人として釣り合わないのではないのかと、ずっと心の内で不安だった。自分と違い何でもできる彼が心底羨ましかった。

 だからこそ、道案内を完璧にこなして、感心するA君にこれくらい朝飯前だよと涼しい貌で言ってみたかった。

 僕は心のさもしい、大馬鹿者だった。


 電話のあった翌日に、パートに出かけた母が作り置きしてくれた昼食を済ませた僕は、尼司峠に早速自転車で向かうことにした。

 わざわざ夏の昼日中に出発するのはそれなりの理由があって、要は午前中は妹の宿題を見てやる兄としての義務が僕にはあったからである。

 それはともかく、尼司峠まで片道で小一時間。現地をトンネルに到着するまであちこち見て歩くにしても二時間あればいけるだろう。隣町で早速働きだした母親がいつも夕方に帰って来るので、それまでにはある程度余裕をもって家に帰り着いているという試算である。

 そして昼に出掛けるもう一つの秘かな理由、それは噂通りの化け物の実在まで考慮すると途端に与太話となるが、不審者にしろ野犬にしろ、昼の明るい内なら遭遇する危険も少ないだろうという、いささか情けない判断にあった。

 ここまでは昨日たてた計画通りであったが、予測していなかった一つの大きな障害が立ち上がった。妹が、一緒に付いて行くと言って聞かなかったのだ。


 妹の郁子は僕の四つ下の小学四年生だった。兄妹仲は良い方だと思うが、僕の外出にべったりくっ付いてくるようなことはこれまで無かった。それが今回に限り駄々をこねたのは、僕と同じで夏休み早々の転校で親しい友達も無く、暇を持て余していたからだろう。

 中学生の僕達とは違い、前の町の友達の小学生が、わざわざ電車を乗り継いで遊びに来ることが可能だとも思えない。

 軽い溜息と共に僕が妹の同行を許したのは、根負けしたのは勿論だが、友達のいない妹を哀れに思ったからである。

 妹の為に良かれと思ってやったのだ。ただ良かれと思って。


 僕は愚かだった。


        *


 尼司峠に到着するまでの道のりは、特に話すようなこともない。僕と妹とでそれぞれの自転車に乗って、途中の商店で安いアイスを妹に奢ってやったくらいだ。

 そのような休憩を挟んでも峠には当初の見込み通り14時過ぎには着くことが出来た。

 道の傍らの荒れた空き地に自転車を停めて、僕達兄妹は徒歩でトンネルへと向かうことにした。思っていたよりは勾配が急に見えた為、自転車を押して行くのは妹にとってちょっと辛いのではないかと僕は危ぶんだ。

 ぬかるんでこそいないが、峠の奥へと蛇行して伸びる道が、明らかに舗装されておらず自転車には不向きだったこともある。

 夏の暑い盛りのこともあり、僕も妹も帽子を被って出発した訳だが、これまでの自転車での道中と異なり、峠を歩きだしてからはそこまで陽射しに悩まされることは無かった。道を奥に進む度に両脇の木々はその枝振りを増し、天然の日傘として僕達を日差しから守ってくれた。

 サクサクと足下の枯葉を踏みしだきながら、妹は妙に楽しくなってきたのか歌まで歌い始める始末だった。お気に入りのピンクのつば広帽が、その歌に合わせて僕の前方でピョコピョコ揺れていた。

 その様子についつい苦笑を浮かべる僕だったが、しばらくして周囲の違和感にはたと気付いた。

 枯葉――尼司峠が満足に手入れもされていない荒地であることは足を踏み入れてからすぐに分かったが、それにしても枯葉の量が尋常ではない。それも秋の紅葉のような鮮やかな色彩とは明らかに異なる、どす黒く濁った落ち葉。まるで毒素によって立ち枯れしたのではないか、そんな嫌な想像をしてしまう程に鬱々とした雰囲気があった。

