#4 distorted memory
唯都が自殺を決行する、そのちょっと前のお話。
授業前のチャイムが鳴り響く。
腹痛でトイレにいた僕は、手洗いのあと廊下でそのチャイムを聴いていた。
「あ……」
呆然と、ただそんな声が漏れる。
この瞬間、次の授業に遅れるのが確定した。
三年の廊下でぽつんと立ち尽くしていた僕には、そのまま教室へ向かうのもはばかられた。普通ならダッシュで駆け込むのがせめてもの誠意だろうけど、どうせ遅れるならゆっくりのんびり行ったっていい。
……いや、むしろ行かなくてもいいか?
次の授業は確か数学。
数学担当は『催眠術師』の異名で有名な井口先生。
通称いぐっちゃん。
あのおじいちゃん先生の授業は、眠気を誘いすぎるせいで正直聞く気も失せる。
それに、クラスのうるさいやつらが騒ぎ立てても注意しないから、今頃教室は荒れ放題だ。
そんな中で僕一人欠けていてもバレやしない。
数学は塾でやってるし、授業は聞かなくてもついていける。
「……よし、サボろう!」
僕――日隅唯都は今日、初めて授業をサボる。
そうと決まったらなんだかワクワクしてきた。
この四十五分、どうやって時間を潰そう?
保健室で仮病使って寝る?
――いや、それじゃ早退させられるかも。
こっそり帰ってみる?
――バカか、荷物は全部教室だ。
「んー……」
こうして階段に座って堂々巡りをしているうちにも、時間はゆったりと流れていく。いっそもう、このままぼーっとしてるのもアリかもしれない。
そう思った矢先、僕は頭上にあった窓を見上げた。
窓枠で切り取られた、雲ひとつない青空。
腹立たしいくらいに澄み渡った蒼穹。
「――そうだ」
思い立った僕は、階段をかけ上った。
***
(普通に入れるもんなんだ……)
しばらくして階段を全部上りきった僕がたどり着いたのは、言うまでもなく屋上だった。屋上へのドアは鍵が掛かっているものだと思ってたけど、不思議なことに全然入れた。
中学三年にもなって、屋上に来たのは初めてだ。
いつもの教室よりも格段に空が近く感じる。
僕の身長より高いフェンスに近づくと、そこから周辺の街の景色が一望できた。余す所なく敷き詰められた住宅に、その間を縫うように走る車の往来。割と近くに感じるビル街に、うっすら見える東京スカイツリー。
僕が昔住んでいた街とは一味違った、都会の眺望。
来てよかった、と少し思った。
「――おい、お前もサボりか?」
突然投げかけられた声に一瞬背筋が凍った。
もしや、先生に見つかった?
おそるおそる振り向いてみると、その相手は頭上で胡座をかいていた。
「わりと不真面目だよな、お前も」
「無月……」
ドアの上の謎の高台――あとで調べたけど、『塔屋』というらしい――から僕を見下ろしていたのは、不良な僕の幼なじみだった。伸びきった金髪を揺らし、膝を立てて座る姿はさすがに本職の不良だけあってサマになっている。
「まさか無月がいるとは思わなかったなぁ……」
「そりゃこっちのセリフだっての」
ドア横のハシゴを上る僕を、無月は鼻だけで笑う。
ハシゴを上りきった僕は、彼の隣に腰を下ろした。
さっきよりほんの少し高い眺めだ。
周りに遮蔽物がないからか、風が一段と強く吹きつけてくる。
「授業は?」
僕の顔を見ることなく、言葉少なに無月は訊ねる。
それから、補足するように言葉を接ぐ。
「サボってていいのかよ」
「数学なんて塾でもやるから、別にいいんだよ」
「ふーん……」
「あとウチいぐっちゃんだし、授業聞くだけ無駄だから」
「ハッ、そりゃ正論だわ」
とりとめのない会話が続く。
それから、国語と保健体育以外の全教科サボっているらしい無月の話を、僕は相槌を打ちながら聞いた。
ただの典型的な不良に見えて、文系にはちゃんと興味があるのが彼の意外なところだ。成績は保体以外だめらしいけど。
話題はやがて、無月が最近喧嘩した相手の話に移り変わる。
「こないださ、柔道部のやつと喧嘩した」
「負けた?」
「アホか。背負い投げくらったけど勝ったわ」
背負い投げって、中学生にかけていい技だっけ?
