Ep.81 たとえ無実であったとしても⑥
夜の保育室。完全な闇に包まれた空間の中、私は辺りをぐるぐると見回す。当然何も見ることができなかったが、突如ガラガラと音を立てて保育室の扉が開く。扉を開いた張本人は保育室の電気のスイッチを押し、ふよふよと浮いていた私の目の前にその姿を現した。
「え……?」
扉を開けた女――柾木は不気味な笑みを浮かべ、ゆっくり一歩ずつ保育室の中へと入っていく。
「ふへ、ふへへへへへ……」
両手に手袋を着けた彼女が大事そうに抱えるのは……先程の事故の映像で見た、金属の缶の箱であった。
「まさか……?」
このとき既に、私は柾木の行為が意図することを直感で理解していた。しかし……私の感情がそれを否定した。優秀とは言えないが、彼女の真面目な勤務態度や子供への愛情は本物であると今までそう言い聞かせてきた私の意思が、直感と理性を食い止めていた。故に私の口からは、意図することなく要領を得ないとぼけたような響きが漏れていた。
「へへ、へへへ……アッハハハハハぁ……」
柾木の笑い声は不気味さを増していく。そして彼女は、缶箱を棚の上に置いた。その瞬間、今まで彼女へと抱いていた意思が幻想として、私の中で音を立て崩れ落ちていった。呆然と怒りの狭間で言葉を失い立ち尽くす私の目の前で、柾木はゾクゾクと身震いしながら口を開いた。
「これで……これで、藍原先生は私を叱ってくださるはずぅ……う、うふふふふ……」
「え……」
「もう植木鉢をひっくり返す程度じゃ、叱っていただけなくなったし……物足りないわ。よく通ってどこまでも響いていきそうなお声も、普段以上に吊り上がって私を真剣に見つめる眼差しも。先生は怒っているときが一番輝くのよ!それを特等席で見るのは私だけでいいのよ、私だけで……」
私は柾木の正面へと回り込んでいた。そして普段以上に吊り上がったその目で柾木の顔を見つめる。
柾木は笑っていた。目には深淵と見紛う闇を湛え、果たしてそれは人間の可動域の範囲なのだろうかと思えるほどに口を歪めて。その悪魔のような顔に私は思わず息を呑む。やがて柾木は笑いを止め、呟くように言う。
「ズルいわよね、子供たちばっかり。最近の先生は私を叱らず子供たちを叱ってばっかりいる。ズルいわぁ……だから、おしおき。子供たちにも、先生にも。そうよ!誰でもいい……子供たちを一人殺せば、いくらなんでも先生は私を叱ってくださるわ!そうすれば、それで……うん、おしおきもお叱りも兼ねられるなんて、最高だわ!!」
柾木の声は徐々に大きくなり、最後は汚い笑い声と変化していった。そのまま彼女は踵を返し、フラフラと保育室を後にする。それを止めることもかなわなかった私は、その場で蹲った。
「もうやめてよ。そんなに私を虐めて楽しいかしら?」
子供たちを預かりながらも事故を起こした責任、柾木を正しく育てられなかった責任、そして肝心の日に時間を守れなかった責任。そいつらが私の耳元で罵詈雑言を記した経を囁き読み上げるような感覚に押し潰され、私は頭を抱え弱音を吐き出した。何かの解決を期待したわけでもないその小さな叫びは、頭で鳴り響くその不愉快なものを、少しだけ和らげたような気がした。
私はそっと頭を解放し、辺りを首だけで見回す。いつの間にやら保育室は消え去り、真っ暗な空間へと戻っていた。そしてその空間の中で……“彼女”は一人佇んでいた。
「ライカちゃん!?」
少女――ライカは私の呼び掛けに反応し、振り返った。その瞬間、私の肌に妙な感覚が走る。目の前のライカから拭えない違和感を警戒し、私は言った。
「アンタ、誰?よりにもよって今その姿で出てくるなんて、答えによっては許さないから。」
「……見事だね。僕かい?僕はそうだね……君をこの世界に連れてきた者、って言えば許してくれるかな。」
「え……?」
「君の精神に干渉する以上、君の精神で大きな存在感を持つ者の姿を借りるほかなかったんだ。すまないね。」
ライカはそう言うと、右手を顔の横まで上げる。すると見た目の背景がみるみる変わっていく。私とライカの目の前に椅子と机が出来上がり、警察の取調室のような空間が生まれ、空間の変化はそこで止まった。
「もっと他になかったのかしら?」
「質素なのは嫌か?」
「そういう意味じゃないんだけど……」
私はそう言いながら、椅子に座った。ライカは心底分かってないような様子で首を傾げながら、椅子に飛び乗った。
「で、その……私を異世界に飛ばした神様が、何の用なのよ?」
「用もなにも、君死にかけているじゃないか。だからこうやって走馬灯から無理やり引っ張ってきたんだよ。」
「そう……」
「ん?死にかけたのに驚かないんだ?」
驚いていないわけじゃない。ただ、あのランとの激突の規模を考えると、それほどのダメージがあってもおかしくないというだけだ。というかそもそも、走馬灯から引っ張るってなんなのか、私が想像しているものがそうだとして、いつからいつまでが走馬灯だったのか、聞きたいことは山ほどあるが……私はゆっくりと口を開き言った。
「それでつまり、今の私は生きているってことでいいかしら?」
「そうだね。ホントびっくりしたんだよ?せっかく送り込んだのに急に死にそうになって……」
「それは……まあ、申し訳ないわ。」
「なーんか君自身も自分の力勘違いしてるみたいだし。というかそうだよね、この力自覚していたらあんなところで死にかけたりしないもん。」
「力……?魔力を見る目ってこと……?」
「だから違うって。いや正確にはそれだけじゃないってことなんだけど。」
ライカはやれやれと首を振りながら答える。私は彼女の言うことを考えながら、これまでのことを思い出す。力が目だけではない……妙なことを言いながらも説得力のある佇まいの彼女に、私はひとつ問いかけた。
「名は?」
「……鬼神。今はそれでいいよ。」
鬼神はそう言い、頬杖をついて私を見つめる。私は怪訝な目をしたまま、鬼神の言葉をしばらく反芻していた。