 僕の背筋を冷たい汗が流れる。一度意識し始めるともう駄目だった。周囲の異様さが僕の中で必要以上に際立っていく。

 自分達兄妹の他に、この峠に着いてから人の姿を見掛けてはいない。

 山の中と言っても差し支えないのに鳥の鳴き声一つ聴こえてこない。


 蝉の声すらも。


 引き返した方がいいのではないだろうか、否、引き返すべきだ。元々気の小さい僕はそう意を決すると、前を早足で進む妹を呼び止めようとした。

 だがその時には妹の姿は覆い茂る樹木の影と蛇行する道に紛れて隠れてしまっており、僕は慌ててその後を追った。妹とはぐれてしまうのではないかという怖れが僕を走らせたが、案の定と言うべきか、「お兄ちゃん!」という悲鳴のような妹の声が前方に響いた。


 「郁っ!?」


 遅いなりに懸命に声の元に走った僕の前に現れたのは、廃屋に等しい粗末なあばら屋と、立ち尽くす妹と、その妹の前に立つ不気味な老婆の姿だった。

 一見して、浮浪者か気狂いの類だと僕は慌てた。後で思い返してみると、老婆の着ていた作務衣めいた服はとても古びたものではあったが、そこまでゴミ屑めいてボロボロでもなかった気がする。


 「あ…う……」


 老婆が不意に、くぐもった声を発した。日本語とも思えぬ、吃音めいた唸り声。老婆が節くれ立った指を妹の方へ伸ばすのを見た時、僕は咄嗟に妹の手を引っ張り駆け抜けようとした。

 その勢いもあったのだろう、老婆はその場でよろめき、ヨロヨロと倒れた。

 今が好機とみて、僕は今度こそその場から逃げ出そうとした。だが、妹は違った。妹は僕の手を振り払うと老婆の元へ駆け寄り、尻餅をついたまま立ち上がれない彼女を助け起こそうとまでした。


 「郁っ!」


 叱りはしたが、強情な妹がこうなるともう諦めるしかない。僕も妹と共に老婆を助け起こす他なかった。

 正直、老婆の体に触れるのすら嫌だったが、覚悟していた腐臭が漂ってこなかったのは幸いだった。癖のある匂いはしたのだが、逆に言えばそれは癖が強いだけの、腐臭とはまったく違う、強いて言うならば線香のような僅かな刺激臭がした。

 おかしなことに、その匂いが僕の記憶をくすぐった。独特なその刺激臭を、僕はどこかで確かに嗅いだ気がした。

 老婆のくぐもった声が僕を我に返す。

 立ち上がりはしたものの、老婆は依然として「あ」とか「う」としか喋らなかった。その焦点の合っていない濁った瞳から、盲いているのではないかと僕は疑いを抱いた程だった。


 「行くぞ、郁」


 一刻も早くこの場から離れたくて僕は妹を急かした。妹さえ一緒ではなかったら、僕はとっくに悲鳴を上げて元来た道を転げるように逃げ戻っていたことだろう。

 実際、妹の腕を取り再び奥へと向かおうとした僕を見て、呆けているようにしか見えなかった老婆が、一変して獣のような唸り声をあげた時に僕は心底肝を冷やした。


 「おい、行くぞ」


 妹を半ば強引に引っ張っていく僕が、元来た道ではなく更に峠の奥を目指す形になったのは、妹に対する兄としての見栄だった。この時はまだ、適当な所で理由を付けて、遠回りしてでも峠の入り口まで戻るつもりだったのだ。

 だが、老婆もまだ、覚束ない足取りで僕達の後を追おうとしてきた。満足に歩ける足腰でないことは明らかだったが、案の定僕達が少し足を速めただけで老婆はヨロヨロとその場にへたり込んだ。


 「お兄ちゃん!」


 珍しく妹が僕を咎めると、僕の返事を待たずに再び老婆の元に駆け戻った。

 妹が先程と同じように老婆を助け起こしている間、僕は枯葉に覆われた足元を眺めていた。妹に対するバツの悪さがそうさせた、

 夏にも関わらず冷たい風が僕の頬を撫で、ただただ身を震わせる。妹が僕の所に戻って来るのにそう時間はかからなかったが、その手には得体の知れない羽根が握られていた。

 それは一枚の鳥の羽だったが、シダの葉か何かかと見紛う程に大きかった。艶やかな黒一色のその羽根が何の鳥のものかなど僕に分かる筈もなく、単純に鴉のソレを連想するしかなかった。


