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スモールワールド  作者: 竹取裕基
3/9

スモールワールド 第三章

第三章





 ふと、気がつくと、トラの毛並みの中に包まれて寝ていた。

 トラは、正を守るように、手足を丸めながら、まだ寝ていた。

 トラが呼吸するたびに、正の体も揺れた。

「ああ、寝てしまったか……」

 ひとり言を言いながら、ふと周囲を見渡した。

 ふと、窓が見えた。

 夕方になり、部屋は薄暗くなっていた。

 部屋の電気もついていない。それに、この小人化したかも知れない体では、スイッチを押して部屋の電気をつけることもできないだろう。

 トラは、まだ寝ている。

 よく寝る猫だ。

 猫は、「寝子(ねこ)」と言われる事もあるほどに、よく眠る。

 そんな事を思い出しながら、毛並みの中に埋もれていた。

 よく見ると、トラの左手に肉球がある。

 ぷっくりと盛り上がっているのが、とても可愛らしく見えた。

 妙に押してみたくなったのだ。

 とは言え、正にとっては、その大きさは自身の顔ぐらいのサイズがある。

 押してやるか! とにかく。

 そう思って、肉球を押してみた。

 意外と固く、なかなかへこまない。

 それほど力が出ないためだろう。

 意を決し、思い切り蹴ってみることにしよう。

 そう決めた正は、思い切りトラの肉球を蹴ってみた!

 しかし、肉球は蹴りにも関わらず、びくともしない。

 多少、肉球に足がめり込んだが、トラは相変わらず眠り込んでいた。

 ――相変わらず、よく寝るやつだな。

 そう思ったが、トラの毛並みに包まれている今が、実は一番安全なのかも知れないとも思った。

 今まで、ゴキブリや蚊などに散々、危ない思いをさせられてきたし、小人化?した今の自分では、家の中の何気ない物ですら、危険である。

 この毛並みの中に包まれているうちは、きっと安全だ。

 そう思うと、ここから出ていきたくなくなった。

 と、思った時である。

 突如、トラが飛び起きて、正は体ごと飛ばされてしまった!

 数メートルほど飛ばされた感じがしたが、上手に転がり、ケガはなかった。

 そして、トラを探したが、トラはどこかへ消えてしまった。

 ――何か、外敵を察知したのだろうか?

 ガチャ。

 玄関のドアが開いた。

 誰かが帰ってきたようだ。

 理沙だろう。まだ良子は、この時間は仕事のはずだ。

「ただいま……」

 良子の声が、階下から聞こえてきた。

 正は、時計を探した。

 ちょうど、理沙の机の上に、赤い置時計があり、午後五時ちょうどを示していた。

 ……良子は、いつも有楽町で降りる。有楽町から徒歩五分のところにオフィスはある。小田急で新宿まで行き、今度は新宿から中央線に乗り換えで東京駅に行くのだが、電車に乗っている時間だけで軽く一時間はかかる。徒歩も含めると、いつも一時間半ぐらいはかかる。

 いま、この時刻にここにいるという事は、少なくとも午後三時半ぐらいには退社した計算になる……。

 それに、最近仕事が忙しいため、帰宅は午後十時過ぎになることも珍しくない。早くても、午後八時ぐらいである。それ以前に家にいることはまず考えられなかった。

 なぜ? 体調でも悪くなったのだろうか?

 もしかしたら、コロナにでもなったのだろうか?

 大丈夫だろうか?

 ……しかし、良子は、早退などした事がなかった。よほど具合が悪いのだろうか?それとも、最近のコロナ騒ぎで、ちょっとした発熱でも、早退させられたのだろうか?

 さまざまな思いが、正の脳裏によぎった。

「ただいま~」

 また良子の声がした。

「おかえり」

 と、言ってやりたい気がしたが、小人化した今、良子の前に出ていく勇気がわいてこなかった。

「パパ? 理沙? ねえ、誰もいないの……あはははは」

 良子が、おかしな具合で笑い始めた。

 明らかに、おかしい。

「パパ? 理沙ぁ? ねえ、誰もぉ、いないの? パパ? 理沙ぁ? 理沙もいないのぉ? あはは……」

 どうやら、かなり酔っぱらっているらしい。

 こんな時間から?

 いったい、何をやっているんだ、と軽い怒りも感じたが、とにかく様子を見るしかない。

 今は、二階にいるのだ。良子は、一階にいる。

 一階に降りて行くのは、不可能でもある。

 ガシャン!

 突然、皿が割れる音がした。

 いったい、何が起きているのだろうか?

