第44話 地に咲いた花火
この長い夢の旅も、終わりを迎えようとしている。
感覚的に――でもたしかな予感をもって、僕はそう思った。
毎度のことのように場面は合図もなく切り換わり、僕はまた新しい世界に立っている。
舞台は夏の終わりの病室から、どこかの建物の屋上へと移ろっていく。
「ここは……」
涼しい夜風が吹き抜けるその場所は、病院の屋上。
足元には、フェンス越しの街の夜景が一望できる――そんな場所。
『ん? 唯都なんか言ったか?』
僕の正面からした声の主は、言うまでもなく無月だった。
でも、この光景は今までとは決定的に違っていた。
――無月を載せた車椅子を、僕が押していたのだ。
「無月……?」
『なんだよ?』
「いや、なんでもない……」
驚きのあまり言い淀む僕に、無月は首だけ回して視線を向ける。
不思議なことに、僕の言葉に彼は反応していた。
過去の記憶の中の無月が、現在の僕に話しかけている。
三人称だったこの夢の世界が、僕の一人称の物語に変わっていた。
今まで客観視してきた過去の光景に、今度は僕が本来の視点をもって存在している。
それは言うならば、今僕はこの過去を変えられるということでもある。それはすなわち――。
今日死ぬはずだった彼の未来を、僕はねじ曲げられる。
ただし、それも夢の中だけの話。
それでも、僕にとっての今この機会は特別なものに違いなかった。
「っ、無月――」
言いかけた僕の台詞を、音と光がかき消す。
ふと見上げた夜空に、一輪の光の花が咲いていた。
大きな音と振動を伝えて爆ぜたその花火は、役目を終えてゆっくりと空の藍に溶けていった。
『……始まったな』
寂しげな無月の声。それを合図としたかのように、何発もの花火が空に打ち上げられる。
――9月25日。
鮮烈な目の前の光景とともに、その日付だけが脳内でフラッシュバックした。
この日、病院近くの川で開かれていた花火大会。それを知ってか知らずか、無月は僕に屋上へ連れて行くように頼んだのだった。だけど、昨日の発言からもその意図を僕は察していた。
『花火とか、俺に最高に似合わねーよな……』
ただ茫然と、独り言のように無月は呟く。色素の薄まった彼の金髪を、夜風が攫う。
何か言いかけて、僕はやめる。
探していたのだ――どこか危うげな雰囲気を漂わせる彼を、引き留める言葉を。
一体どんな言葉を見つければ、僕は彼を救えるのだろうか。
『――さて、僕はどうする?』
背後に戦慄が走った。車椅子を押す手を離し、咄嗟に振り向く。
そこに立っているものを、声を、僕は半分知っていた。
『やっと気づいたね、ちょっと未来の僕』
学校指定の黒い学ランを着た、黒髪の中背の少年。
その容姿すべてに、異様なまでの既視感を感じる。
――僕と立場を入れ換えられた『僕』が、そこに居た。
考えれば、当然の話なのかもしれない。
さっきまで『傍観者』でいたはずの僕がここにいる以上、過去の記憶上の『僕』はその矛盾によって存在を疑われる。だからこうして、『傍観者』の立場でここにいる。
この世界が僕の見る夢だとするなら、僕の考えるこの理論こそが正しいはずだ。
『流石は夢の主、飲み込みが早いね』
飄々とした態度の彼の顔に、微笑が貼り付く。
僕にしては明るすぎる、不気味な笑みだった。
『そう、今度は君の番だよ。君の思う通り、この場は君だけが動かせる。僕はただの傍観者で、君がプレイヤー。この夢の結末をどうするのも、君の自由だ』
僕の思考を先読みするかのように、彼は淡々と続ける。
「僕の、自由……」
『ああ。だから好きなように変えて見せてよ。この結末を、君の大嫌いな僕の前で』
大嫌い……か。
『恨んでんでるんだろう? ずっと。このときの僕を』
どうかと言われたら、そうなのかもしれない。
後悔の多い僕の人生の中で、僕は僕自身を悔やみ、恨み続けてきた。
意味のないことだと自覚していながら、そうすることでしか、この憂鬱に折り合いをつけられない自分が確かにいた。
だからこそ、僕は今ここで――
「変えてやる……」
昔の僕が出来なかったことを、成し遂げてやる。たとえ意味なんてなくても。
『うん、好きにしなよ。僕はもう何も口出ししないから』
もうひとりの僕が一歩退き、僕はもう一度無月の乗る車椅子に手を添える。無月は依然として、頭上に上がる花火に目を向けていた。僕ら以外誰も居ない屋上で、そんな時間が流れていた。
「……無月」
『ん?』
「無月は……たしかに、すごい人だよ」
『どした? そんな急に』
「ううん……やっぱりなんでもない。けど……なんか無月が遠くに行っちゃうような気がしたから」
『遠く? ……まあ、そりゃ行くだろうな。俺が死んだら』
遠くを見つめる彼の横顔は、見せたことのないような清々しさを湛えていた。
この世に未練なんてない、言外にそう言っているような微笑みを。
そこで、あたかも当然のように僕の中で迷いが生じる。
ここで彼を引き留めることは、本当の意味で彼を救うことにはならないんじゃないか?
