逃避
自分が失ってしまったものの大きさに、純は否応なく日々気づかされていく。サッカー部を辞めてしまったことの後悔と自責の念に憑りつかれるようにして、純は日に日にその苦しみに苛まれていった。
そして、そんな日々の中、純はいつしか抑鬱の黒い雲に憑りつかれるようになっていく。それは、知らず知らずのうちに、純の心を覆い、そして、それが純そのものになっていく・・。
「・・・」
夜中に日明は目が覚める。最近、深夜に突然、よく目が覚めるようになった。体は部活の激しい走り込みの練習でへとへとに疲れているはずなのに、なぜか意識は冴え、眠れなかった。眠いのに眠れない。そのまま朝方まで眠れないこともあった。
そして、そんな一人ベッドに仰向けになる日明の頭に、決まって浮かぶのは隆史の姿だった。
暗い天井――。
もう、あの隆史がいない。小さい時からいつも一緒だったあの隆史がいない。自分のことを唯一分かってくれる存在。唯一心配してくれる存在。愛してくれる存在。助けてくれる存在。心の底から友だちだと思える存在。その隆史はもういない――。堪らない喪失感と寂しさが日明の胸をいっぱいにした――。
部内では、一年の中にも、先輩たちをまねて、日明を軽んじる者も出てきていた。試合に出ていた頃の日明のすごさを知らない一年は、ただ、周囲からいじめられている日明しか知らない。一応先輩ではあるので、露骨にバカにしたりはさすがにしないものの、明らかに日明を軽んじて見ていた。日明もそういった空気を敏感に感じていた。
日明は、なんだか急に、すべてがバカバカしく、そして、すべてが虚しくなった。それは突如として湧き上がり、一気に日明の心を覆った。
その日の放課後、日明は制服のまま校門の方へ一人向かっていた。今はこれから部活という時間だった。だが、日明は、ずんずんと他の下校する生徒たちと同じようにそのまま校門へと歩いていく。
「日明」
その時、日明の背後から声がした。
「逃げるんだ」
美希だった。美希が仁王立ちで鋭く日明を見ている。
「美希・・」
「逃げるんだ。結局」
「・・・」
「逃げるんだ」
「うるせぇよ」
日明は、吐き捨てるように言った。
「うるせぇよ。お前に何が分かる」
「日明はやっぱり日明ね」
「分かった風なこと言うなっ」
日明はそのまま、再び前を向くと行ってしまった。日明はもう辞めるつもりだった。何もかも――。
「おばちゃん、いつものね」
「あらっ、日明ちゃん、久しぶりね」
「うん」
日明は駅前の来々軒にいた。
「大盛りの大盛ね」
「はいはい」
日明はそこで食べて食べて食べまくった。今はこんなことくらいしかできなかった。やるせない思い、どうしようもない思い、やり場のない思い、それらをどうしていいのか、今は分からなかった。
そして、家に帰りやめていた酒を飲んだ。何もかも終わりにするつもりだった。
「もうどうでもいい」
もうどうでもよかった。
「バカバカしい。やってられるか」
明日も部活に行かない。そう決めていた。サッカーも辞める。自分がいなくなっても誰も気づきもしないだろう。気づいたとしても、ああついに、辞めたかぐらいの反応があるだけだ。そんなことも容易に想像がついた。
次の日の放課後、日明は部室に寄った。荷物を引き上げるつもりだった。
「日明さん、辞めちゃうんですか?」
荷物をまとめていると、ふいに声をかけられた。志穂梨だった。
「日明さん辞めちゃうんですか。私あの・・」
以前から志穂梨からの視線は感じていた。それは、普通の視線ではない。異性としての熱い・・。
日明は黙って志穂梨を抱き寄せた。そして、志穂梨に顔を近づけていく。
「日明さん・・」
志穂梨は拒まなかった。
久々に抱く女の感触だった――。
その時、部室のドアが勢いよく開いた。
「ほんと最低ね」
美希だった。志穂梨は慌ててはだけたブラウスの前を隠す。
「やるなら、他でやってくれない?ここサッカー部の部室だから」
美希は腰に手を当て仁王立ちで日明を睨む。
「・・・」
日明はそんな美希から視線を反らし、黙っていた。
「あんたもうサッカー部員じゃないんでしょ」
「・・・」
「サッカー部辞めるんでしょ」
「うるせぇ」
日明は叫ぶと、飛び出すように部室から出て行った。
「・・・」
日明は、くさくさとほとんど自暴自棄みたいな心境で通学路を駅に向かって歩いていた。もうどうでもよかった。何もかも――。
「おばさん・・」
そんな日明が自分の家の前まで来ると、そこに隆史の母が立っていた。会うのは、半年ぶりくらいだった。隆史が死んでから、もうそれだけの時間が経つ。その半年の間で、パッと見て分かるほどに、見違えるように隆史の母は、老けこんでいた。その姿に、日明は、あらためて自分がしてしまったことの大きさを感じて愕然とした。
「これ」
隆史の母はそう言って、何かを日明に向けて差し出した。
「・・・」
日明はそれを見る。それは隆史の履いていたスパイクだった。隆史はアシックスが好きで、いつも、その中でも一番安いのを選んで履いていた。母子家庭の母に迷惑をかけないためだったのだろう。隆史はそういう人間だった。一方、日明は派手好きで海外のメーカーの物しか履かなかった。
「あなたが持っていた方がいいと思って」
「ありがとうございます・・、でも・・」
「いいの、あなたが持っていて」
「はい・・」
日明は、それを受け取った。そこには隆史がいた。隆史が生きてそこにいた。それほどに、忘れかけていた隆史をリアルに思い出した。
「隆史・・」
二人で見た夢。逃げられない。そこに行くまでは・・。
「・・・」
今がどんなに辛くとも。行くしかない。日明は思った。