 皿でも落としたのだろうか。

 ガシャン!

 また、皿が割れた。

 ガシャン!

 さらにまた、割れた。

「ねえ! 誰もいないの!」

 今度は、明らかに怒っている。

「ねえ! 返事ぐらいしたらどうなの!」

 ガシャン! ガシャン!

 また皿が割れる音が二回続いた。

 怒って、どこかに皿を投げて割っているらしい。

 いったい、何が起きているのだ!

 その時である。

「ただいま!」

 玄関から、理沙の声が聞こえた。

 理沙が入ってきてしばらくすると、理沙の声が聞こえた。

「ママ! お皿が割れているよ!」

「……」

「ねえ、ママ! お皿が割れているよ!」

「うるさいわねぇ! 皿がどうしたって言うの! 皿なんてどうでもいいのよ!」

 静まり返った屋内で、二人の声がかろうじて聞こえた。

「理沙! あっちへ行っていなさい!」

 今度は理沙に八つ当たりしたようだ。

 ――良子が、理沙に八つ当たり?

 いつも温厚な良子のそんなところをみた事がなかったので、相当酔っぱらっているのだろう。

 普段の母が見せないそんな一面に驚いた理沙が、あわてて階段を登ってくる音がした。

 すると、すぐに部屋のドアが開いた。そして部屋の電気がついた。

「あ!」

 声に振り向くと、理沙が目の前に立っていた。

 ――しまった! 見つかった!

「……」

 声が出ない。

 理沙が、驚いた表情で、じっと正の姿を見ている。

 正もまた、空を見上げるような姿勢で、まるで巨人のようにそびえ立って見える理沙を見上げていた。

 今度は、理沙が膝をしゃがめて、至近距離で正を見つめた。

 指で、正を押した。

 理沙の指は、自分の腕よりも太く、軽く突いただけでも、ドン!と押されたように感じた。

「……パパ、なの?」

「……」

 理沙が、顔を近づけて、さらにじっくりと正を見つめた。

「……ああ、パパだよ」

 正がそう言うと、理沙は信じられない、といった顔をした。

 きっと、自分でも、信じられないのだ。

 こんな、おかしな事が、現実におこるわけがない。

 理沙はそう思っているように見えた。

「ねえ、本当に……パパなの?」

「そうだ」

「……どうして、そんなに小さいの? 十センチぐらいしかないなんて。私、夢でも見ているのかな?」

「いや、夢じゃない。これは、現実だ」

「うそよ。パパが、こんなに小さくなっているはずがない……」

 まだ理沙は、信じられないようだ。

「嘘だと思うのなら、自分の頬っぺたをつねってごらん」

 そう言うと、半信半疑で理沙は自分の頬をつねった。

「夢……じゃないね」

「ああ」

「どうして? どうしてパパが……こんなに小さくなってしまったの?」

「パパにも解らないんだ……カメラが爆発して、こうなってしまった」

「どうして……」

 そこまで言うと、理沙は泣き出しそうな顔になった。

 そして、本当に声を上げて、大粒の涙を流し始めた。

「うそ。こんなのちがう! うそよ! 夢に決まっている!」

 声を上げて、両手で顔を覆いながら、理沙は激しく泣き出した。

「うそ! こんなの嘘! 夢だ!」

 ますます激しく泣き始めた。

「……理沙」

 正は、激しく泣いている理沙を前にして、何も言うことができなかった。己の無力さを痛感したのであった。

 ――いったい、どう説明したらいいのだろうか? 理沙の言うとおり、俺はたぶん小人化してしまったのだが……。カメラが爆発してこんな風になってしまったなんて、そんな話、子供でも信じられないだろう。

