第45話 夢の終わり
『ほんとによかったの?』
しばらくして、立ち尽くしていた僕に『僕』は訊ねた。
足音はせずとも、不思議と近づいてくるのがわかるようだった。
「うん、いいんだよ……これで。無月が望んでたことだから」
『彼のことを訊いたんじゃない。君は本当にこれでいいの?』
念を押すような口調で彼は言う。まるで僕の口から別の答えを引き出そうとしているみたいに。
「僕はって……だって、こうするしかないじゃないか」
『そうだね。でもそれは君がそう決めつけているだけ。そうやって理由付けして片付けようとしているだけだよ』
「――っ!」
にこやかな顔で平然と続ける彼とは対照的に、僕の頬は歪む。
彼は――いや、こいつは『僕』だ。
彼が僕である以上、彼の言葉や考えは僕が少なからずどこかで抱えているものということになる。
反論の余地なんて、最初からないのだ。
『これがそれぞれの幸せだから仕方ない、だから僕はひたすら我慢しないといけない。痛くても悲しくても、そう受け止めることで今の自分はさらに危うくなる。自分を守るためには、そういう感情は切り捨てるんだ』
「違う……」
『それが僕でしょ?』
「――違う!!」
違わないことだって本当はわかってるつもりだった。
だけどこうして反射的に言い返してしまうのは、ある種僕の防衛本能なのかもしれない。
自分が弱い人間だと誰よりもわかっているから、自分のことは自分で守らなきゃいけない。
辛いことや悲しいことを乗り越えるためには、マイナスな感情を自分で否定する他に方法はない。痛みに鈍くれなれば、その分楽に生きることができる。
受け流すことで自分を保ってきた。
目を逸らすことが最善だと思ってきた。
たとえそれが、その場しのぎの詭弁でしかなくても――。
『へぇ、違うんだ?』
彼は一歩進んで僕の方に近づく。
見たことない表情をした自分と瓜二つの顔に、僕は戦慄した。
『じゃあ君は、最初からわかってやってたんだね? わかった上で、受け止めるのを拒否したんだ?』
ああ……そうだ。彼はすべて知っている。
残酷にも、彼の言うことひとつひとつが僕の胸を抉り取っていく。
「……そうだよ」
俯いてただ立ち尽くす僕の発した声は、薄暗い地面に吸い込まれていく。
その声音を震わせたのは、果たして思い出を掘り返された怒りなのか、はたまた本来あるはずのなかった悲しみなのか。僕にはわかるはずもなかった。……けど。
込み上がってきた激情に、僕は突き動かされていた。
「ああ――そうだよ! 本当は認めたくなくて忘れたくなくて、それでも自分を守るのに必死だった!! 悲しみも苦しみも、痛みだって受け取るのを拒否してきた!! 僕さえ我慢すれば平気なんだって信じてきた、だから全部背負い込んでぐちゃぐちゃになったんだよ! そのせいでここには今、なにも感じなくなった僕が惨めに生きながらえてるだけなんだろ! 僕だってそれくらいわかってるよ!!」
頬から雫がこぼれ落ちる。
現実でさえまともに泣いたこともないのに、涙は止めどなく流れてくる。
目の前のもう一人の自分は、僕を憐れむような目をしていた。
「それでもっ……それで誰かの幸せを守れるなら、僕は……」
『――自分の命ですら犠牲にする。わかってるよ。僕は……捨てる強さはもってるけど、受け止める強さはもってないからね』
優しく諭すような口調に、不思議と胸の中の熱が鎮められる。こいつの言うことは正しい。
でもその正しさこそが、僕を本当の意味で狂わせるのだ。
こいつは、正しすぎる。
『ねぇ、僕。僕は、受け止めてきたよ。君が拒否してきたものすべてを』
「……」
『僕だって君の一部だからね。僕はね、君を守ってあげてたんだよ』
「僕を……?」
彼の目を直視して、僕はやっと気づいた。
僕は何も感じなくなったわけじゃない。
心のどこか離れたところに、それらを仕舞い込んでいたんだ。
いつか僕が大人になったときにでも、受け止められるように。
それを肩代わりしてくれていた存在こそが、『もうひとりの僕』だった。
背負い込んでいたのは僕じゃない。彼だ。
『そう、これまではね。でもこの先はそうもいかない。いつか君も背負わなくちゃいけないんだ、この苦しみを。だからさぁ――』
「――っ!?」
『これからは僕たちで分け合っていこう。受け止める強さだって、君には必要なんだから』
歩み寄ってきたもう一人の自分の温度のない手が、僕の肩に触れた。
――その瞬間、感じたことのない程の嫌悪感が全身を襲った。
苦痛。劣等。罪悪。後悔。心傷。
彼の背に潜んでいたそのすべてが僕を包み込み、檻のような闇となって閉じ込めた。
『……ほら、これが僕たちのすべてだよ。
この痛みも苦しみもぜ〜んぶもれなく、僕たちのモノだ!』
いやだ。こんなもの――
こんなものは僕じゃない……
僕は僕を知りたくなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
これが、僕?
