第40話 僕は夢を見る
あれから、おそらく数時間後。
僕は朦朧とする意識の中、脚を動かし続けていた。
12階層の入り組んだ迷宮を、一歩一歩重たい足取りで進んでいく。
向かう場所なんて決めていない。
出口はおろか、ここが何処かすらわかっていない。
それでもただ、僕は進み続けていた。
少しでも、『敵』と遠ざかるように。
やっとの思いで見つけた一瞬の隙をついて、僕は〈エルダートレント〉との闘いを放棄して逃げ延びてきた。アスタたちのための足止めも、もういい加減十分だろう。
そして何より、心身の疲労はとっくに限界に達していた。
「……っ!」
脇腹に激痛が走る。
直近の戦闘で、僕は左脇腹と右の太腿を敵の触手に大きく抉られていた。
脚の方は服の袖を使ってなんとか止血しているものの、内臓にまで届く脇腹の傷は塞がりそうにない。
なけなしのポーションはすべて使い切っている。
余分に買ったと思っていたポーションも、ここまでくると足りなくなるのも必然だ。
僕の感覚が狂っているだけで、本当は半日――下手したら一日闘い続けているのかもしれない。体力はほぼゼロ、空腹で頭も回らない。
傷に対する考えられる処置は、一応すべて施したつもりだった。
それでも痛む身体に鞭打って、僕はいま宛もなくダンジョンを彷徨っていた。
視界が狭窄する。同じく裂傷を負った額から流れ出た血が、左眼に映す景色を真っ赤に染めている。
ときどきふっと倒れそうになる僕を、痛覚信号が叩き起す。
現状痛みだけが、僕がこの世に生きている証左だ。
ふらつきながら無心で前に進み、意味もなくひたすら自分に問う。
どこまで進めばいい? どこにたどり着けばいい?
一体どうすればこの地獄は終わるのだろう?
「…………」
自問自答したところで、答えなんて出てきやしない。何も知らないままただ闘い続け、そして死に続けた僕の末路がこれなのだから。僕をここから救い出してくれる人も、もうきっといないのだろう。
奇跡でも起きない限りは――。
不意に踏み込んだ右脚から力が抜けた。
そのまま僕は力なく壁に寄りかかって崩れ落ちる。もう体力も気力も限界を迎えていた。
何十回、下手すれば何百回と死に際を演じてきたのだ。心はとっくにボロボロのはずだった。
痛みとか苦しみに鈍いことだけが取り柄だと自負して生きてきたのに、実際には呆れるくらい脆いものだ。
僕はやっぱり、弱いままだ。本当は最初からわかってた。
でも、錯覚していた。成り行きで力を手に入れて、おもちゃを手にしてはしゃぐ子供みたいにモンスターを蹴散らして。頼れる仲間ができて、この世界に居場所を見つけた気になって――。
そんな都合のいい物語、あるはずもないのに。
本質的には自分は何ひとつ変わってないのに、虚飾によって強くなった自分に酔っていた。
今でも笑い飛ばせるくらいに滑稽で愚かな自分に。
「ははは……」
淡白な笑い声がこだまする。
肉体的にも精神的にも、笑っていられる状況じゃないのは重々承知だ。
だけどどういうわけか、口を開けば自然と乾いた自分の笑い声があふれ出てくる。自分でも気味が悪いほどに、綺麗で歪んだ笑い方だった。
薄暗いダンジョンの通路で、僕は壁にもたれかかって虚空を見つめていた。どこに焦点を合わせることもなく、閉じかかった瞳は漫然と目の前の変わり映えのしない風景を映す。
〈エルダートレント〉が通ったらしい石畳の通路の上には、深緑の葉がいくつも散らばっている。
血に塗れた僕の右手は、マチェットナイフを握っていた。
僕はそれをおもむろに天井に掲げる。揺らめく魔石灯の光を、漆黒の刃が反射する。
自分の返り血のついた黒塗りの刃は欠け、鋭利だったその切っ先を失っていた。当然のことながら、僕と違って武器は壊れても再生しない。刃こぼれしていたものにしては、よく活躍してくれたと思う。
主戦力のマチェットが使い物にならなくなった今、僕の得物は背中に携えたバールのみ。
この状況でバールが何の役に立つというのか。
「ほんとに、バカみたいだ……」
右手の握力が失くなり、カラン、と乾いた音を立ててマチェットが地面に落下した。
瞼がゆっくりと下がってくる。もう、抗わなくていいだろう。僕はもう十分闘ったはずだ。
目が覚めたらまた死んでたっていい。
むしろ、本当に死んでいてくれればそれが一番いい――。
*
『唯都、起きなさい』
優しい声色が鼓膜を打った。
どこか聞き覚えがあって、だけど久しく聞いていないような、そんな声だ。
『もう、学校遅れるわよ。お母さんもう仕事行くから、唯花のことお願いね』
そうだ……これは、母さんの声だ。
数年前に事故でなくしてから、もうずっと聞いていなかったあの声。
今となってはこうして夢の中でしか聞くことが叶わない。
なんて都合のいい夢なんだと思う。
僕にはいま、まだ幼かった頃の自分の姿が視えている。
母親に揺さぶられもぞもぞと布団の中から這い出てくる、僕によく似た少年の姿を。
パタン、と寂しげな音とともに玄関ドアが閉まる。
朝方の母さんはいつも忙しそうだった。
僕たち家族の朝食と作り置きの夕食を作り、七時に家を出るのと同時に僕たちを起こしていく。
女手一つで僕たちを育てていた母さんは、生活費を稼ぐために夜遅くまで仕事をしてくることがほとんどだった。
幼い僕は、隣で眠っていた妹を起こそうとしていた。
二つ下の妹である唯花は、陽の光に怯えるように億劫そうに布団から顔を出した。
二人して寝ぼけ眼を擦って、リビングのテーブルでで朝食のトーストをかじる。
こうして客観的にみれば微笑ましい兄妹の朝だけど、仕事で疲労を溜めていく母さんの背中を見て育った僕たちの間には、楽しげな会話の一つだってなかった気がする。そんな僕たちのために、母さんは疲れを隠して無理にでも笑顔いるように心がけていた。
『唯都と唯花が元気でいてくれれば、お母さんは大丈夫よ』
母さんの口癖のようなものだった。僕と同じ赤色の瞳を細め、無理やりにでも笑いながら言う言葉。
無理してることくらい、当時の僕にだってよくわかっていた。
けれど、僕にはどうしようもできないことも同じようにわかっていた。
だからこそ、母さんは――。
『いってきます』
小学生の僕と妹が、誰も居ないマンションの一室に向かって言う。
重たい鉄のドアが鈍い音とともに閉まり、現実の僕は一人部屋に取り残された。
電気の消えた部屋で一人、僕は立ち尽くす。
これは言うならば、思い出の再上映と言ったところだろうか。
僕がこれまでに体験してきた出来事を、僕はこうして客観的な立場から見ている。
単なる夢とも言いがたい、不思議な体験だ。
ひょっとするとこれは、死に際の僕が見ている走馬灯に近いのかもしれない。
僕が逡巡しているうちに、なんの合図もなく場面は切り替わる。
唯都の過去回想編、スタートです。




