Ep.80 たとえ無実であったとしても⑤
「す、すみません!救急です!子供が頭部を強打して、場所は……」
「なんだねと訊いているんですが?」
阿鼻叫喚の保育室の中、私は急いでスマホを取り出して通報する。無視されて気を悪くした園長が私を睨みつけながらズカズカと保育室へと入り、私の目の前で足を止める。
「はい……はい……お願いします!すみません!」
「無視ですか……説明しろと言っているんですが。」
「黙っててください、人の命がかかっているんですよ!!一刻を争うんです、今ここで貴方達と喋っている時間はありません!」
「違う。」
園長は私の言葉を聞き、舌打ちをしながら床のある地点を指さした。そこには角に血の付着した、金属製の缶の箱が転がっていた。園長は苦虫を噛み潰したような顔で私を見下ろしながら言った。
「それはなんだねと訊いている。答えなさい。」
「え……?なんで、こんなものが?降ってきたって……なんでそれが、上に……?」
「使えませんね。」
園長は呆れたような表情でため息をつき、私に背を向けて入り口の方へ向かって言った。
「伊佐崎先生。中を確認してください。」
「ひぃぃ……、は、はいぃぃぃ!」
伊佐崎は腰を抜かしながら缶の箱へ近付き、蓋を外し中のものを取り出す。
「なっ……」
そして私は、中から出てきたものを見て言葉を失った。報告書の写し、園児達との写真や自分のプライバシーの写真を集めた紙のアルバム、いくつかの文庫本。紛うことなく、それらは全て私の物であった。
「退いてください!!」
私は思わず、缶の箱へと近付き中のものを腕で隠すように覆う。そこでハッとした私は、恐る恐る園長の顔を覗き見た。
「なるほど、それは貴女の物だったのですね……藍原先生。」
「ちが……いや、私のものではあるんですが、こんな危険なところに置いたのは私じゃありません!」
「ほう……では誰が置いたと言うのでしょうか?伊佐崎先生ですか?」
園長はそう言い、ジロリと視線を伊佐崎の方へと向ける。伊佐崎は真っ青な顔をしながら首を横にブンブンと振る。
「だそうですが。」
「なっ……んで、伊佐崎先生はそんな簡単に信じて……」
「その話は先程しましたでしょう。遅刻した者とその尻拭いをさせられた者、どちらが信用できますかと。ましてや……鈍器になった箱には貴女の私物が詰まっていたのですから。」
「だからそれは……私を嵌めるために誰かが!」
「それは誰なんです?だいたい、遅刻したことすらそういう設定で我々を騙すための絵図の一部なんでしょう。まったく、これだから今の若い連中は……」
突如、廊下でドタドタと足音が鳴り響く。足音の主は勢いよく保育室に雪崩込み、大人三人が集まる部屋の隅の方へ声を飛ばした。
「救急です!担架を寝かせますんで、そちらのお子さんから離れてください!それと、そこの廊下からすぐ救急車に乗せたいので、救急車の園庭への進入許可をお願いします。」
「分かりました。私が園庭の子達を屋内に戻します。伊佐崎先生は救急車の誘導をお願いします。」
「ひ……は、はいぃ。」
伊佐崎は情けない声をあげながら、ふらふらと廊下から園庭へと向かう。園長はその背中を見送りつつ、ショックのあまりその場を動けない私を見下ろしながら言った。
「藍原先生、そこでは邪魔になりますよ……貴女が仰ったんじゃないですか、人の命がかかっているんだと。貴女が邪魔をしてどうするんです?」
「う……で、でも……」
「続きの話は留置所で刑事さん相手にでもなさってください。いずれにせよ、貴女とはもう話すことはございません。では。」
園長はそう言い残し、廊下から園庭へと出て行った。救急車のサイレン、子供たちの泣き叫ぶ声、救急隊の声、それらの音の情報の全てがまるで意味を持たない記号のように、私の右耳から左耳に流れていく。全身の生命の胎動が同時に止まり、力が抜けていく……外で鳴り響くサイレンの音が変わったことにも気付けないほど、眼下の私は放心していた。
やがて、私の記憶の追体験はここまでだと言わんばかりに、保育所の光景は渦を巻くように消え、私は真っ暗な空間にただ一人ふよふよと浮かんでいた。
「……だから、何よ。」
私はそう呟いた。それからの話はなんということはない……警察に連行された私は取調べを受けながらも、肝心の缶箱から私の指紋が出なかったことをはじめ証拠不十分で釈放される。だがその間にあの園長と伊佐崎がどうも上手くやってのけたらしく、これらの一連の事故の責任は私にあると地元メディアにアピールした。私は地元に居られなくなり、転居を余儀なくされた。それが転移するちょうど1ヶ月ほど前のことだ。
レーナと会うことはなかった。転居にあたって連絡先も全てブロックしていた。かつて私が野球を辞めたときと同じように、私は不都合な説明責任から逃げたのだ。
「逃げて何が悪いのよ……あのとき私に逃げるなと言い続けて、匿名の分際で……何も知らない部外者の分際で!私に逃げるなって要求し続けたアイツらは、それまでの人生で逃げたことは何もないって言うのかよ!!!」
気付けば、虚空に向かって叫んでいた。それはやまびこのように帰ってくることはなく、闇に吸い込まながらワーンと揺らいですぐに消えてしまった。しかしその直後再び周囲の空間が渦を巻き、あの保育室に姿を変える。
「夜……?」
保育室は真っ暗で、人の姿が全く確認できない。物音すらもしない闇の中、ガラガラと引き戸の開く音がした。