 正は、しばらく考えた後、話し始めた。

「理沙……」

 まだ理沙は泣いている。

「理沙……パパの話を、聞くんだ」

「何?」

「お前、ランドセルの中に飲まなかった牛乳パックが入っていたぞ」

「え?」

 驚いたような表情を見せた。

「見たの……?」

「ああ。教科書は、どうんだ? 学校に置きっぱなしか?」

「……忘れた」

「本当か?」

「うん」

 いつの間にか、理沙は泣き止んでいた。

「まさか、学校にいつも置きっぱなしじゃないだろうな?」

「それはないよ」

「そうか、それならいいんだ」

「ママは、どうしているんだ? 妙に早かったんだが?」

 良子のことが気になった。

「ママは、下にいるよ。……なんか、おかしかった」

「どんなふうに?」

「……なんだか、怒っていた」

「どうして?」

「わからない」

「……そう言えば、皿が割れる音が何度もしていたぞ。何かママは言っていたか?」

「聞こうとしたら、『あっちへ行っていなさい』って怒られた」

「そうか」

「うん」

 ――理沙は、すこし落ち着きを取り戻し始めたようだ。

「そうだ、理沙」

「何?」

「ママには、パパが小さくなったことは内緒だぞ」

「……どうして?」

「ママがびっくりするといけないからだ」

「……わかった。ねえ、パパ」

「なんだ?」

「……元に、戻ることはできないの?」

「わからない」

「どうして、こんなことになったの?」

「……言っても信じるかどうか、わからないが、カメラが爆発したんだ」

「カメラが?」

「ああ。わけは解らない。でも、カメラが爆発して、こんなことになった」

「……そんなことでなるのかな?」

「わからないが、こうなってしまったんだ」

「……ねえ、パパ」

 理沙が、じっと正の目をみた。

「パパの事を、ママに言おうか?」

「……言わないほうがいいんじゃないかな」

「でも、いずれ解っちゃうよ」

「……それはそうだが……」

 その時である。

 突如、理沙の部屋のドアが開いたのだ。

 そこに立っていたのは、酔眼でふらふらになった良子であった。

「……理沙、また部屋を散らかして……さっさと片付けなさい」

 酒臭い息を吐きながら、そう言うと、ピシャリとドアを閉めて階下に下りて行った。

 どうやら、小人化した正は、見つからずに済んだようだ。

 ――見つからずに済んだが……。

 このまま黙っているわけにも、いかないだろう。

「……機嫌が悪そうだな」

 正がそういうと、理沙は黙っていた。

 確かに、機嫌が悪そうだ。良子が機嫌を悪くすることもたまにあるが、今日は特に機嫌が悪いらしい。

 何かあったに違いない。

 会社で、誰かと喧嘩でもしたのだろうか?

 それはわからない。

 でも、とにかくこのまま、黙っているわけにはいかないだろう。

「理沙、パパを下に連れて行ってくれないか?」

「パパを?」

「ああ。やっぱりママにちゃんと話をすることにするよ」

「わかった」

「頼むぞ」

 理沙は、正を手のひらに乗せた。

 理沙の小さいはずの手のひらに、正はすっぽりと収まった。

 そして、手のひらに立ってその中指にしがみついた。

 自分自身が、ますます無力に感じられたが、仕方がない。

 とりあえず、良子と話をしないと、前に進まないのだ。

 理沙の手のひらの中で、階段を下りるたびに感じる激しい振動で、手のひらから振り落とされないように、必死に中指にしがみついた。

 理沙は、そんな正を気遣ってか、ゆっくりと階段を降りて行った。

 ――良子に、なんと話をしたらいいのだろうか?