自ら死を選んだ僕自身、彼の心境を理解できないわけではない。希望を見いだせなかったこの世界に、自分の人生に引き戻される辛さと残酷さを、僕は体験してきた。死んだほうがマシだと思うことも何度もあった。
だからこそ、夢の中とはいえ、その一歩が踏み出せない。
彼がもし、僕の言葉に『呪われる』ようなことがあったら。
『ま、お前は多分気にすることねーよ』
いつもより明るいトーンで、無月は言う。
背後に立つ僕に振り返ることなく、その顔は正面を見据えている。
彼との間にあった距離が、さらに遠くなったような錯覚を覚える。
無月はきっともう、僕とは一線を画したところにいるのだ。
僕の力では彼をそこから引き戻すことも、近付くこともできない。そう感じてしまう。
今僕が言わんとしていることを拒むような、僕を突き放す口調。
『俺が勝手に死んで、なんも関係ないお前は現実に残る。……それだけだからな』
花火は上がり続ける。僕は黙り込む。
車椅子の持ち手を握る手のひらから、ゆっくりと力が抜けていく。
そうしたい意思はあっても、どれだけの後悔があっても、やっぱり僕にはどうにもできない。
あの日僕がした選択こそが正しかったのだと、思い知るだけだ。
彼をこの世界に引き留めて、それが正しいことだと言い張るのは僕のエゴだ。
僕には無月の怪我の治す魔法もない。彼のこの先の人生を照らすだけの希望も示せない。
結局のところ、僕の手にはなんにもない。なんにもない僕の手は、誰も救えない。
「そうだね」
自然とそんな言葉が口を滑り落ちた。
自分はもう諦めているのだと、口に出してから気づく。
車椅子を手放した両手は、そのままぶら下がっていた。
目の前にいるはずの彼との間に感じていた距離が、途方も無く遠ざかっていく。
背中には、もう一人の自分の無遠慮で無関心な視線が刺さり続けている。
でも、これでいい。
夢の中であっても、僕のこの残酷な選択は彼にとって最善であることに変わりはないのだから。
「無月は……もう自由だよ」
数秒経って、車椅子から重さが消える。
事故でほとんど動かなくなっていたはずの両脚で、無月は危なげなく前屈みに柵にしがみつく。
夜景が広がる柵の外へ乗り出すように。
『ああ……俺はもう自由、だよな』
彼の上体は鉄の柵に預けられている。
彼の胸ほどしかないその鉄柵は、身を乗り出せばもう簡単に越えられる。
『……唯都、』
「なに?」
『俺は……こんなことでお前を呪うような奴じゃないから、安心しとけ』
「うん、わかってるよ……」
最後に、無月は顔だけこちらに向けた。憑き物が落ちたような表情で、悲しげな笑みを浮かべて。
その笑顔に再び胸が締め付けられる。僕の中で小さな迷いが生じた。でももう遅い。
『唯都、お前が優しい奴でほんとによかった』
柵が軋む。彼の踵が持ち上がる。
『ありがとな』
一瞬宙を舞った身体が、逆さまになる。
目の前の風景から、彼は消えた。




