第62話 事案
ユイトたちが探索から帰った、少しあとのこと。
雨の降りしきる夜を迎えた第三学園の大浴場に、リーファの姿はあった。
「はぁ……」
湯船に肩まで浸かり、彼女は浅く息を吐く。
広い浴槽には、彼女の他にも何人かの女子生徒が湯を堪能していた。
「どうしたのリーファちゃん、溜め息なんかついちゃってさ」
身体を洗い終えたレイチェルは、湯に浸かるリーファの隣に足をつけた。
大袈裟に心地よさそうな声を上げ、自身も艷やかで色白の身体を湯に沈める。その左腕は、アームカバーに似た布で覆い隠されていた。
「何か、悪いことでもあった?」
「レイさん……」
「ん?」
「レイさんがお風呂に入ってるなんて、珍しいですね」
「失礼だな! ちゃんと毎日入ってるよ!?」
彼女をからかって満足げな笑顔を見せたリーファは、それから少しだけ声を落としていった。
「――ユイトさんのことで少し、悩んでたんです」
思い悩んだ風に、水面を見つめるリーファ。
相槌代わりに「なるほどね」と小さく呟いたレイチェルは、雨の降る外の景色に視線を移した。見る者を感傷的にさせるような、強かで鬱屈とした雨模様だ。
「あれからずっと寝込んでる感じ?」
「はい……吐き気があっただけで、体調は問題なさそうなんですけど」
「メンタルまでは、さすがにどうしようもできないか……」
困ったような表情で、レイチェルは苦い笑いを浮かべる。
ダンジョンから帰ってきたユイトの姿を見て、レイチェルもリーファから事情を聞いていたのだった。
「あいつもあいつでさぁ、な〜んで初対面であんなこと言っちゃうかなぁ……」
「あいつって、フェイさんですか?」
「そう。あのクソエルフ、ちょっと偉くなったからって調子乗ってんじゃないの?」
フェイ、という赤髪のエルフには、レイチェルも面識があった――
というより、切り難い『縁』があった。
リーファとレイチェルにとって彼は、学生時代を共に過ごした『仲間』であったからだ。卒業後の現在は顔を合わせる機会こそ少なくなったものの、探索者として功績を上げ続ける彼の情報を耳にすることは多い。
「今やあの人、アーディアでも7人しかいない〈ランク5〉の一人ですからね」
「そうだねぇ……まあ、もう驚きはしないけどさ」
感慨深げに、そして少し淋しげに彼女の言葉は水面に吸い込まれる。
外の雨音は次第に強くなっていった。
「探索者に向いていない、か……単純で直球だけど、そんなこと面と向かって言われたら、誰だって落ち込むよね……」
「ユイトさんの場合、探索者でいることが自分の存在意義だと思ってたくらいですから、なおさら……」
「うーん……ボクみたいにならなきゃいいけどね」
「変なこと言わないでくださいよ」
「変なことって何さ! 可能性としてあるかもしれないって話だよ!」
「……そうですね」
そう言って俯きがちになるリーファを見て、レイチェルは小さく溜め息をつく。
湯に濡れた自身の白い肌を撫で、独り言のように呟いた。
「時間が解決してくれることもあるっていうけど、あの子はどうだろうね」
「……どうなんでしょう」
「お願いだから、ボクみたいにはならないでほしいな〜」
湯気の立ちこめる湯船から、彼女は立ち上がった。
去り際に、彼女はリーファに語りかける。
「だからまあ、いざってときは、ボクもちょっと干渉するかもよ」
「……レイさんがですか?」
「そう。――同じように挫折を経験した、人生の先輩としてね」
***
布団に潜っている。
ただ、時間だけが無意味に過ぎていく。
どれくらい時間が経っただろう。
眠ることもなくベッドで天井を見つめるだけの時間が、延々と続いていた。
「……………………」
外は大粒の雨粒が降りしきっていて、窓にも水滴がへばりついている。
