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水を得た魚

 純は久々に風呂に入った。服を脱いだ純は鏡で自分の体を見る。

「・・・」

 あれだけ毎日トレーニングし、鍛え上げられた体も今は見る影もなかった。筋肉は完全に落ち、見るからに堕落に浸りきったみすぼらしい体がそこにあった。毎日太陽の下でサッカーをし、真っ黒かった肌も、病人のように青白く真っ白くなっていた。

 見た目だけでなく、実際に体力も落ちていた。以前ではありえなかった、ちょっとタバコを買いに外に出ただけしんどさを感じる。ちょっと階段を上っただけですぐに息が切れる。ちょっと無理をしただけで筋肉痛になった。心だけでなく、体も落ちに落ちていた。

 毎日毎日、たった一人で過ごす部屋。世界中の誰も彼もが寝静まった田舎の夜更け。そんな静寂の中、一人起きていると、誰も彼にも置いて行かれているような孤独と焦りが堪らなく純を襲う。そんな寂しさと絶望感に苛まれ、純は自分が世界でたった一人のような気がした。みんなの世界から、たった一人置いて行かれているような気がした。何もない無音の宇宙空間の中で、たった一人何の寄る辺もなく彷徨っているような不安と孤独。

 気が狂いそうに、叫び出したくなるほどに、言葉にならない堪らない感情の渦が胸の奥から湧き上がる。

 ここから抜け出したかった。早く、一刻も早く、抜け出したかった。でも、どこにも出口は見えなかった。どこに進んでいいのかも分からなかった。自分がどこにいるのかさえ分からなかった。この絶望が永遠に続くような気がした。

「死」

 純の頭にまたその文字が浮かんだ。最近、そんなことばかり考えている自分がいた。


「うおー」

 市民グラウンドで、驚きの声が次々に上がっていた。ピッチの中で、一人だけ別次元のプレーをする人間がいた。そこにその場にいた全員の目が釘付けになる。

 今まで見たこともない、ほとんど曲芸のようなプレー。それをしているのがしかもまだ、明らかに高校生と思われる顔立ちをした青年だった。

「お前マジですげぇな」

 落合が日明の下にやって来て、心底驚いた顔で日明を見る。

 社会人リーグの試合当日、日明はまさに水を得た魚のように、ピッチでその才能を爆発させていた。相手は大人だったが、末端の地域リーグでそれほどにレベルの高くないこともあったが、日明はフィジカルや体格でも全然負けていなかった。それどころか、その大人たちを、逆に子ども扱いするかのようなプレー振りだった。

 足技、リズム、スピード、そして、緩急。対峙する大人たちは、その日明のプレーにまったくついて行けず、おろおろと驚愕するばかりだった。味方の選手たちでさえ、日明がどう動くのか何をするのか分からず、日明に合わせて動くことができずに困惑していた。

 相手チームのベンチも驚いている。

「なんだあいつ」

「あいつなんだよ」

「あんな奴がいたのか」

「どこの奴だよ。高校生だよな」

 そんな驚きの声も聞こえて来た。

 日明にとって、久々の練習試合ではない、実践の試合だった。痺れるような興奮が、日明をその体の芯から震わせる。サッカーができるだけでこんなに幸せなのかと、自分で驚くほど楽しかった。そんな感動がさらに日明の体を軽やかに動かす。

 この日は、日明のよくやる、一人でゴール前まで切り込んでのシュートも絶好調だった。日明のシュートが、おもしろいように次々決まる。

「お前ブラジル行けよ。お前なら絶対通用するぜ」

 ゴールを決めた日明に、落合が近寄って来て言った。

「おお、お前マジでブラジルでプロなれるぜ」

 いつもひょうきんな柴田も日明の肩を叩きながら言った。

「ブラジル・・、プロ・・」

 日明は呟く。隆史の顔が浮かんだ。二人は高校を卒業したら、海外に行く。あのトヨタカップを二人で見た日、日明はヨーロッパ、隆史はブラジル。そんな話をしていた。俺はプロになる。日明は言った。日明はそれを思い出し、胸を絞めつけられた。

 隆史の顔が浮かんだ。

 しかし、この時、日明にはふと新しい何かが見えた気がした。自分が進むべき道のその先――。


 インターハイが終わり、そして、季節はスポーツをする者にとって最も過酷な夏のその一番暑い盛りの中心に入ろうとしていた。インターハイも日明の出番はまったくなかった。遠征に参加すらさせてもらえなかった。

 インターハイは、高津の存在もあったからなのか、たまたまなのか、東岡は過去最高のベスト四まで行った。準決勝でライバルの松本商業に負けるが、もし決勝まで松本と当たらなければ、そのまま決勝まで行く勢いだった。

 今年のチームは、いいぞ。そういう、噂やムードが湧き上がっていた。

 そんなムードの中、インターハイに敗退した東岡は、すぐに毎年恒例の夏休みの猛特訓に入った。

 部員たちが恐れる、いわゆる夏休み地獄の猛特訓だった。普段から、部員たちは相当に厳しい走り込みをさせられているのだが、夏休みのその猛特訓は、それの比ではない過酷さだった。しかも、夏の猛暑の中でである。さらに、今年は、このいい流れのまま、秋の高校選手権に向かう勢いをつけるため、さらに楢井は気合いが入っていた。

 去年は馬鹿らしいとさぼってばかりいた日明だったが今年は当然皆勤だった。練習に出ないなどという選択肢は、日明にはなかった。

 猛暑の中、限界の限界。そのさらに限界まで走らされる。あそこまで追い込まれたのは日明も生まれて初めてだった。

 しかも日明は、マネージャーの仕事も、一年と同じ、雑用もやりながらだった。心身共に、日明は極限まで追い込まれた。

 しかし、この夏休みの猛特訓で日明の体は、さらにもう一段上のレベルまで上がろうとしていた。独力での練習に加え、激しい走り込み、そして、社会人に混じっての試合経験。日明の体は、これ以上ないほどに鍛え上げられていた。

 日明は精神的にも、肉体的にも、生まれ変わったように充実していた。溢れ出るエネルギーと自信。それを日明自身が、ひしひしと感じていた。

 後は・・、後は本番で、試合で、使ってもらえるかどうか・・。


 地獄の猛特訓の後、夏休みには、三日間の連休がある。しかし、日明はその三日間も社会人チームの練習に参加していた。

 夏が終われば、そして、次の季節がやって来る。そうあの季節――。日明の目指すあの季節がやって来る。


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