プロローグ『3月10日』
作者の海月野ななりと申します。
なろうには初投稿作品となりますが、何とぞよろしくお願いします。
3月10日。
僕、日隅唯都の記念すべき命日。
その日の朝、起きたら父親が死んでいた。
いや、『父親』は間違いだ。この人は正確には義理の父親。僕の伯母の夫だ。
「……なんだこれ」
キッチンで、僕は立ち尽くす。
壁にぐったりと寄りかかった『父親』の腹には包丁が突き刺さっていた。
何度も刃物を突き立てられたであろうその腹からは、もう血は流れていない。
白いワイシャツや床のタイルには赤い血が飛び散っていて汚い。なんで誰も片付けないんだろう。
この家の人は皆、僕より先に起きて仕事やら通学やらで家を出る。
それなのに、皆この死体を無視していったのだろうか?
「ま、いっか」
でも、僕の頭はあれこれ考えるのをやめた。
だってあの人は、僕の家族じゃない。
あんなのどうだっていい。
どうだっていい人のことを考えるだけ時間の無駄だ。皆だってそうしたはずだ。
僕は自分の部屋に戻って制服に着替え、リュックを背負った。
あの場所には戻らず、そのまま向かった玄関で靴を履く。
「いってきます」
返事はなく、玄関ドアが閉まる。
僕の人生最後の日が始まった。
それから少し経って、時刻は昼前。僕は電車に揺られていた。
平日の昼前ということもあって、車内は空席が目立っている。
午前授業で帰宅するらしい女子高生たちと、老夫婦の会話がぼそぼそと聴こえる。一人で端っこの席にいた僕はイヤホンをして、それらの声を掻き消すようにスマホで適当な曲を流していた。
膝の上で抱えていたリュックサックから、紺色の筒が覗いている。
実を言うと、今日は中学の卒業式だった。
卒業式と言っても僕にはもう卒業の喜びを分かち合う友達もいないし、涙を流して祝ってくれる両親もいない。式と記念撮影を終えて早々に退散してきたわけだ。学校から貰った記念品の造花も、その辺のゴミ箱に捨てた。
本来なら来るべきはずの『家族』も僕の予想を裏切らず、最後まで来ることはなかった。
よかった、と思った。
これで思い切りがつけるからだ。
これで誰にも知られずに死ねる。
『次の駅は――。お降りの際はお忘れ物にご注意ください――』
低い声音で車内アナウンスが響く。
電車がブレーキをかけてゆっくりと停止した。
気づけばそこは、見知らぬ街の名前も知らない駅だった。聞いたこともない駅名がホームの看板に記されていて、ホームの反対側の壁には安っぽい広告板が見えた。
行き先も決めずに乗ったのだから、当然といえば当然だけど。
結局その駅では誰も降りず、電車は再び出発した。
(次で降りよう……)
特に理由はないけど、そう決めた。
この小規模な旅を初めて早四十分。ICカードの残高がなくなることも考えての判断。それからなんとなく、乗り物酔いの気配が近づいてきている。さすがに人生最後の日に盛大なリバースはしたくない。
朧げな視線の先、窓の外の景色を見やった。
僕の住む街から離れていくうちに、高層ビルの類は次第に少なくなっていた。窓外の景観は都心から郊外へと移り、代わりに大型の高層マンションが増えていく。
この辺にはどこか、懐かしい感じを覚える。
母親が事故で死ぬ前まで、僕はこんな感じの郊外の集合住宅で暮らしていたっけ。
死ぬ日には大体目星はつけていたけど、死ぬ場所はまったく決めてなかった。
だから行き当たりばったり的に、僕は次の駅の街のどこかで死のうと思った。
『次は――。お降りの際はお忘れ物にご注意ください――』
車内アナウンス。告げられた駅名を僕はやはり知らなかった。
イヤホンをしたまま、すぐ側の開いたドアから降りた。僕が降りるとすぐに背後のドアが閉まり、電車は僕を置き去りにして行った。
(さて、と……)
そのままぼんやりと駅名が書かれた看板を見ていた僕は、眠気覚ましに大きく欠伸をして頭を冴え渡らせた。
ふと目の前の線路を見て、飛び込み自殺を連想する。
近づく電車に向かって身を投げ出して、肉片と成り果てる自分の妄想。
うーん、あまりにもグロい。痛々しい。
それにひとたびホームで人身事故が起きれば、鉄道会社はダイヤを乱された挙句たくさんの利用客の方々に迷惑がかかることだろう。他でもない僕のせいで。
人に迷惑をかけてまで死ぬのは、やっぱり違う気がする。
「……焦ることないか」
やり方はいくらでもある。
今はゆっくり街を散策しながら、その方法を考えよう。
とりあえず改札を出た。PASMOの残高は二桁だった。
近くに見えた駅ビルやら大型スーパーやらは軒並み無視して、街行く人々に流されながら茫然とただ歩いた。駅前の喧騒を、耳に流れこむ音楽が上書きしていく。
改めて考えれば、平日の真昼間に学ラン姿の中学生が一人で街を彷徨いていたら不審に思われるかもしれない。
まあ、それも杞憂に過ぎないんだけど。
道の途中ですれ違う人々は皆、僕のことなんて見もせずに通り過ぎて行く。きっと自分のことで手一杯なんだろう。普通のことだとは思うけど、そのときの僕は何故か自分が透明人間になったような気分だった。
よくある日常から切り離された、透明人間。
誰も僕のことを気にしないのなら、僕は透明だ。
透明人間が死んでも、誰も気づかないだろう。
じゃあ、どうする? どうやって死のうか?
