第42話 赤信号
*多少ショッキングな表現が含まれます。
僕の予期していた通り、場面はある日の朝に切り換わった。
清々しく晴れわたった青空が印象的な、六月のとある朝。
開けた窓からは早朝の涼しい風が吹き抜けてくる。
いつもと変わらないの休日を、僕たち三人はマンションの一室で迎えようとしていた。
……はずだった。
『唯都、唯花、今日はどこか出かけようか』
それがこの日母さんの発した一言目だった。
この一言に感じた違和感を、僕は今でも鮮明に覚えている。
まず、僕の母は前にも言った通り、毎日仕事で忙殺されていた。
休日出勤なんて当然で、たまの休みにはご飯を作る以外はベッドで寝込んでいることが多かった。それくらい仕事に支配された生活を送っていた人なのだ。
なのにこの日は開口一番、そんなことを口にした。なにかが吹っ切れたような顔で。
初めて見る、母さんの作り笑いじゃない純粋な笑顔だ。
それでも、土日は家にいることが多かった当時の僕と妹にはそれが嬉しくてたまらなかった。土日に家族で出かけるなんてことは、父親が亡くなってから数年、ほとんどなかったから。
もし、誰かに可哀想な子供だと言われたら、それは違うと反論したい。
――可哀想なのは僕じゃなくて、僕たちのために頑張っていた母さんだから。
『二人はどこへ行きたい? お母さんがどこへでも連れてってあげるわよ』
朝食を口へ運びながら、母さんは屈託のない笑顔を浮かべる。その日は本当に母さんはよく笑った。
『ママ、お仕事は?』
唯花が不思議そうな顔で訊ねる。
疑うというよりかは、ただ純粋に疑問に思っていただけに見えた。
『いいのよ、そんなもの。唯花は気にしなくて大丈夫よ』
母さんが唯花の頭を優しく撫でる。不安がる唯花を安心させるように。
普段なら仕事疲れで気だるげな口調も、その日は朗らかだった。
それから数時間後。
電車に乗って出かけた僕たちは、都内のショッピングモールにいた。休日の過ごし方をよく知らなかった僕たちは、結局母さんの提案した場所を順にめぐることにしたのだった。
大きなおもちゃ屋で僕がおもちゃをねだり、洋服店で妹の服を見繕い、ゲームセンターでレーシングゲームをする。フードコートで昼食をとったら、近くの遊園地でジェットコースターや観覧車を飽きるまで満喫する。
なんでもないような、家族連れの休日。
それでも、僕たちにとっては特別な一日だった。
行ったことない場所で、見たことないものを見て、交わしたことのないような楽しい会話をする。たったそれだけの時間が、僕たちには新鮮でたまらなかった。
(やっぱり、楽しかったんだな……)
こうして客観視してみても、小学生の僕はとても楽しげだった。楽しげで幸福な家族の一員だ。
今でもこの日は、僕の人生の中でも数少ない幸せな思い出として刻まれている。
――このときまでは。
ついに、そのときがやってきた。
傾いた夕日がビル街を照らし、休日で混みあっていた道から人通りが少なくなっていく。
初めて訪れた遊園地を散々楽しんだ僕たちは、駅に向かって夕暮れの都会を歩いていた。
幅の広い横断歩道の前で、僕たちは足を止める。
高級車やタクシーがまばらに行き交う道路を前に、僕と妹は母さんと手を繋いでいる。
仲睦まじい家族の後ろ姿を、僕は遠目から見つめる。
楽しい一日が、終わろうとしていた。
そのときだった。
ふと、母さんが一歩を踏み出した。
『――ママ?』
戸惑う僕たち二人の手をすり抜けて、母さんは一歩一歩胡乱な足取りで進んでいく。
まだ、信号は赤だ。
『……母さん、危ないよ!』
僕がその背中に叫んでも、母さんは止まらない。
まるで何かに取り憑かれたかのように、躊躇なく進み続ける。
追いかけようとした僕を、横にいたサラリーマンが引き止めた。
怖かった。
僕たちを置いて、母さんは横断歩道の真ん中にいる。
よくやく立ち止まったかと思えば、母さんはゆっくりと僕たちに振り向いた。
『唯都、唯花、ごめんなさい』
赤い眼から、涙が流れている。
『弱いお母さんでごめんなさい』
周囲の人々が騒然とし始める。
『私、上手にお母さんできなかった……』
車のエンジン音が近づく。隣りにいた女性が悲鳴をあげる。
『ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい』
依然として赤の信号。助けに入ろうとする大人。響き渡るブレーキ音。
言葉を失った僕たち。
最期に笑った、母さんの顔。
『ゆるして』
異音。悲鳴。怒号。絶叫。
信号が青に変わり、周りにいた人々が一斉にざわめく。
救助に走る人、冷静に指示を出す人、スマホで写真を撮り始める人。
その一瞬で、すべては失われた。
僕と唯花は何が起こったのかわからないまま、その場に立ち尽くしていた。
『母さん……』
幼い僕は茫然と呟く。道路は真っ赤な液体で塗り潰されていた。
青に変わった信号が警告音とともに点滅する。
『母さん、どこ……?』
非情なまでの純粋さが、僕の胸を痛めつける。
『それ』は視界には入っていた。
でも、それがあまりに衝撃的な光景だったが故に、認めることができなかったのだ。
母親だったものが地面に転がっている現状を。
(…………)
周囲の大人に引き止められながら、道路へと歩いていく、小さな僕の背。
思わず目を背けたくなるほど、悲劇的で悲哀に満ちた姿だった。
――ゆるして。
僕たちを想うあまり、過剰なまでに自分を捧げてきた母さんのたった一つの願い。
これまで僕は一度も母さんを責めたことはない。
一人で身勝手に死を迎えたなんて、思うはずもない。
当然だ。感謝だってろくにしていなかった僕が、彼女を責める権利なんてありはしない。
このとき母さんの心はもうとっくに限界を迎えていたのだから。
むしろ、僕は自分を責め立てたかった。
遠回しながら助けを求めていた母さんを救うことができなかった自分を。
彼女の赤信号に気付けなかった僕を、僕は今でも恨んでいる。