それでも勝てる無月は化け物か何かなのだろうか。
「そもそも、なんでそんな色んな人と喧嘩になるの?」
「まあ……いろいろあんだよ。イキっててムカつくから殴ったとか、冗談半分で向こうから足かけてきたりとか」
「なんか、思ったよりしょーもないね」
「しょーもなくない喧嘩なんかねえよ」
うんざりしたような溜め息を吐いた無月は、かすり傷だらけの自分の手を見つめていた。
「ほんとは俺だって喧嘩したかねーけど、ここには基本イキってる奴か癪に障る馬鹿しかいないからな。中学になってから、そういう奴に喧嘩売られてばっかだ」
達観したような口振りから一転、それを買ってる俺も大概馬鹿か、と無月は自嘲気味に笑ってみせる。
「無月でも喧嘩は嫌なんだ……」
「嫌なもんは嫌だよ。でも、全部殴り飛ばせば片付くだろ? やりたくないことでもさ、自分の世界を変えるためにはやるしかねえことだからな」
無月は昔から、自分の芯みたいなものを決して曲げない人だった。
周りがどれだけ腐っていても、全部自分の力でなんとかしてみせるような、危なげない勇敢さをもってる。
だからときどき、無月ならなんとかしてくれるんじゃないか、と期待してしまう自分がいる。他力本願で身勝手な僕は、いつの日か誰かに縋ることに慣れてしまうのではないか――たまにそう思う。
無月は、強い。
その強さに縋る僕は、弱い。
僕もいつか、無月みたいな人になりたい。
「……だからさ、お前もなんか嫌なことあったら俺に言えよ」
黙り込んでいた僕に、無月は間を開けて言った。
彼にとってはなんでもないような一言でも、僕にはそれは救いにも呪いにもなる。
このまま彼に頼っていたら。
もし、彼が居なくなるようなことがあったら――
「うん……ありがとう、無月」
葛藤を振り払うように、僕はそう口走った。
まだまだ子供な僕が悩んだところで、きっとどうにもならないだろう。
僕は無月みたいに、自分の世界を変えられるだけの力もないのだから。
僕の感謝に、無月はわずかに口端を上げて応えた。
一層強い突風が吹きつける。前髪が風に揺れ、白いワイシャツがパタパタと音を立てる。
向かい風に刃向かうかのような目つきで、無月は強かに言い放った。
「唯都の嫌なこともムカつくことも、俺がぶん殴ってなんとかしてやる。お前がやりたくないことは全部、俺に任せろ」
その言い回しだけ見れば、そこら辺の大人に「子供の戯れ言だ」なんて鼻で笑われるかもしれない。
実際のところ、全くもってその通りだと僕も思う。
彼の拳ひとつですべて解決しようものなら、この世界はここまで理不尽に満ち溢れていないだろうから。
――それでも。
彼のその言葉ひとつで、僕は救われる。
どんな馬鹿げた理論であろうと、僕の世界を護ってくれるのは彼と彼の戯れ言だけだ。
それだけはずっと変わらない。
「……にしても、ここは空がちけーよなぁ」
「そうだね」
千切れた雲がゆったりと流れる空に、無月は手を伸ばす。
僕もおもむろに顔を上げ、天を仰いだ。
この広い空に比べれば、僕の悩みなんてちっぽけなものだと、今はそう思えそうな気がする。狭苦しいあの教室にいるときよりも、幾分か心が晴れやかだった。
こんな綺麗な青空の下にあるというのに、どうしてこの世界は嫌なことばかり溢れているのだろう。
そう思うほどに、僕は漫然と空を仰いでいた。
時間の流れすら緩慢になりそうな屋上で、僕たちは言葉をなくして午後の風に吹かれる。
世界から僕たち以外の人間が消えてしまったと錯覚するくらい、静かな午後だった。