 「おばあちゃんが……」


 僕の渋い顔に気付いたのだろう、僕が口を開くより先に妹がモゴモゴと言い訳を口にした。

 それ以上聞かずとも、老婆が妹にそれを押し付けたのは明らかだった。彼女なりのお礼のつもりかもしれないが、気味の悪いことには変わりない。

 とにかくこの場に、と言うよりは老婆の近くにこれ以上留まりたくはなかった僕は、彼女の方を見ようともせずに妹の手を引っ張り廃屋の前から駆け出した。

 背中越しに老婆の沈痛な呻き声が聞こえた気もしたが、僕は敢えてそれを無視した。まだ何か言いたげな妹の手を握り、僕は有無を言わさずズンズンと先を急いだ。

 それでも僕が何度もチラチラと肩越しに背後の様子を窺ったのは、万が一にも老婆が後をつけて来てはいないかと警戒したからである。

 勿論、老婆が妖怪めいて追いすがって来たとか、そんな事はなかった。しかし僕は漠然とした不安を拭い去ることはできなかった。

 その一方、まだ老婆を心配していたのか最初は足取りが重かった妹だったが、何とか踏ん切りがついたのか、右手に握った羽根を振り回すまでには気を持ち直していた。繋いだ手から僅かに伝わっていた体の震えもすっかり治まっており、しまいには鴉の羽根で僕の頬を何度か撫でる悪ふざけに興じる始末だった。

 その際の鼻を突くツンとした匂いに、僕は鴉の羽根にも老婆と同じ独特な香りが染みついていることを知った。その匂いの強さがどれくらいかと言うと、触れただけの僕の肌に匂いが残る程であった。鼻が慣れるとは言え、服に染み付いた匂いのせいで母親に怒られることが確定的で憂鬱ではあった。

 僕が妹の手から鴉の羽根を奪って捨てるような真似をしなかったのは、妹を悲しませたくないという、ただそれだけの話である。


        *


 蛇の様に曲がりくねった道を抜け、僕達兄妹が件のトンネルの入り口に辿り着いたのはそれから15分後位のことだと思う。体感ではもっと長く感じたが、僕の付けた安物の腕時計の示す時間ではそうだった。

 せいぜい軽トラックが一台通れる程度の、予想以上に小さなトンネル。今は使われていないことを明示するように、入り口は申し訳程度のフェンスと両開きの扉代わりの鉄板がゲートとなり塞がれていた。だがそのゲートも鎖や鍵で閉ざされている訳でなく、扉の片側は既に支柱から外れかかっており、風に吹かれる度にキィキィという耳障りな音を鳴らしていた。


 「……」


 僕と妹はどちらからともなく顔を見合わせた。固く手を繋いだまま。ヘンゼルとグレーテルが実在したらこんな感じだったのかもしれない。

 夏の昼過ぎにも関わらず依然として蝉の鳴き声一つ聴こえず、覆い被さるように鬱蒼と茂った木々が暗い影を僕達に投げ掛け、肌寒さに身を震わせるまでの暗がりを形作っていた。

 実のところ、出発するまでで僕が特に心配していたのは野犬の群れに遭遇することだった。それでも、変な噂があるとは言え、誰かしら峠を行き来しているだろうから襲われるようなこともないだろうと甘く考えていた。

