第70話 コーヒーと昔話
疲れた。
そんな月並みな言葉しか浮かばない。
身体も頭ももう限界だった。疲労感でどうにかなりそうだった。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
自分の部屋に入り、真っ先にベッドに倒れ込んだ。
溜め息がシーツの上で充満する。脱力感に身を任せ、全身の感覚を投げ出す。
〈Ryo-Ran〉での一件のあと、僕はまたエリカさん……『エレアノール』さんとひたすら打ち合いの修行に励んだ。実力がついてきつつあるのか、僕も思わず空腹でお腹が鳴るまで剣を振るのに熱中していた。
体力は着実についてきている(逆にあれだけ走ってついてなかったら嫌だ)。
その体力を、ここ最近はフルで消費して帰ってきている。
自分は頑張ればこんなにも無理ができるものなんだと、最近驚いた。
今日も今日とて、肉体の疲労感は限界突破している。
けど、今日ばっかりはそれだけじゃない。
「人と話しすぎて疲れた……」
最近、人と話す機会が増えた。
ここに来てからというもの、交流の輪は広がっていくばかりだ。
それで必然的に、色んな人と時間を過ごすことになる。
朝起きて、リーファたちと一緒に朝ご飯を食べて。
それからリーファ先生の講義のあと、エリカさんとの修行。
たまにギルドにも顔を出して、ユーリさんって人のやってるアイテムショップにも足を運ぶ。
……そしてごくまれに、レイチェルさんの暇つぶしにも付き合う。
こんな風な日々を過ごしてきて、もちろん充実していると思うこともあれば、今みたいに心理的に疲れてしまうときもある。もともと僕は、そこまで社交的な人間じゃなかったはずなんだ。だから、当然っちゃ当然のことではある。
ただ、激動する一日一日を過ごしていると、疲れてしまう。
今の恵まれた生活が、決して苦しいものでなくてもだ。
自分の中にあるバッテリーの残量が、毎日すり減っている気がする。
贅沢な悩みだな、とつくづく思う。
(風呂にも入ったし、もう寝ようかな……)
もはや久しぶりな、一人きりの時間。
何もする気力が起きない。
いやでも、こういう時間こそ勉強が捗るものだから……
「おにーちゃーん」
背中に体重が乗っかった。
ベッドにうつ伏せになっていた僕に、抱きついてくるこの少女は――
「ナーシャ……離れて?」
「なんでー?」
「ベッドで抱きつくのはダメだよ。僕が法に触れる」
「法? お兄ちゃん捕まっちゃうの?」
「最悪の場合ね。だから離れて。……あと、入るときはノックして」
「ぎょいー」
ナーシャは素直に僕から離れていった。
彼女が甘えてくるときは大抵、わがままなことが多いものだけど。
日に日に彼女からの接近が増えてきていて、僕の心は庇護欲と罪悪感の間で揺れ動いている。悪いことだとは全く思わないけれど、これ以上は僕の理性が保たない。
これも単なる甘えと考えれば、それで済む話ではあるけど……
「それで、なんでまた来たの? お姉ちゃんは仕事?」
「ううん、下にいる……『ほうこくしょ』書いてるから、邪魔になる」
「なるほど……あの子も大変そうだね」
リーファもリーファで、僕の勉強を見ながら自分の研究も進めている。
やってること自体はもしかしたら、僕を超える超人なのかもしれない。
「……そういうわけで、わたしはここで添い寝します」
「却下」
「事案?」
「……うん、そう。一緒にリーファのとこ戻るよ」
「らじゃー」
こんな小さな子になんて言葉を覚えさせてるんだ、僕……
リーファにバレたら確実に殺される。
というわけで僕は、眠たそうにしているナーシャを背負った。
背中にかかる体重はびっくりするほど軽いけれど、如何せん身体は限界だ。
それでも、女の子を落っことすなんてことは許されない。
死んでも彼女を送り届けるのが、僕の仕事だ。
***
無事に、脚がしんだ。
それでも、僕はなんとか104号室に辿り着くことができた。
なんとか余力で扉をノックし、すぐさまリーファに救助を求める。