雨音と、自分の呼吸音だけがきこえる。
天井のシミを数えて、僕は沈黙した。
何をするにも、気力が沸かなかった。
何もしたくなかった。
独りでいたかった。
ダンジョンであの人と出会って、その後色々耐えきれなくなって、吐いた。
それ以降の今日の自分の行動を、僕はあまり良く覚えていない。
食事を摂る気にもなれなくて、リーファにも断っておいた。
『貴様は、探索者に向いていない』
あのとき言われた言葉が何度もリフレインする。
これ以上ない正論だったと思う。
心のどこかで納得してしまう自分がいて、変な気分にさせられた。
そう、今の僕は抜け殻なんだ。
記憶を失う前、僕は三日間も戦い続けるほどに、『人として』強かったはずだ。それがどんな方法であれ、我ながら普通の人間には到底成し得ない奇跡だと言っていい。
でも、そんな僕はもういない。
死を恐れずに戦えるほどの化け物じみた胆力は、今の僕にはない。
あのとき、リーファの隣で戦っていたであろう僕は、もう死んだ。
誰かのために、何かのために戦う僕は、もう幻のものになった。
――あのときの僕が、異常だったのだ。
今ここにいるのは、あのときの目的を喪い、戦うことにすら恐怖を覚えるようになった惨めな自分だ。
(僕はもう、戦えないのかもしれない……)
吐いたあとからずっと、武器を握る手が震えていた。
ダンジョンへの入口なんて、今は見たくもない。
もういっそのこと本当に、探索者なんて辞めてやろうとも考えた。『このままじゃダメだ』なんて言っていた自分に嘘をついてまで、この道を絶ちたいと思った。
「仕方ないんだよ、だって……」
自分への言い訳を探す。
清々しいまでに、僕は人間として終わってる。
「だってもう、どうしようもないんだから……」
わけもなく、手のひらが天井に伸びる。
掴みかけていた未来が、指の間から逃げていくような気がした。
「……本当に、そう?」
足元にいたナーシャが訊ねてくる。
ゆっくりと間延びした、聴き心地の良い声だ。
そう、彼女はさっきからずっと僕の足元にいて――
「…………え?」
「え?」
「ちょ、ちょっと待ってナーシャ、いつからそこにいたの?」
「えーっと……『仕方ないんだよ』から」
やばい、最悪だ。
感傷に浸りまくって出た独り言を、初っ端から聞かれていた。
恥ずか死ぬ。穴があったら入りたい。
そして生き埋めになりたい。
「あのさ……音もなく現れるのはやめよう? 心臓止まるかと思ったよ」
「ん、ごめん」
ナーシャは眠たげな目をしながら、僕の足元でベッドに半分顔を埋めていた。
足音もなく部屋に入ってこれるのは猫の習性なのか、彼女の才能なのか。
「それで、ナーシャはなんでここに?」
「誰も構ってくれないから、来た。構って……」
「誰もって……リーファは?」
「お姉ちゃんはお仕事に行くっていって、いない。かまって」
「わかったよ……」
仕方なく僕もベッドから起き上がった。
ずっと横になっていたから頭痛が酷い。
眠そうに目を擦るナーシャは、じっと僕を見つめている。
構うって、具体的にはどうすればいいんだろう。
リーファはというと、例の『ポーションの研究』とやらでこの時間はいないらしい。
夜遅くに活動するパターンの方が夜行性な彼女の性に合っているらしいけど、いくらなんでもそれは体に障る。と言っても彼女はとても不健康には見えないけど、一体いつ寝てるんだろう。
それにしても、リーファたちの生活には一つ、気になる点がある。
「ねぇナーシャ、ナーシャのお父さんやお母さんは、ここにはいないの?」
彼女たちの生活には、両親の干渉が見られない。
それはここが学生寮だっていうのもあるんだろうけど、ナーシャたちの幼さからして、望んでここで暮らしているというようには見えなかった。或いは、何かを強要されているようにも見えた。
