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畏怖

 思春期の心の揺れ、不安定な世界――。

 まるで世界そのものが、ゴッホの晩年の絵画のように不安に歪んでいるようだった。純の見ている世界。それは、もう普通の世界には戻ることのできない――そんな人間にしか見ることのできない別の世界だった。


「敬がお前の悪口言いふらしてるぞ」

 同級生の新川が純に言った。

「ああ」

 あいつならやりそうだな。純は思った。最近同級生がみんな冷たい気がした。特に敬周辺の男たち。それはなんとなくずっと感じていた。

 だが、ただそれだけだった。そんなことも、もうどうでもよかった。とにかくすべてが虚しかった。純はもう何か生きていくことのための大事な動機のようなものを失ってしまっていた。確たる心の芯になるような重要な何か。それが折れてしまっていた。

 もともと学校は苦手だった。教室の中の狭い人間関係について行けず、小学生の頃から、漠然と息苦しさを感じていた。その中でサッカーだけが救いだった。友だちもできたし、何よりサッカー自体が楽しかった。

 それを失った今、学校の教室の中など、そこはただ虚しいだけの白骨化した巨大な墓場そのものだった。 

 

 日明がいつものようにグラウンドに誰よりも早く来て練習準備を始めようとしたその時だった。たまたまグラウンドの真ん中にボールが一つ転がっているのが見えた。

「・・・」 

 グラウンドにはまだ誰も来ていなかった。

「・・・」 

 日明はそこまで行くと何となしに、そのボールをいじり始めた。ボールと共に自然と体が動いていく。気持ちよかった。ボールと足が、自然と心地よく動いていく。それはいつしか、日明の持つ本気の動きへと変わっていった。

 日明は自分の思い描くままにボールを操っていく。まだ技術は死んでいなかった。体はまだ覚えていた。日明は、一人ボールを操る。その姿は、まるで氷上でボールと共に踊っているかのような滑らかでリズミカルなボールタッチと足技だった。一人でボールをただ適当にいじっているだけなのに、それは、恐ろしいほどに美しかった。

 そこへ、遅れて部員たちがやって来た。日明はボールに夢中でそれに気づかない。日明はボールを操り続ける。

「すげぇ・・」

 誰ともなしに呟く。どんなに複雑で無理な態勢でのボールタッチでも決して足から離れない、その吸いつくような繊細で、魔法のような足先の滑らかさ。普通の人間でならあり得ない、重心での切り返し。

「・・・」

 部員たちは驚愕していた。日明のそのしなやかで無駄のない足技に魅せられ、呆然とそれを見つめていた。

 しかも、日明はスパイクを履いていなかった。普通の運動靴でその複雑であり得ない大勢からのボールタッチをいともかんたんに繰り広げていた。

 今の今まで日明の存在は、その輝かしいプレイと共に忘れられていた。今では、完全に過去の人間になっていた。特に一年は日明の試合で凄まじいほどのプレイをまったく見たことがない。だが、それが今目の前にあった。

 日明がどれほどの才能を持っているか、三年生たちもここで、嫌でも思い出させられた。日明は、次元を超えた存在だということを、見る者が恐怖するほどにサッカーがうまいことを、三年生たちは強制的に思い出させられていた。あれほどの侮辱的態度をとられても何も言えなかったほどのあの才能を、忘れようとしていた日明のその圧倒的なプレイを今、あらためて見せつけられていた。

 日明はそこで初めて、自分を遠巻きに見ている他の部員たちの存在に気づいた。

「す、すみません」

 日明は慌てて頭を下げた。

「すみません」

「あ、ああ」

 何とも言えない沈黙が流れる。その場にいた全員が、先輩たちも含め、何も言えないでいた。日明の、その場でただボールを転がしているだけのその動きに圧倒されていた。

 日明のサッカーセンスに、あれほど大柄だった先輩たちは完全に圧倒されていた。

 その日、三年たちは、日明をいじめなかった。いじめることができなかった。目の当たりにした日明のサッカー技術に、三年生たちは恐怖していた。

 

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