「リー、ファ、たすけて……」
「……なんか、ご迷惑おかけしてるみたいですね」
「お届けもの、です……ぐっ、しぬ……」
「うちの妹がすみません……」
ナーシャを部屋のソファーに降ろし、僕もそこに腰掛けた。
疲労が波のように押し寄せてくる。頭がうまく働かない。
ソファーに横たわって気持ちよさそうに寝ている彼女を見ていると、なんだかこっちまで眠たくなってくる。自分の部屋に戻るのすらも面倒だ。
「ユイトさん、眠そうですね」
「んー……でも、まだ勉強したいから起きてたい」
「コーヒーでも飲みます? 一緒に徹夜してあげますよ」
「嫌なお誘いすぎる……」
徹夜はするつもりはないけど、コーヒーは頂くことにした。
こういう眠気に効くのは、やっぱりカフェインだ。
「どうぞ。砂糖はお好みで」
「ん、ありがとう」
リーファから、少し温めのコーヒーの入ったカップを受け取る。
なんでも、彼女が猫舌であるが故の温度設定らしい。かわいい。
角砂糖を三つ入れて、コーヒーを啜った。
こういうときの砂糖の分量って、どのくらいが相場なのか未だにわからない。何個からが甘党なんだろう? まあ、そんなことはどうだっていい。
ソファーに腰掛けて、リーファの部屋の本棚を眺める。
相変わらず、物凄い量の本だ。
彼女の机にも、たくさん本がタワーのように積み上げられている。
あれは全部、彼女の研究に関係する本なのだろうか。
「それ、研究のレポート?」
机に向かってペンを走らせるリーファに、思い切って訊いてみた。
一応、邪魔にならないようにタイミングは見計らったつもりだけど、彼女の集中を途切れさせてしまったら申し訳ない。
「そうですよ。今作ってる新しいポーションの試験結果が出たので、それをまとめてるところです」
机に近寄った僕に、リーファはレポート用紙の一枚を手にとって見せてくれた。
丁寧かつ見やすい大きさの文字で、僕には到底理解の及ばない領域の話が書き連ねられている。〈治験結果〉とか〈考察〉とか〈展望〉とか、それっぽい見出しがついていて、あらましだけは理解できたけど。
それでもやっぱり、これを僕より年下の女の子が書いているとなると、この紙切れ一枚が持つ意味は違ってくる。改めて彼女は、飛び級するほどの天才薬学研究者であることを認知させられた。
「すごい……じゃあ、それがまとまったら商品として売り出せるってこと?」
「はい。正式に安全性が認められれば、お店にも並ぶようになります」
「へぇ……リーファはもう、立派な薬学者って感じだね」
「いえ、私なんて、大したことないですよ」
リーファは控えめに微笑んだ。
少女らしからぬ彼女の謙虚さが、少し心に引っかかる。
「大したことないってことないと思うけど……」
「私は……学園の研究室でもまだ下っぱですし、先輩たちの背中を追ってるだけなんですよ」
「そういうもんかな……」
謙虚すぎる、と思わず口に出してしまいそうになる。
仮にも、年上の僕に先生として指導できるほどの実力を彼女は持っているのだ。そう謙遜されても、おかしな感じがするだけだった。
自分を低く語る彼女の口振りを、僕は悪く言うつもりはない。
ただ、自分自身を卑下しているような彼女の言葉には、少しもどかしさを覚えた。
「ねぇ、リーファはどうしてそこまで頑張ってるの?」
語弊を生みそうな言葉を、気づけば僕は口走っていた。
ペンを握っていたリーファの手が止まる。
「――母に、振り向いてもらうためです」
俯いたまま、リーファはそういった。
彼女にしては抽象的な答えに、僕は数秒考えこむ。
「お母さんに……?」
「はい。私たちが母のもとを離れて暮らしていることは、ご存知ですよね」
「うん、まあ」
たしかに、以前ナーシャからそんな風なことを教えてもらったような気がする。
『お母さんね、会っても話してくれないんだ』
何かしら複雑な事情を孕んでいそうなナーシャの言葉に、僕はそのときはそれ以上言及できなかった。まだ関わりの浅い僕が、土足で踏みこんでいい問題なんかじゃないと、勝手に思いこんで。