 だが実際は、峠に乗り込んでから見掛けたのは狂人としか思えぬ老婆一人だけだった。

 先に進むのを躊躇う僕達の背中から突然の強風が吹き付け、トンネルを塞ぐ半壊したゲートを叩いた。

 鉄板が軋む想像以上に大きな金属音が周囲に響き渡り、僕達兄妹はその場で文字通り飛び上がった。

 帰ろうと、僕は決心した。妹にこれ以上怖い思いをさせる訳にはいかないと。

 正直に告白をすると、僕自身がたまらなく怖かったのだ。

 A君を見返してやろうという浅ましい考えは、僕の中からはすっかり消え失せてしまっていた。ここに来たいと言っていたA君を、案内せずに押し止めようとすら思った。

 帰ろう――そう妹を促そうとしたその時、もう一度先程より強い突風が吹き付け、妹の頭から帽子を奪い取った。

 まるでコマ送りのような動きで、フェンスを超えトンネルの中に吸い込まれて消えるピンクのつば広帽子。

 その帽子が、特に妹のお気に入りであることを知っている以上、僕には諦めろなどと冷たく告げる訳にはいかなかった。

 兄として。

 妹をその場に残し、ゲートの隙間から恐る恐るトンネルを覗きこんだ僕だったが、良い意味で拍子抜けする光景が広がっていた。

 僕が怖れていたのは、トンネルの中に黒々とした暗闇が口を開け、奥を見通すことができない状態だった。しかし幸いにも、距離にして20mか30mといったところだろうか、トンネルの向こう側の出口が見えた。そこまで明るくはない薄暗い光が出口に射し込んでいるだけだったが、懐中電灯を持ってこなかった僕にとっては充分過ぎる明かりだった。

 ざっと見た程度だと、ここからでは妹の帽子を見つけることまではできなかった。

 妹にそこで待っているように改めて声を掛けた僕は、トンネルの中に独り恐々足を踏み入れた。打ちっぱなしのコンクリートに見える内壁には、暴走族によるものであろう雑多な落書きが踊っていた。普段ならば眉を顰めるその光景も、この時の僕にとっては――変な話ではあるが――心強いものだった。

 奥から漂うひんやりとした冷気こそ感じたが、先程までの突風は嘘のように静まり完全に無風だった。懐中電灯こそ無かったが短いトンネルではあるし、これ以上うだうだ悩むよりはさっと帽子を見つけて帰る方が遥かにマシだろう。そう覚悟を決めた僕は、先に進んだ。

 そこまではいいものの、僕の淡い期待に反して、妹の帽子はなかなか見つからなかった。


 「――お兄ちゃん!」


 トンネルのちょうど中間に差し掛かった頃、不意に僕を呼ぶ声がトンネルに幾重にも響き渡り、僕は妹が言うことをきかずトンネルの中に追って来たことを知った。小学生の妹にとって、独りでトンネルの入り口で待つという行為は、それはそれで限界だったのだろう。

 だから僕は妹を叱りつける気にはなれなかったし、その場で立ち止まり妹が来るまで待つつもりだった。

 その時だった。視界の端に、探していた妹のピンクの帽子が映り、僕は慌ててそれを拾い上げた。

 安堵の表情を浮かべた僕が一転して眉をしかめたのは、例の老婆や鴉の羽根の匂いが妹の帽子に移っていることが、手に持っただけで判る程に漂って来たからである。


 「郁っ! 帽子見つかっ――」


 僕が妹への言葉を最後まで言い終えることができなかったのは、突如として地面に引き倒された為である。

 前兆は無かった。何も無かった。

 ただ足首を何かが掴んでいることだけは分かった。

 呆然とする僕の耳に、妹の悲鳴が聴こえた。


 「郁子っ!!」


 体の痛みも忘れ、僕は慌てて飛び起きようとしたが、できなかった。

 僕を転ばせたヌルヌルとした何かは依然として僕の足首を強く掴んだままだった。引き倒されうつぶせとなった僕の背中にも、同じ様な泥めいた感触の何かの塊がボトボトと切れ間なく降り注いだ。


