スモールワールド 第九章 (最終章)
第九章
陰鬱な気分で車窓からの風景を眺めていた。
ドアの付近で、ほかの乗客に押されながら、風景が過ぎ去っていくのを見ていた。
新宿駅から小田急線に乗り換えた頃には、さらに乗客の数は増して、車内中央に押しやられてしまった。
登戸駅で降りて、十五分ぐらい歩いたところに、正の新築の家はある。
駅から、とぼとぼと歩いて行った。
ふと、人ごみが目に入った。
自宅の方向に、大勢の人がいる。
なんだろう……?
その時、通りすがりの通行人がつぶやくのを聞いた。
「火事か……」
と。
嫌な予感がして、人ごみを押しのけてその方向に向かった。
坂道を上り、自分の家へと続く交差点を右に曲がりさらに登った時に、正は絶句した。
夏の夕闇の中、新築の自宅が、赤々と燃え盛っていた。
凄まじい猛火が、自宅を包み、天を焦がしていた。
そして無数の火の粉が、暗くなりかけた空に吸い込まれていく。
その様子は、自分の家が燃えているのではなかったら、不謹慎だが美しいと思っただろう。
だが、いま、燃えているのは、血のにじむような思いをして建てた、夢のマイホームなのである。
――何という事だ!
ああ、俺の夢が!
絶望感に襲われた。
まさか、理沙は? 良子は?
二人が、まだあの火の中にいるのではないか!
そう思って自宅の前に行くと、燃え盛る家の前で、呆然と燃え盛る家を眺めている良子と、トラを抱きしめながら泣いている理沙の姿が見えた。
とりあえず、二人とも無事だったようだ。
「おうちが、おうちが……燃えちゃうよ……」
理沙は、泣きながらトラを抱いていた。
良子も、呆然と立ったまま、まるで痴呆になったかのように何かをつぶやいている。
「おい、良子。どうしたんだ」
やっとの思いで良子に声をかけた。
「……おしまいよ。おしまいよ。ああ、おしまいだわ。私も首になってしまったしおまけに家まで燃えちゃうなんて。もうおしまいよ。おしまいよ。もうだめだわ」
良子は正のほうを見ずに、燃え盛る家の炎を見つめながら、まるで独り言のようにそれを繰り返していた。
「しっかりするんだ! 何があったんだ!」
「……」
「何があった? どうして家が燃えているんだ?」
「……解らない。私も家に帰ってきたばかりなの。家に帰ってくると、理沙が泣いていて火事になっていた。理沙に聞くと、理沙も帰ってきたばかりで、帰ってきたときにはもう火の手が上がっていたのよ」
正は、良子の肩に手を置いた。
「……とりあえず、二人とも無事でよかった。家は燃えてしまったけれど」
「……もうおしまいよ。私も首になってしまったし」
「え?」
「うん。今日ね、今月いっぱいで辞めてもらう、と言われたのよ」
「……実は、俺も首になったんだ」
「……」
良子は、黙っていた。
「どうするのよ」
「わからない」
「家のローンも残っているのよ。あなたも私も失業してしまったんだもの。どうするのよ。火事になってもローンは消えないわ」
「……解らない。でも、何とかするしか、ないじゃないか」
「……気楽なことを言うのね」
珍しく良子が、悲観的なトーンでそう言った。さすがにリストラされた日に自宅が火事で燃えてしまったら、楽観的でいられるはずはないだろう。
――だが……俺は、夢で見たように小人化したわけじゃないし、カメラに押しつぶされて死んだわけでもない。
――ちゃんと、こうして立って生きているではないか。
――理沙も、良子も、焼け出されてしまったがみんな無事だ。
――俺も良子も失業して、家のローンもあるけれど……。
――きっと、なんとかなる。
――何とか、するしかない。
――大丈夫だ。絶対に、大丈夫だ。何とかするのだ。俺が、この家を、まもる。
――俺が絶対に守る!
正は、そう考えていた。
「理沙。大丈夫か。けがはないか?」
「うん。大丈夫だよ」
いつの間にか路上に下りたトラが、不思議そうにじっと理沙を眺めていた。
「……それならよかった」
「おうちが、燃えちゃったよ」
「ああ。でも、おまえたち二人が無事だったから、良かったじゃないか」
正はそう言って、良子と理沙の肩を抱いた。
三人は、固く抱き合った。
……新築のマイホームが炎の中、焼け崩れていく。無数の火の粉が、天へと駆け上り、遠くから消防車の音がかすかに聞こえ始めた。
固く抱き合う三人を、尻尾を立てながらトラはいつまでもじっと見つめていた。
完