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いよいよ大会を明日に控え、最終練習を終えたアシュレイがいつも通りにカロンを弾く私の元へ姿を見せた。
彼のその硬い表情からは、今から緊張の色が窺える。
「準備万端?」
「やれる事はやった。後は全部出し切るだけだ」
「そっか。アシュレイ」
「ん?」
「そこに座ってて?」
いきなりそんな事を言う私にアシュレイは不思議そうな顔をしたが、何も言わず素直に近くの椅子に腰を下ろした。
私はそれを確認してから一つ深呼吸をして、鍵盤に指を置く。
途端に勢いよく奏でられる爽快なメロディーに、彼の目が見開かれたのがわかった。
それに合わせる力強い歌声も、今まで彼に披露した事のない物だ。
歌詞もこの日のために日本語から現代語に訳した。
全てはより真っ直ぐ、彼の胸に届けるために。
周りなんて関係ない。
貪欲に勝利を目指し、自分の限界に挑戦すれば良い。
実力を示す事に集中すれば、きっと会場中をこれでもかと驚かせてやれるだろう。
恐る事はない、最強を目指しにいきなさい。
想いを歌詞に詰め込んで、歌で力を届ける。
いつも私の歌で元気をもらえると言ってくれた、大切な義弟の背中を押せるように。
全力で演奏を終えると、パタンと腕を下ろした。
「どう、応援になった?」
少し悪戯っぽく笑って見せる私に、アシュレイは一瞬顔をくしゃっと歪めた。
そして無言でこちらに近付いてくると、座ったままの私を包むようにぎゅっと抱きしめる。
「っ!」
驚きのあまり一瞬息が止まった。
「…こんなサプライズしてくれるなんて思ってなかった」
掠れた声でそう言うアシュレイに、私は詰めていた息を吐きながら笑う。
「歌って応援しろって言ってたでしょう?」
「…ありがと、すげぇ嬉しい」
思わず熱い感情が込み上げてきた。
準備してきて本当に良かったと思う。
だってアシュレイを正面から応援できるのは、これが最初で最後かもしれないから。
アシュレイの勇姿を見届けたら、クラリッサ様の所へ婚約者探しのお願いをしに行くと決めていた。
アシュレイには既に親しい子がいるし、私がいつまでもお荷物になるわけにはいかない。
ただ一番近くで彼の努力を見てきた者として最後に背中を押す事ができたなら、これほど嬉しい事はない。
頑張れと言う想いを込めてポンポンと背中を叩けば、アシュレイは私の肩にグッと額を押し付けた後ゆっくりと身体を離した。
そして意を決したように、私の目を見ながら話を切り出す。
「あのさ…もし俺が全員倒して一番になれたら、聞いてほしい事があるんだ」
「聞いてほしい事…?」
「そう。だから、待っててほしい」
その言葉に小さく動揺が走る。
自分の都合の良いように解釈してしまいそうで、心の中で思い切り首を横に振った。
ただ姉弟として、大事な義弟の願いに応えるだけだ。
私はその真っ直ぐな瞳に誓って、静かに頷いた。
それを見たアシュレイは安心したように笑うと、そっと私の手を取って柔らかく一つキスを落とす。
驚く私を他所に、彼は祈るようにその手を包み込んだ。
「どうか勝利に導いてくれ、俺の女神」
まるで私が女神であるかのような言い方だった。
…本当に私が貴方の女神になれたなら良かったのだけれどね。
私は唇を噛み締めてからその手をぎゅっと握り返すと、そのままアシュレイの胸に押し付けて笑い飛ばすように言った。
「馬鹿ねぇ、そんなの必要ないわ。自分の手で掴み取ってみせなさい」
その言葉に彼は一瞬きょとんとした後、小さく吹き出した。
しばらく笑うと、息を整えながら言う。
「そうだな、俺が間違ってたわ」
どうやら私の言葉を前向きに解釈したらしいアシュレイは、そこで初めて強気な顔を見せた。
「絶対負けないから、会場の誰よりも俺の事を応援してて?」
「っ!」
爽やかな風が吹いたような錯覚を覚える。
強く真っ直ぐな瞳に見つめられ、胸がキュンとなるのを止められなかった。
ちょっと待って、カッコ良すぎじゃない?
至近距離でこんな事言うのは反則じゃない?
触れている所から熱を拾い、頬が火照っていくのを感じる。
私はなんとかコクンと頷くと、赤くなった顔を隠すように俯いた。
そんな私にアシュレイは、よしと言いながら嬉しそうに笑った。
離れる覚悟を決めたというのに、この甘く穏やかな時間がどうしても離れ難いと思ってしまう。
それを感じ取ったからかはわからないが、アシュレイは話が尽きるまで私の傍を離れようとしなかった。
今だけはという私の願いを、月は優しく見守ってくれていた。