つまり、僕と同じように、二人はここにいるべき理由があるんじゃないかと勘繰っていたわけだ。
「いないよ。お父さんは、今どこにいるかわからない。お母さんは、たまにしか会っちゃいけない……」
「たまにしか、って?」
「お母さんは……わたしたちと会っても話してくれないの」
質問したあとで、僕は後悔した。
彼女の言ったことから、悪い方向の予想がいくつも生まれたからだ。
ナーシャたちの家庭環境は、僕が思っていたよりもずっと複雑なものなのかもしれない。
少なくとも、彼女の口から語らせていいものじゃなかった。
「ごめん、ナーシャ」
「なんで謝るの……?」
「いや、辛いこと喋らせたかなって思って……」
「別に、つらくないよ。今はお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるから、幸せだよ」
「……そっか」
ナーシャは僕の足元で寝そべりながら、少しだけ微笑んだ。
母親のいない寂しさなんて微塵も感じさせないような、純粋で満足げな澄みきった微笑。
その笑みに不思議と、彼女の強かさみたいなものを感じ取ってしまう。
心根の強さは、もしかしたらリーファと同じか、それ以上なのかもしれない。
さすがは姉妹といったところだ。
「……お兄ちゃんこそ、つらくないの?」
黙りこくる僕に、ナーシャは再び眠そうに訊ねてくる。
もう、寝ればいいのに……。
「ご飯食べれないって、つらいでしょ?」
「ふふっ、それはまあ、そうだね」
「ねぇ、お兄ちゃんは……探索者、本当に辞めちゃうの?」
きっと、リーファから色々聞いたのだろう。
気は進まないけど、この問題を誰かに話してみるのもいいと思った。
その方が幾分気が紛れそうだ。
「それは……正直、迷ってるんだ。自分がやるべきだと思ってたことを否定されて、それで気持ちが揺らいでうだうだ悩んでる自分が、今は嫌いでさ」
「ふーん……」
「まともに戦うこともできなくなって、簡単に諦めようとしてる自分にさ、失望したんだ」
思わず、本心を打ち明けた。
彼女の純朴な瞳に、僕はいい意味で安心しきっていたんだと思う。
すると、静かに僕の話を聞いていたナーシャがゆっくりと口を開いた。
『失望は、それまでの自分に期待していた証拠だよ』
今度こそ、心臓が止まるかと思った。
やけに流暢に発せられたその一言に、僕は胸を一発突かれたような感じがした。
「えっ?」
「……って、昔お姉ちゃんが言ってた」
「ああ、そう……いい言葉だね」
びっくりした。
あのリーファの受け売りなら、まあ納得はできる……か。
それでも、言葉が出なかった。
その一言に、思ったよりも心を動かされていたからかもしれない。
「落ち込むほど期待してたんだから、きっと『それまで』の自分も捨てたもんじゃない、って……」
「……たしかに、その通りかもね。ただ単に自分の理想が高すぎたと思えばいい……」
「ん、そういうこと」
うまく僕の思考を誘導してくれたナーシャは、そこで力尽きた。
自分の仕事は成し遂げましたと言わんばかりに、タイミングよく眠りに落ちる。
彼女は僕の相談相手として十分やってくれた。
実際、彼女の言葉に僕は少しだけ救われた。
一人で悩んでいるだけじゃ得られないものは、たしかにそこにあったんだ。
「ありがとう、ナーシャ」
地べたに膝をついてベッドで突っ伏す彼女の頭を、何度か撫でた。
何かをやりきったような、清々しい寝顔だった。
「……って、ここで寝られたらまずくないか?」
まずい、時間も時間だ。
もし今、この場を見つかったら――
リ ー フ ァ に こ ろ さ れ る !
サブタイの『事案』の意味は……
紳士の皆さんならわかりますよね?