「お母さんとは話せてないって、前にナーシャが」
「……その通りです。私たちの母はもう、母親としての心を失っているんですよ」
――六年前に、夫を亡くしてから。
至って他人事のように、リーファは語った。
それから、淡々と同じ口調で言葉を接ぐ。
「彼女の夫……私たちの父親は、名の知れた探索者でした。この街の探索者なら誰もが知るほどの、伝説的な英雄だったそうです」
私はもう顔も覚えてませんけど、と彼女は付け足す。
探索に明け暮れていた父親とは、リーファたちは会う機会は少なかったそうだ。
「――ですが、今から九年前、彼はとある事件を起こしました」
ほんの少し語気を強めて、リーファは続ける。
「事件……?」
「街全体の探索者ギルドと、真っ向から闘争を起こしたんです。彼の思想に共感した探索者と団結して、ギルドに反旗を翻したとか」
「なんで、いきなりそんなことを……」
「わかりません。ただ、私が推測するに、彼にも何かそうするだけの事情があったんだと思います。……その部分に関しては、ギルドが隠蔽してしまっていますが」
「そう、なんだ……」
探索者として名を馳せていた彼がギルドに反逆し、尚且つギルド側も隠してくなるような『事情』。実の娘でもある彼女すら知らない彼の抱えた『何か』の正体を、僕も知りたくなった。
「それで……その闘争の中で、リーファのお父さんが亡くなったってこと?」
「『亡くなった』という知らせだけは六年前に母のもとに届きました。遺体は見せてもらえなかったそうですが」
それからの流れは、おおかた僕の想像していた通りだった。
最愛の夫を亡くした悲しみから、リーファのお母さんは子供をも顧みなくなった。
本物の廃人となって、漫然とこの六年の日々を浪費した。
立ち直る機会も、一度壊れた関係を修復するための機会も見失って。
リーファは椅子を回転し、背後の窓の方を向いた。
真っ暗な夜空に、青白い星々が光り輝いている。
コーヒーカップを片手に、リーファはゆっくりと呟く。
「――でも私、思うんです。彼は実は、今もどこかで生きているんじゃないかって」
くだらない夢を語る子供のように、リーファは無邪気さを見せた。
それはただ、彼の遺体が確認されていないというだけの、僅かな希望から来る言葉だった。
「いつかまた私たちの前に現れて、今の拗れた関係を元通りにしてくれるんじゃないかって……ずっと」
それが叶わぬ夢だと、彼女は最初から知っていたのだろう。
叶わぬ夢を願い続ける彼女の横顔は、痛々しいほどに悲壮感に満ちていた。
「……そうなったら、いいね」
「はい。そうだったら一番いいんですが……そう上手くはいかないものです」
――だから、その代わりに今を頑張っている。
自らの原動力を、リーファはそう語った。
その理由を改めて聞かされて、僕は今度こそ納得した。
父親の死で半ば見捨てられた自分のことを、もう一度見てもらうために。
誰も成し遂げたことのないような発明をして、母も振り向くような自分になるために。
リーファの行動原理はどこまでも真っ当で、真っ直ぐで、強かだった。
強く生きる彼女の生き様に、僕は憧れすら感じてしまう。
「リーファは、すごい人だよ。誰がなんて言おうとも、僕はリーファを尊敬する」
無意識に、思っていたことをそのまま口にしていた。
なんの捻りもない尊敬の念が、気づけば言葉として口から出ていた。
「え……? そう……ですか?」
少し赤らんだ顔で、リーファはこっちを振り向く。
そして照れくさそうに、また窓の方に視線を移す。
気持ちに任せて口走った言葉を、僕も今になって恥ずかしく思ってきた。
「えっと……まあ、嬉しいです。ありがとうございます……」
さっきまで神妙だったリーファの表情が、少しだけ緩んだ。
それを僕は嬉しく思いつつ、コーヒーを一口啜った。
〈重要なお知らせ〉
2話前でも予告しましたが、今話が六章最終話ということで少しばかり休載に入ります。
期間としては二週間ほどかと思いますが、詳しくは今日付の作者の活動報告にて。