第41話 ゆがみ
『お〜い、ひねくれ者の日隅クン?』
いかにも生意気そうな小学生が、机に座る僕に向かって話しかけている。彼の周りには二人の活発そうな男子がいて、一人机に座って本を読んでいた僕は何も言い返さなかった。
ここは慣れ親しんだ小学校時代の教室。
今となっては小さく感じる椅子や机たちが並べられているこの教室で、小学生だった僕は休み時間には大抵一人で本を読んでいた。
特別読書が好きというわけではなかったけど、コミュニケーションが苦手な部類の子供だったのは間違いない。……いや、それは今もか。
『オマエの苗字、『ひずみ』って書いて歪んでるって意味らしいぜ? 田中が言ってた!』
何してくれてんだ田中。って、怒るのはここじゃないか。
無反応を決め込む小学生の僕をしつこく覗きこむ、通称――『イジメっ子1号』。
彼の横につく二人組は、さしずめ彼の取り巻きと言ったところだろう。
『ほらほら〜なんか言ってみろよ、歪みまくりのひねくれ者〜!』
いま見ても、こいつはなかなか人を煽るのにぴったりな顔つきだ。
まあ、名前という変えようのないコンプレックスでイジるのは小学生のいじめの定番だけど、僕の場合これは大していじめとして記憶に残らなかった。
――というのも。
『おい、さっさとどけよボケカスども。そいつはお前らなんかにキョーミねぇんだよ』
イジメっ子1号の背後からやってきたのは、一際背の高い少年だった。
金髪と茶髪の入り交じった頭に、小学生らしからぬ威圧感を放つ鋭い目つき。
典型的な不良少年の彼こそ、僕の唯一の親友であり幼なじみの湯上無月。
通称――ナツキング。うん、ダサい。
『うげっ、ナツキング……!』
『あ? どけって言ったの聞こえなかったのか? それともボコされてーのか?』
『お、おまえら逃げるぞぉっ!!』
ガラの悪い金髪小学生にガンを飛ばされ、イジメっ子三人衆は速やかに退散していく。
この教室において、無月に喧嘩で勝てる人はいなかった。
それもそのはず、彼は小学校低学年からボクシングジムに通うほどの真っ当な不良少年だったのだ。彼の戦績を知っていながら刃向かう奴は、馬鹿としか言いようがなかったくらいだ。
平和を取り戻した僕の机の前で、無月は小さくため息をついた。
『唯都、あんな奴らにイジられて悔しくねーの?』
一つ前の空席に座った無月は、本を読む僕を横目で見ていた。常に機嫌の悪そうな顔をしていた彼だったけど、僕にだけは自分から話しかけてくれた。
そういう光景が目立っていたからなのか、中学の最後まで僕が他の人に暴力を振るわれたことは一度もなかった。
……そういえば、彼の髪はどう見ても染めているのだろうけど、中学校まで貫けたのはなぜだろうか。
『僕は……無月みたいに強くないよ』
『ケンカ強くなくても、怒ればいいだろ? ちょっとくらいさ』
『……僕が怒ったとして、あいつらのいじめる相手が他の人に移ったら嫌だよ』
本のページをめくりながら、小学生の僕は淡々と続ける。こういう会話のときは大抵、頭の中に本の内容は入れていなかった。元々本が好きなわけでもないからいいんだけど。
『僕さえ我慢すれば、他の人は傷つかなくて済むでしょ?』
ふと口からこぼれ落ちた僕の言葉は、きっと誰かの同意を求めていた。
僕のこの考えはおそらく、母の影響を受けたものだったのだろう。
自分さえ頑張れば、自分さえ我慢すれば。
自分の周りの人は笑顔でいてくれる。
至極真っ当な考え方だと、今でも思う。
『おまえ、バカかよ』
僕を軽くなじるように、無月は間を置いて言った。
『おまえ、ずっと弱っちいくせに平気な顔するのだけは得意だよな。そのくせ誰にも頼らねーし。だから毎回、わざわざ俺が助けてやらないといけないんだよ』
無月はたぶん、僕のことを世話の焼ける弟ぐらいに思っていたのだろう。
そのおかげと言っちゃなんだけど、僕の居場所はいつも彼に守ってもらっていた。
僕に対するいじめがあれ以上に発展しなかったのも全部、無月のお陰だったのだ。
当時の僕はそれを知ってか知らずか、不機嫌そうな無月に笑いかける。
無月はツンと尖らせた口でまたブツブツ言い始めた。
『それにさぁ、歪んでるって言ったら俺の苗字の方があってるだろ? だって湯上だぞ?』
『そうかもね。じゃあ僕たちは「ゆがみ仲間」だ』
『何だそれ……まあ、悪くはねぇか』
不良少年の彼と、いじめられっ子の僕。
傍から見れば対局でおかしな組み合わせだけど、僕はそれで一向に構わなかった。
僕と無月のおかげで、この教室は健全で何気ない日常を保っていられる。
そんなちょっとした日々の積み重ねが、僕は好きだった。
僕たちの日々が本当の意味で歪み出したのは、もう少しあとのことだ。




