第86話 挽回不可
気づいたらもう7月なんですね。夏の気候は嫌いだけど雰囲気は好きです。
そして最近、作者はなぜか腰を痛めています。
日は落ちきって、夜が深まる。
ユイトたちのパーティは、まだ続いていた。
最悪な空気感に包まれたまま。
「……これ、どういう状況なん?」
両手に魚の刺し身を持ったダリアは、呆然と立ち尽くした。
料理の支度を終えて帰ってきてみれば、食卓の雰囲気が重い。
青ざめた顔をしたユイトに、彼から露骨にそっぽを向いたまま機嫌を損ねているリーファ。そして、二人の間の距離には我関せずといった様子で黙り込むエリカとミント。
状況としては、限りなく最悪に近い。
「別に。あと、お刺身ありがとうこざいます」
「ああ、ええよ……?」
ダリアは困惑しつつ皿をリーファに手渡した。
重苦しい雰囲気の中、彼はそのまま席に着く。
「あ、僕はいいからリーファが食べていいよ……」
「そうですね。いただきます」
「うん……」
リーファの反応はいつになく冷たく、ユイトの受け答えはぎこちない。これもすべて先程彼が発した一言が発端なのだが、野暮なことは言うまいとエリカもミントもあれ以上は言及しなかった。
結果、このなんとも言えない距離感が続いている。
「……まあ、何があったかは知らんけど、とりあえず明るくいきましょ? ユイトはんの明日のためにも、今日くらいは……ねぇ?」
「ダリアさん、いいんです。悪いのは僕で――」
「大丈夫ですよ。私もう怒ってないので」
「あ、そう……?」
「ほんまに何があったんや、あんたら……」
多少の疑問は残りつつも、ダリアはこの空気を撤回すべく、努めて明るく話を切り出す。この空気を打開できるのは、現状彼しかいないのである。
「じゃあ、リーファはんもいることですし、それ関連の昔話でもします? 赤裸々トークって感じで――」
「……やめましょうよ、そういうの。恥ずかしいです」
「スンマセン」
「ここにはデリカシーのない男しかいないのね」
空気の読めない男性陣に呆れるエリカ。
そんな中、彼女はふと思い出したことを口にした。
「そういえば……レイチェルは元気にしてる?」
突然挙がった聞き覚えのある名前に、串焼きを口に咥えていたユイトは咄嗟に振り向いていた。エリカの何気ない問いに、リーファは数秒間を置いて返答する。
「はい……まあ、まだ外には出たがりませんけど」
「そう。でも、あの頃と比べたら少しはマシになったわよね」
「せやなぁ。あれももう二年前やからな……」
淡々と交わされる隠語めいた会話に、事情を知り得ていないユイトとミントは置いていかれる。顔を見合わせた二人は、黙り込むエリカたちにそれぞれ訊ねる。
「あの、誰ですか? そのレイチェルさんって……」
「ミントがここに来る前まで、リーファちゃんたちとよく来てくれてた子よ。今はもう、来なくなっちゃったけど」
「……レイさんも、ここに来てたんですね」
「あれ、ユイトはんもしかして知り合いなん?」
「はい、まあ……」
ユイトにとっては、レイチェルは“隣人”というかなり近しい関係だ。
そんな彼にとって、彼女の名がこの場で挙がったことは意外でしかなかった。普段、自室にいるかユイトの部屋に居座るかぐらいのイメージしかない彼女にも、この場所に入り浸るようなアクティブな過去があったのかと思ってしまう。
「あんなことがあったんだもの。元気でいられるだけいいことよ」
「…………」
エリカの一言に、リーファはグラスを手に黙りこくる。
底知れない重苦しさが漂うなか、ユイトが意を決して詮索しようとした、そのとき。
「――やめにしましょう。この話は、もう……」
ユイトの口を間接的に塞ぐように、リーファが言葉で遮った。
いつになく苦々しい彼女の表情に、ユイトは渋々閉口する。
他の面々も、彼女の気遣いを感じてか表情を改めた。
「せやな! 明日はユイトはんの大事な日ってことやし、パーッと行くで!」
「はぁ……あんた、それさっきも同じこと……」
「姐さん、シャンパン一本追加で!」
「あんただけ盛り上がるじゃない、それ」
「あ、あはは……」
大人組が酒を飲み始め、ようやくパーティは佳境に入る。
試験や学園に関する話題が持ち上がり、彼らの間で交わされる会話は楽しげなものになっていく。先程の話が気がかりだったユイトだが、それ以上詮索することもせず、リーファとの微妙な距離感を感じながら最後までパーティを満喫した。
***
それから、およそ一時間後。
「はぁ〜、結構食べちゃったな……」
夜が更ける前に、ユイトとリーファは帰路に着くことにした。
レイチェルに預けていたナーシャが心配ということもあったが、第一は彼らがもう既に満腹になっていたことが主な理由だった。過剰なまでの豪奢な品々を前に、二人して遠慮を忘れてしまったのだ。
「もう……明日お腹壊さないでくださいよ……?」
「うん……それより、リーファこそ大丈夫?」
「え……?」
ユイトの隣を歩く彼女の足取りは、どこか覚束ない。
時折ふらつくなどしており、見ていて不安になるほどだった。
「うぅっ……頭がくらくらします……」
「そういえば、お酒入ってたメニューあったっけ」
「これが、ほろ酔い気分ってやつですね……」
「……酔うような量じゃなかったと思うけど」
頬が赤く艶かしい彼女の表情に、ユイトは内心どぎまぎしてしまう。猫舌といい酒への絶望的な耐性の無さといい、彼女はまだまだ年相応な少女なのだと、彼は実感させられるようだった。
ふらつきかける彼女の危なっかしい背中に、ユイトは訊ねる。
「頭、痛いんだったら寄りかかってもいいよ?」
「? どこにですか……?」
「肩、とか……? 別にどこでも」
「そうですね……そうします」
そう言ってリーファは、彼の言葉に甘えた。
月明かりの照らす夜道で、彼女はユイトの肩――身長差的に二の腕辺りだが――に頭を預けた。彼女の柔らかい髪や猫耳の感触に、ユイトはひとり心臓を跳ね上げる。
不思議な形で寄り添いながら、二人は帰り道を歩いた。
本来なら抱きかかえて連れ帰る方が自然かとも思うユイトだったが、先程の一件をやらかした手前、そんな大胆な行動に出ることも躊躇われたのだった。
「……あのさ、」
道中、彼は緊張気味に切り出す。
「はい……?」
「さっきは、その、変なこと言ってごめん」
「さっき……? 何のことですか……?」
意を決して謝ってみたユイトだったが、リーファの思わぬ反応に拍子抜けした。
酒のせいなのか、受け答えもやたらふわっとしている。
「もしかしてリーファ、お酒のせいで記憶が……」
「はい。私、おぼえてないです。何のことやら?」
「うーん……なら、いいか……」
「ええ、それがいいです。変なことを気に掛ける必要は……ありませんから」
リーファは珍しく、子供のようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
そして、少しだけ口調を元に戻して続ける。
「明日は試験なんですから……余計なことは、考えないでくださいね」
自分の肩に寄りかかる彼女に、ユイトはもう一度振り向いた。
彼女の気遣いに、心を温めながら。
「……あと、頑張ってください」
「うん、もちろん」
二人の行く道を、青い月が照らす。
運命の分かれ道の明日はもう、すぐそこまで迫っていた。