 泥――

 尼司峠の噂――

 泥の怪物が人をさらっていくという――


 悲鳴の聴こえた方に必死に顔を向ける僕の目に、トンネル入り口の光を背にした妹が、手に持った羽根を狂ったように振り回し懸命に抵抗している姿が辛うじて浮かんで見えた。

 トンネルの壁から、地面から、人の腕にも似た泥に塗れた何かが妹の体に次々と迫ったが、鴉の羽根が霞めるだけで縮みあがり、或いはその場でボトボトと崩れて落ちた。


 僕は悟った。妹が、馬鹿な妹が僕を助けようと留まっていることを。

 老婆にそうしたように。


 「――逃げろ、馬鹿っ!!」


 僕がここまで声を張り上げ妹を罵倒したのは、これが最初で最後だろう。何にせよ、辛うじて僕に出来たのはそれだけだった。


 妹が走る。

 弾かれたように走る。

 元来たトンネルの出口に向かって。


 その背中を見て僕は泣いた。涙が止まらなかった。

 安堵か、それとも絶望か、僕は自分の全身から力が抜けていくことを感じた。自分の体がトンネルの奥にズルズルと引っ張られていくのを知りながら、何一つ抵抗できなかった。

 手の中に残る妹の帽子をギュッと握りしめることだけは、できた。

 口の中に泥が流れ込んでくる。それ自体が生き物であるかのように。

 僕の視界に最後に移ったのは、正にトンネルの入り口に辿り着いた妹の姿だった。

 射し込む光のせいで影絵のような見える妹。その腕を掴んで外に引っ張っている小柄な影は、あの老婆のものにも見えた。

 或いはそれも、僕が見た錯覚だったのか。

 僕の視界が完全に泥に覆われ、口まで塞がった僕の意識が途切れていく。


 ……腕の中の妹の帽子……


        *


 次に僕が意識を取り戻した時には、頭上には夜の帳が広がっていた。

 仰向けに横たわった僕の頭上に広がる夜空には星の輝きなど欠片も無く、ただ赤黒い月だけが申し訳なさげに淡い光を投げかけていた。

 自分がトンネルの外にいることはぼやけた頭でも辛うじて判別できたが、逆に言えばそれだけだった。ノロノロと上体を起こした僕は次に周囲を見渡し、そして一つの異様な光景を見た。

 足下に広がる沼池。その中央の小島にそびえ立つ、高く、そして朽ちた樹の御柱。その異様な佇まいを目にした時、僕の脳裏に電話越しにA君に聞いた伝承が甦った。


 ――トンネルを抜けた先には鏡面のような白い湖が広がり――


 ――中央の小島には一つの大きな御柱が墓標のようにそびえ立ち――


 A君の話と決定的に異なるのは一つだけ、目の前に広がるのは白銀の湖などではなく、奈落のようなどす黒い沼池である点だった。


 「――!?」


 僕の目の前で、沼の表面がボゴリと泡立つ。一つ、そして二つ、更にそれだけに留まることなく。

 沼の表面を割って次々と浮かび上がる、泥土の塊。それは人間とは明らかな異形の、化け物めいた頭部であった。爛々と輝く紅い瞳が、揃って僕に向けられていた。

 川からこちらを窺う河童の図が近い。

 声を発することも忘れた僕の前で、更に沼の表面が揺れる。今は頭部しか出ていない泥まみれの怪物が沼から這いずり出てこようとしているのだと僕は悟った。


 「――?」


 這ってでも逃げようとした僕の右手に何かが触れる。それは辛うじて原型を留めた、泥塗れの妹のピンクの帽子だった。

 必死であった為か、自分でも驚く程の獣じみた悲鳴を上げて、僕は帽子を掴み取り沼池から転がるように逃げ出した。

 そもそも運動など大の苦手だった僕だが火事場のクソ力とでも言うべきか、途中でへたり込むこともなくただひたすらに逃げ続けることができた。

 どれだけの時間、どれだけの距離を駆け続けたのかは分からない。ハッと我に返った時にも、僕は妹の帽子を強く握りしめ、おそらくは尼司峠の何処とも知れぬ下り坂を駆け降りている最中だった。

 下り坂ということは、町へと向かっているということである。妹を峠に置き去りにして独りで帰るなどできる筈もない。元来た茂みを駆け戻ろうと踵を返した僕に対し、鴉のけたたましい鳴き声が響いて来たのは正にその時だった。