 わからない。

 とりあえず、自分がこうなってしまった状態を、ありのままに話をするしかないだろう。

 ……二人が階段を降りて、良子を探すと、良子は応接間(リビング)のソファーでだらしなく横になっていた。正は、テーブルの上に降りた。

 酒臭い空気が、周囲に充満していた。

 時計を見ると、まだ五時十五分だ。

「ねえ、ママ」

「……」

 良子は、すっかり寝てしまっていた。

「ねえ、ママったら」

「……もう、何よ」

 ようやく、良子が瞳を開けた。

 まだ寝ぼけ眼をしている。

「起きて。パパが、ママに話があるの」

「……え? パパ、家にいたの?」

 ようやく、目が覚めてきたようだ。

「うん」

 そう言って、理沙はテーブルの上にいる正を指差した。

 正の隣には、飲みかけの湯飲みが置いてあった。

 湯飲みの高さと、正の身長が、ほぼ同じになっていた。

「……え?」

 良子は、瞬きをした。

 そして、もう一度、凝視した。

 正は、そんな良子を黙って見ていた。

「……よくできているわね、これ」

 そう言って、良子は再び目を閉じた。

 どうやら、正を人形か何かと思ってしまったようだ。

「ねえ、ママ。違うったら」

 理沙がそう言ったが、良子は起きようとしない。

 良子の肩を揺すると、再び良子は目を開けた。

「もう、うるさいわね」

「パパだってば」

「はあ? そんなわけないでしょう。ただの人形よ。よくできているけれど。どうしたのよ、これ? どこかで買ったの?」

「違うって。本当に、パパがこんな風になってしまったの」

「バカなことを言わないで。そんなわけないでしょう?」

 良子は、理沙を相手にしていないようだ。

「ねえ! ママ! 私を信じてよ! パパも何か言って!」

「良子!」

 正が、大声を出した。

「え?」

 良子は、驚きで一瞬、動きが固まった。

「パパ?」

「そうだ」

 ……テーブルの上に、湯飲みの隣に立っている正そっくりの「人形」が、突然大声を出したのだ。驚くのも無理はなかった。

 良子は、自分がいま、見ているものを信じられないといった表情をしていた。

「嘘よ……きっと、私、ちょっと酔っぱらいすぎて変なものを見ているんだわ」

 母と娘、言うことがよく似ている、思わずそう正は思った。

 目の前の現実を、どうしても受け入れたくないのだろう。

「嘘じゃない。目の前に立っているのは、俺だ」

 正は、精いっぱいの大声を出して叫んだ。

「……本当に、あなたなの? パパなの?」

「ああ。そうだよ」

「……」

 良子の目に、みるみる涙がたまったかと思うと、それが頬を伝って零れ落ちた。

 それは一筋のしずくとなって、絨毯に染みを何個も作った。

「……どうしたらいいのよ! 私……」

 良子は、泣き出した。

「……ママ。今日は、いったい何があったんだ」

 正は、良子に聞きただした。

「……いったい、これからどうなるのよ……」

 酒の影響もあるのか、普段あまり泣かない良子の涙が、なかなか止まらなかった。

「だから、ちゃんと話さないと、わからないよ」

「……実は」

 良子は、そう言うと、鼻をかんだ。

「……実はね、今日、会社を首になっちゃった」

「え!」

 正は驚いた。

「どうして? なんでまたそんなことに?」

「……今日、常務に呼ばれたの。ネチネチと、仕事のミスを責められた後に、『君は、部長としての職責を果たしていない。……実は、君は、来月一日付で福岡に異動してもらうことになった』と、言ってきたのよ。……しかも、福岡では以前の部下だった一之瀬が主任になっていて、私は何の役職もなく平待遇になるの。

 一之瀬は、本当に嫌な奴だったし大嫌いだったから本当に嫌だと思った。平になるから給料も大幅に減らされて。あんな奴の下で働くなんて、それに九州に行くなんて嫌だったし、これは嫌がらせ以外の何物でもないと思ったから……」

「……思ったから?」

「即座に、『辞めます!』と即答して、帰ってきちゃった」

 ――こういうところは、良子らしいな。

 ――後先、考えないところが。

 そう思うと、苦笑いをしてしまった。

「むしゃくしゃして、コンビニで缶ビールを何本も買って飲んじゃった」

「だから、酔っぱらっていたのか」

「そうよ」

「そうか……」

「……パパもリストラになるかも知れないのに……私まで失業だもん。まだ家のローンも残っているしどうしたらいいのよ……」

「実は、俺もやばいかも知れない」

「どうして?」

「……部長が何度もメールしてきていたのに、こんな体になっていたから連絡できなかったら、部長は怒って早く連絡をしろと、家に電話してきたんだ。でも、まだ連絡できていない……」

「……」

「こんな体になってしまったから、働くのは無理だろうけれど……」

「……でも、とりあえずテレワークだよね、なんとかなるじゃない?」

「ならないと思う……それに、まだ、部長には連絡は取れていないんだ。電話もできないのだ。それに、パソコンにメールが何通も来ているらしいが、それも見てない」

「わかったわ。私が見てあげる」

 良子はそういうと、リビングに置いてあった正のノートパソコンを立ち上げて、メールをチェックした。

「……何だかよく解らないけれど、社訓や社の理念について思うことを、作文にして書いてくれといったメールだよ。それを午後三時までに提出しろって」

「……社訓や社の理念について作文にして書くのが俺の仕事、か?」

 ――業務に直結しない事だし、いわば、どうでもいいことではないか。そんな事を仕事として要求してくるようでは、確かにリストラは近いだろう。

「どうするの? ちゃんと書く?」

「……まあ、書くしかないだろう。でも、どうやって?」

 正は、学生の頃、論文を書くのも一苦労していたことを思い出した。

「とりあえず、電話よ。部長さんに」

「わかった」

「電話、持ってくるから」

 ――電話をして、とにかく詫びる。詫びるにしても、理由がいる。何がいいだろうか?