ホームセンターでロープ買って公園で首吊り?
市販薬でオーバードーズ? 川に身投げして溺れてみようか?
それとも、車に轢いてもらうか……
――いやいや、それだとまあ色んな人に迷惑がかかるから……
「――!」
そうこうしているうちに、僕はふと見上げた先にとある建物を目にした。
どうやら雑居ビルらしい。それも店が入っている訳でもなく、人が住んでいる訳でもない廃ビル。
まるで人から見放されたように放置され、人知れず廃れていたそのビルに僕は無性に興味を引かれた。
まるで、透明な今の僕みたいだ。
(入れるもんなんだ……普通に)
いや普通に入っちゃだめだろ、というツッコミを自分で入れる。
無意識的にそのビルに忍び込んでしまった自分が、少しだけ怖くなった。
それでももう、僕は誰に見つかろうが怒られようが関係ない。興味も無い。どうせ死ぬんだし。
「やっぱり、高いな……」
気持ちの赴くままに突き進んだビルの屋上には、心地よい風が吹いていた。
五階建てビルの屋上。
これだけの高さだから、何かしらフェンスのようなものがあると考えていたけど、特にそれらしいものは見当たらなかった。もし淵から足を踏み外せば、そのまま真っ逆さまだ。
しばらく崖の淵に足をかけて下を覗いて見てみたけど、正直、怖かった。
――怖いほど、魅了された。
震える脚。古いコンクリート。眼下に見える地面。
今この状況に立っていること自体が、恐怖を押しのけて僕の中の何かを奮い立たせていた。悪魔にでも取り憑かれたみたいに。でもギリギリのところで理性が勝って、僕をこっち側へ引き止めている。
まだ決心が足りない?
もう準備は整ってるんだぞ?
堕べよ。
「……っ」
心臓が高鳴る。やっぱり、今は無理だ。
一旦深呼吸をして、早る気を落ち着かせる。
背負っていたリュックを下ろし、地べたに置いた。ふとした思いつきから、僕はその中からあるクリアファイルを引っ張り出し、綴じられたプリントを一枚取り出した。
先々月あたりの日課表。
それを裏返し、床を下敷きにしてシャーペンで何かを書こうとした。今頭に浮かぶ、何でもない言葉を。
でも書けない。手が動かない。
書こうとしても、自分の中でブレーキがかかってしまう。
誰かへの感謝も後悔も、この手は書こうとしなかった。
だから僕は、それとは真逆のことを書いた。
ほとんど何も考えずに、書き殴った。
並べられた六文字を眺めて、そっと紙を半分に折った。
勢いに任せて適当に紙を折っていくと、それはある所で完成に至った。紙飛行機だ。
僕の遺す最後の言葉が刻まれた、紙飛行機。誰に見せるわけでもない、僕の遺言書。
これをここから飛ばす。
僕が確かにここで生きた証を、この世界に刻むために。
イヤホンを耳から外した。コードが刺さっていたスマホもその辺に投げ出して。
あの中身を誰に見られようが、その頃には僕はもうこの世にはいない。
忌々しい義理の家族との連絡も断ち切る意味も込めていた。
再びビルの淵に立つ。
生温い春の風が前髪を揺らす。
向かい風が一旦収まったところで、紙飛行機をそっと飛ばした。
――もう、後悔はない。
風に乗って遠くへ飛ぼうとするその背中を眺める。
あれが見えなくなる前に、僕も飛び降りよう。
もう決心はついたのだから。
心をなるべく空にして、片足を宙に浮かせた。
「父さん、母さん……ごめんね」
いつの間にか、口から溢れた懺悔。
遠くに見えた白い影を一瞥する。
潮時だ。
「今から、そっちへ行くよ」
笑えた。ここ最近で一番心が穏やかだった。
ようやく終われる。このクソみたいな人生をリセットできる。
長かった僕の絶望も、何もかも全部。
もう片方の足も踏み外した。
前のめりになった身体はコントロールを失う。
頭が引っ張られる。
重力に殺される。
地面が、近づく。
楽しい。
「――――」
さようなら。
これで、リセットだ。
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