「嘘だ」
「こんなの、僕じゃない」
「僕じゃ、ない……」
「ごめんなさい」
「弱い僕で、ごめんなさい」
「母さんも、無月も、助けられなくてごめんなさい」
「■しちゃって、ごめんなさい」
『いいのよ、唯都』
誰かの声がした。
懐かしさに満ち溢れた、柔らかい声色。
『これ以上、自分を嫌わないで』
母さんが、そこにいた。
うずくまっていた僕の背中に、温かい手のひらが触れる。
「母さん……」
これは夢だ。
都合のいい、ただの夢だ。
それでも、僕は泣きたくなった。
「ごめんなさい……」
ずっと言いたかったことを、僕は伝えようとしていた。
「気付けなくてごめんなさい! わかってあげられなくてごめんなさい! 泣けなくてごめんなさい!!」
何もない空間で、僕の泣き声がこだまする。
幼い子供のように泣きじゃくる僕は、母さんに抱きしめられていた。
「僕が悪かった! 僕が弱いから、母さんは、母さんはっ……」
何も言わずに、母さんの手が優しく僕の背中を撫でる。
色んな感情でぐちゃぐちゃになった僕は、精一杯のわがままを、叫んだ。
「――僕も今すぐそっちに行きたい!! そっちに行って、母さんと無月にずっと謝りたい!!」
ありったけの後悔と苦しみを、僕は吐き捨てた。
温度のないはずの母さんの手が、無性に温かかった。
「唯都、」
「……なに?」
泣き腫らした目で、僕は母さんを見る。
「お母さんたちのことは、もう、忘れて」
悲しげな微笑みが、目に焼き付く。
「なん、で……」
「唯都はね、なにも悪くないの。あなた一人で、全部を背負い込む必要なんてない」
「でも、なんで、忘れるなんて……」
「私たちのことを思い出して辛くなるくらいなら、今は忘れたままでもいい。唯都はまだ、今を生きてるんだから」
その言葉も、すぐには呑み込めなかった。
本当に忘れてしまおうとしている自分がいるのが、怖いばっかりで。
「そうだぜ、唯都。俺たちは、お前を恨んじゃいない」
跪く僕に、無月が近づいてくる。
車椅子には乗らず、きちんとした足取りで。
「だから、自分を責めんなよ。今さら俺たちに謝られても、苦しいだけだ」
「そうよ。私たちが望むのは、元気に生きてる唯都の姿だけ」
二人は、僕を責めてなんかいなかった。僕が勝手に自分を責めてきただけで。
自分には今を生きる資格なんてないと思っていた。幸福を手にする権利も。
でも、都合のいい夢が、僕にこうやって訴えかけている。
僕は、生きなきゃいけないのかもしれない。
「お願い、生きて唯都。またどこかで、絶対会えるから」
「母さん……」
もう一度母さんに抱きしめられる。
夢の中でしか、聞けない声。
「唯都、お前は俺みたいに諦めんなよ。お前にはまだ、やるべきことがたくさんある」
「……わかってるよ、無月」
無月の差し出した拳に、僕も拳をぶつけた。
二人とはもう、会えないような気もしながらも。
光の差したこの場所で、僕は立ち上がる。
「行ってきます」
二人にそう告げて、僕は背を向けて歩き出した。
何もかも忘れてしまっても、僕は進まないといけない。
二人にもらった生きる理由が、今は僕の胸にある。
だから――
夢はもう、終わりにしよう。