 父親が危篤? 本当は、十年も前に亡くなっているが、心筋梗塞で倒れたことにでもしておこうか……。

 良子が、正のスマホを持ってきた。

「連絡先は、ここでいい?」

 見ると、株式会社東産業の電話番号が表示されていた。

「ああ、机の上に置いてほしい。それと、スピーカーにしてくれないか? たぶん、俺は小人化しているから、普通に話をしただけではひょっとしたら、相手にうまく聞こえないかもしれない」

「わかったわ」

 良子が、東産業に電話を掛けると同時に、正の目の前にスマホを置いた。正は、祖のスマホの前に立つと、相手が電話に出るのを待った。

 三回ほどコールが鳴って、女性の声が出た。事務の島崎だろう。

「はい。東産業株式会社の島崎と申します……」

「幾島です。部長を呼んでくれない?」

「幾島さんですね……部長、かなり怒っていましたよ」

 ちょっと島崎が声を潜めた。

 島崎は、まだ二十代後半だが、性格のいい娘だ。正も好感を持っていた。顔も悪くない。

「……困ったな」

「いま、ちょっと席を外しています。たぶん、トイレかな……あ、来ました。かわりますね」

 早川が電話を取った。

「早川ですが。……幾島君かね? 遅いじゃないか。いったい、今まで何をしていたんだ? 家にいるんだから、私のメールとか、電話とか、すぐ気がつくだろう?」

 ――ここで、一芝居打たねば!

 正は、緊迫した声を出した。

「すみません、部長。実は、父が心筋梗塞で倒れまして……」

「なんだと? それは大変じゃないか!」

「はい。まだ予断を許さない状態ですが、私はいまメールと部長からのお電話に気が付いたところだったんです。先ほどまで病院にいて、ついさっき帰宅したばかりです」

「そうなのか。それは済まなかった。……どうだ、君も、お父さんが心配だろう。しばらく休暇でもとるか?」

 ――どうせ、仕事といっても仕事らしい仕事などないんだろう。溜りに溜まった有給休暇を消化させたいだけなのだろう。

「……宜しければ、そうさせていただきたいと思います」

「そうか……確か幾島君は、有給がまだ三十六日残っているね」

「そうなんですか。とりあえず、今週いっぱいお休みを頂けますか?」

「ああ、いいよ。とりあえず今日は、定時後に退社のログアウトだけをしておいてくれないか。水曜から金曜日まで、とりあえず三日間、有給消化で処理しておくよ。来週からのことは、またその時考えよう」

「わかりました。ご迷惑おかけしましてすみません」

「ああ、いいよ。大丈夫だ。メールで指示した仕事のほうは、落ち着いてからの提出でいい。お大事に」

 そう言って、早川は電話を切った。

 ――どうせ、メールで指示された「仕事」に大した意味はないからそれでもいいんだろう。

 どうやらごまかせた。

 そう思うと、一気に疲れが出てきた。

 通話が終わったスマホの画面の上に、腰を下ろした。画面の上は、生暖かい感じがした。

「……何とかごまかせたが……」

 横から心配そうに見ていた良子にそう言った。

「……そうね。とりあえずは……」

 少し酔いがさめつつある良子が、ため息をついた。

「でも、いきなり出社しろ、って言ってきたらどうするの?」

「……そうだよな。その時は、仮病でも使うか」

「いつまでもそれが通用するとは限らないよ」

「確かにそうだ」

「それに、お義父さんやお義母さんが来たらどうするの?」

「……やっぱり言うしか、ないだろう」

「それはそうだけど、少なくとも会社に知られたらおしまいよ」

「とはいえ、こんな体では、働けないじゃないか」

「……まあね。それに、リストラが近いようだからどうしようもない、か」

 そう言うと、良子はまた、ため息をついた。

「……私も、失業しちゃったし……どうしよう。家のローンも、理沙の教育費もあるし困ったわ」

「ママ! 私、働く!」

 理沙が、真剣な顔で良子を見つめていた。

 そんな理沙を、良子は理沙の目線に合わせてしゃがんで頭を撫でた。

「心配しないで。大丈夫だから」

 そう言って、抱き寄せた。

 ――それにしても、確かにこのままでは生きていけない。俺はこんな体だ。良子も『辞めます!』と言ってしまった以上、前言撤回であの会社に居座るなど、無理な話だろうし。

 どうしたらいいのだろうか。

 正は、いろいろと考えてみたが、良い考えは浮かばなかった。

 ――宝くじでも、当たればいいのだが……。

 宝くじにでも当たれば確かに問題は解決するだろう。だが……。

 小人化したこの体は、元に戻らない。たぶん、永久に。死ぬまで。

 そう思うと、絶望感がひしひしと押し寄せてきた。

 ――俺は、いったいどうなってしまうのだろうか。いや、俺だけではない、良子も、理沙もどうなってしまうのだろうか?

 スマホの上に、腰を下ろしたまま、正は絶望感に打ちひしがれていた。

 



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