第68話 すれ違う日常
あの日――僕があの推薦状を受け取った日。
僕がした選択は、間違っていなかったのだと思った。
あれからというもの、僕の日々は再び輝き出した気がした。
『入学試験合格』という明確な目標をもったことで、僕の中で眠っていた活力が働き出したのだろう。
リーファに座学を習い、エリカさんに戦術を学ぶ。
そんな時間の繰り返しが、着実に僕の日々に彩りを与えていった。
***
「及第点です。よくできました」
心做しか、いつもより嬉しそうなリーファの声。
僕が解いたテストの答案を、彼女は手渡してきた。
試験対策を始めて一週間、成果は少しづつ見えてきていた。
「数学に関しては言うことはないですし、探索者理論基礎もまあ大丈夫そうですね」
「やっ、たぁあああああ……!」
まさか、リーファに褒められたというだけでこんなにも嬉しいとは。こうして成果が上がっているという実感を得ることは、モチベーションの維持にも繋がってくる。
ここまで、本当にいいペースで実力がついているようにも感じる。
始まって一週間、このペースなら本当に――
「で す が ……魔法基礎に関しては、まだまだです」
「えぅっ……」
舞い上がっていた僕は、現実に引き戻れた。
改めて返された答案を見返してみる。
試験科目は三教科――『数学』、『探索者理論基礎』、『魔法基礎』の三つだ。
現実世界でも履修していた数学は、ある程度はできた。
というか寧ろ、僕の得意分野なまである。
探索者として必要な知識を問う『探索者理論基礎』に関しても、そこまで捻くれた問題はでないから点を取りやすい。なにより、元から探索者なら解けて当然の問題ばかりだ。
ただし魔法基礎、テメーはダメだ。
僕にとってあれは鬼畜すぎる。
僕の知っている『勉強』の概念に、この教科は噛み合わない。
「そこは何卒ご勘弁を……」
「残り一週間はずっと魔法基礎でいいですか?」
かわいい顔でなんてこと言うんだこの子は。まるで鬼教師だ。
まあ、言ってることは正しいから何も言えないんだけど。
「……はい。お願いしますリーファ先生」
「それはこちらこそ。ユイトさんも、よく頑張ってると思いますよ」
「うん……この努力が実ればいいんだけどね」
ここまで彼女につきっきりで教えてもらって、結果が散々だったら笑えない。
程よい重圧は感じておくべきだ。
「息抜きに煮干しでもどうですか?」
「それ、僕が買ってきたやつなんだけど……」
***
「キミは、お昼ごはん何が食べたい?」
〈Ryo-Ran〉の店の裏、いつもの空き地にて。
本日の修行が始まって早々、エリカさんはそんなことを訊いてきた。
唐突すぎて逆に怖い。
「えっ……なんでですか?」
「別に。今日はお昼、私が奢ってあげようと思って」
「ああ、そういうことですか……」
「ご褒美? とか、あったほうがいいでしょ?」
「はい」
これは最近になってわかったことだけど、エリカさんは一見無愛想に見えて意外と優しい。というか、僕に甘い。打ち合いの稽古が終わるとに撫でてくれたり、おすすめの喫茶店に連れて行ってもらったり。
これが普通……なのかはわからないけど、嬉しい。
「ユイトの好きなものでいいわよ。それで、何がいい?」
「じゃあ……ステーキで」
「キミ、一昨日からステーキばっかり食べてるけど?」
彼女が奢ってくれるからといって、僕もそこまで甘えてしまうわけにもいかない。
とはいえステーキはゴチになるけど。
だって、散々体を酷使したあとで食べる肉は至高なのだ。
「まあ、いいわ。それじゃ、今日は体力づくりから始めましょうか」
エリカさんはそう言って、僕を連れて路上に移動した。
何をするかはわかってるけど、嫌な予感しかしない。
「エリカさん、あの、今日のメニューは……?」
「町内一周マラソンよ」
「あ、はい」
終わった。
数日前より始まった、体力づくりトレーニング。
元々体力のない僕のために用意された訓練メニューは、どれもなんというか脳筋だった。『スクワット50回×3&腕立て伏せ50回×3&プランク5分間×3』とか、『第三学園校内20周』とか。
どれも最短で体力をつけるための、地獄のような訓練だ。
だけど、打ち合いの修行を続けるにしても体力は必要だから、避けては通れない道なのかもしれない――。
「大丈夫、私もついてるから。それじゃ、始めるわよ」
「っ、はい!」
死んでもやりきるしかない。というか、僕の場合死んでも残機がまだたくさん控えている。何の心配もない。