 見上げた頭上を、夜であるに関わらず幾つもの鳥の影が旋回している。

 啼き声だけは確かに鴉のソレだったが、その翼は鏡のような白銀だった。体色もまた同じように白い。

 僕がその場で固まってしまったのは、白銀の鴉の一団に対する本能的な恐怖の為であった。

 僕は元々鴉の鳴き声は苦手だった。威圧的と言うか妙に攻撃的に聴こえ、生理的な嫌悪を呼び起こされた。

 だが、僕の頭上から襲来する白銀の鴉の鳴き声は僕の悪寒を遙かに超えていた。心の臓まで刺し貫かれるのではないかという鋭さを秘め、僕を震え上がらせた。


 「――!?」


 鋭い衝撃が次々と僕を撃つ。嘴で突かれ、足爪で裂かれていることは頭では理解できたが、恐怖によって五感が麻痺したのか、肉体の痛みは微々たるものだった。

 それでも恐怖に駆られた僕は、両腕を振り回し無我夢中で抵抗した。妹の帽子を固く握りしめたままで。

 帽子に染みついた独特の香りが中に撒かれたのは僕の意図するところではない。そんな余裕などある訳なかった。

 実際、鴉の襲撃がいつの間にか止んだことすら、僕はしばらくは気付けなかった。追い立てられるようにその場を離れるだけで精一杯だった。

 鴉が何故去ったのか僕に分かる訳も無い。確かな事は、あくまで僕への直接的な襲撃が止んだだけであり、僕を見張る鋭い視線だけは絶えることは無かった。

 窮地を脱したとは言え、僕は本能的に悟っていた。

 もう一度元の場所に――トンネルの入り口を探して峠を戻ることは出来ないのだと。

 峠に巣くう鴉の群れは、今度こそ僕を八つ裂きにするだろうと。


 僕が何をしたというんだ……


 妹の帽子を握りしめ、僕は泣いた。

 化け物の唸り声の様な、くぐもった自分の泣き声を聞き、僕は更に咽び泣いた。


        *


 その後、あてどなく峠を彷徨っていた僕は何とか町の灯を見つける事ができた。その頃には、峠から離れた為か僕を監視する視線は失せてしまっており、僕は体を引きずるように何とか町へと戻った。


 だが僕は家には帰らず、こうして町に留まっている。

 妹がいない。

 妹とはぐれてしまった。

 僕独りだけがおめおめと家に帰ることなどできる訳がない。


 路地裏の暗がりに蹲りながら、僕は鬱々と思いあぐねる。

 結局、あの老婆が何だったのかはいまだに分からない。

 全身を襲うジクジクとした鈍い痛みに独り身悶えながら、しかし僕はようやく一つの記憶に行き当たった。あの癖のある匂いをどこで嗅いだのか思い出したのだ。

 前の町に居た頃に一度だけ、近道をしようとしたさびれた裏路地でA君と鉢合わせしたことがあった。朧気な記憶の中で、その時のA君は山伏か何かを思わせる物々しい格好をしていた。何をしているのか尋ねはしたが、上手いことはぐらかされた憶えもある。

 その時にA君から嗅いだ独特な香り――今にして思うと、それは老婆や鴉の羽根に染み込んだ例の匂いにそっくりだった…ような気もする。


 もしも老婆が、僕の思っていたような狂人ではないのだとしたら。

 A君の縁者か何かだったとしたら。

 もしもあのトンネルから妹を連れ出してくれたのだとしたら。

 今は痛みに蹲ることしかできない僕は、その一縷の望みに縋るしかない。


 老婆の手で妹が町へと帰って来たならば、今頃ははぐれた僕を探しているだろう。

 僕がそうしているように。


 僕も僕で妹を探す。そして兄妹揃って家に帰るんだ。


 ピンク色のつば広帽子の残骸を強く握りしめ、僕は何度も何度も胸の内でそう繰り返す。

 日の光は僕にとっては眩し過ぎて、路地裏の薄暗がりを出るのは陽が沈んでからだ。

 妹を探す為に。

 しかし僕の決意も虚しく、僕の見つけた女の子はどれも妹とは違っていた。どの子も妹のような綺麗な黒髪ではなく、揃って老婆のような白髪をしていた。


 この苦しみが、悲しみが、永遠に続くのではないかと思えた。


 しかし僕は、ようやく効率的な方法を思い付いた。

 妹ではない子を残らず隠していけば、いつか必ず妹に出会えることに。

 だから僕ははやる心をグッとこらえて、辛抱強く女の子を隠している。


 何故だか僕には確信があった。強い予感と言ってもいい。その思いは増すばかりだ。


 もうすぐ、もうすぐ妹に再会できると。


 そして、町に遊びに来る約束をしているA君にも。


 一刻も早くその刻が訪れるよう、僕は僕の成すべきことをする。隠して回る。


 楽しみだ。


 楽しみ。


 早く会いたい。


 なぁ、郁子――



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