ここは一丁、覚悟を決めよう。
***
同時刻。
南のメインストリート付近にて。
「よし、これで頼まれてたもんは全部か……」
大きな紙袋を手にした赤髪の青年が、ギルドから大通りを歩いていた。
装備品である手甲を両手にはめた、頼りがいのありそうな青年だ。
彼の持つ袋には、街で買い集めたアイテムやダンジョンで得た魔石などが入っている。彼は再度立ち止まってメモ用紙を見直し、袋の中の内容に不備がないか確認した。
「先生も待ってるし、そろそろ戻るとするか」
ギルドとは反対方向に、彼は歩き出した。
その道中、大通りでランニングする二人組とすれ違う。
「ペースが落ちてるわよ。気を抜かないで」
「は、はいっ! 師匠!」
一瞬すれ違った少年の声色に、青年は思わず振り返った。
ほとんど反射的に、無意識に。
(今の、声……)
通り過ぎていった少年の、白と黒のツートンの後頭部を目で追う。
紫の髪の女性のあとについて走る、活動的な少年。
見慣れないその後ろ姿に、赤髪の青年――アスタは、ささやかな希望を打ち砕かれた。
「いや、まさかな……」
悲しげな微笑みを浮かべ、彼はまた歩き出した。
彼はそのまま、大通りの端にあった建物に入っていった。
一階建てで構造は古く、中には“患者用の”ベッドがいくつか並べられている。
「――ハイネ先生、持ってきましたよ。頼まれたもの」
数人の患者が並ぶその部屋の奥に、アスタは向かった。
ややあって、カーテンで仕切られたスペースの方から、一人の女性が顔を出す。
「おお、お主か。ご苦労だったな」
「いえ。……それより、シャルの容態は?」
「変わりない。目覚める気配はまだないが」
血のように赤い目、長い白髪に透き通るような白い肌。
まだあどけなさの残る顔のその小柄な女性は、アスタから紙袋を受け取った。
アスタはカーテンを開け、ベッドで眠る人物と対面する。
「シャルの〈樹〉、また大きくなってますね」
「うむ、薬の投与で幾分ましにはなったが……」
ベッドで眠る灰色の髪の少女の頭には、一本の『樹』が生えていた。
あたかも彼女の体の一部だとでもいうかのように、〈樹〉は彼女の頭部に根を生やして育ち続けている。植物と一体化した少女の姿は歪だが、見方によっては神秘的な絵画の一部のようにも見えてしまう。
先の〈エルダートレント〉との戦いで頭部に受けた傷は、その毒性とともに着実にシャルの身体を蝕んでいた。傷口から入った〈エルダートレント〉の樹皮毒は、やがて一本の木となって寄生主の身体から生気を吸い始める。
こうなってしまった以上、彼女はもう普通の生活に戻ることはできない。
「いかんせん、ここまで毒を除去する方法はない。わらわにできるのは、ポーションで病状の進行を遅めることだけ……。あの階層で〈エルダートレント〉と遭遇して生還しただけ、お主らは運が良かったということだ」
「いや、俺らが帰ってこれたのは……俺らだけの力じゃないです」
近くにあった椅子に腰掛け、アスタはシャルの寝顔を見つめた。
垂れ下げた拳に、少しだけ力を入れる。
「――俺たちを、自分の身を犠牲にしてまで守ってくれた奴がいたんです」
彼の脳裏に浮かんだのは、他でもない、あの日の光景。
順調だった彼らの日常を引き裂いた、あの日の災厄。
そして、自分たちを助けるために自己犠牲を選んだ、一人の少年のこと。
「あいつには……一生分の借りがある。俺も、シャルも」
「……そうか」
思い詰めた表情のアスタに対し、赤目の女医は短く言葉を返した。
紙袋を手に、彼女は去り際に彼に語りかける。
「思い詰めすぎるのもよくない、とだけ言っておくぞ。あのとき、そなたがわらわのところに来るのが少しでも遅ければ、彼女の症状はもっと悪化していただろうからな」
「……わかってます。すみません、気を遣わせてしまって」
「こちらこそ、あまり力になれなくてすまない。それと、物資調達の協力、お主には感謝している」
いえいえ、とアスタは乾いた笑みを返す。
紙袋を手に、幼気な女医は奥の部屋に戻っていった。
一人残されたアスタは、静寂の中独りごちる。
「なぁ、ユイト……お前はまだ、どこかで生きてるんだよな……?」
*作者はバリバリの文系なので、この世界の数学がどの程度まで発展しているかとか、授業ではどの分野を扱うかとかは全くもって考えていません。とりあえず、中3生ができる範囲で想定しています。
高校数学は……知らん……




