スモールワールド 第三章
第三章
ふと、気がつくと、トラの毛並みの中に包まれて寝ていた。
トラは、正を守るように、手足を丸めながら、まだ寝ていた。
トラが呼吸するたびに、正の体も揺れた。
「ああ、寝てしまったか……」
ひとり言を言いながら、ふと周囲を見渡した。
ふと、窓が見えた。
夕方になり、部屋は薄暗くなっていた。
部屋の電気もついていない。それに、この小人化したかも知れない体では、スイッチを押して部屋の電気をつけることもできないだろう。
トラは、まだ寝ている。
よく寝る猫だ。
猫は、「寝子」と言われる事もあるほどに、よく眠る。
そんな事を思い出しながら、毛並みの中に埋もれていた。
よく見ると、トラの左手に肉球がある。
ぷっくりと盛り上がっているのが、とても可愛らしく見えた。
妙に押してみたくなったのだ。
とは言え、正にとっては、その大きさは自身の顔ぐらいのサイズがある。
押してやるか! とにかく。
そう思って、肉球を押してみた。
意外と固く、なかなかへこまない。
それほど力が出ないためだろう。
意を決し、思い切り蹴ってみることにしよう。
そう決めた正は、思い切りトラの肉球を蹴ってみた!
しかし、肉球は蹴りにも関わらず、びくともしない。
多少、肉球に足がめり込んだが、トラは相変わらず眠り込んでいた。
――相変わらず、よく寝るやつだな。
そう思ったが、トラの毛並みに包まれている今が、実は一番安全なのかも知れないとも思った。
今まで、ゴキブリや蚊などに散々、危ない思いをさせられてきたし、小人化?した今の自分では、家の中の何気ない物ですら、危険である。
この毛並みの中に包まれているうちは、きっと安全だ。
そう思うと、ここから出ていきたくなくなった。
と、思った時である。
突如、トラが飛び起きて、正は体ごと飛ばされてしまった!
数メートルほど飛ばされた感じがしたが、上手に転がり、ケガはなかった。
そして、トラを探したが、トラはどこかへ消えてしまった。
――何か、外敵を察知したのだろうか?
ガチャ。
玄関のドアが開いた。
誰かが帰ってきたようだ。
理沙だろう。まだ良子は、この時間は仕事のはずだ。
「ただいま……」
良子の声が、階下から聞こえてきた。
正は、時計を探した。
ちょうど、理沙の机の上に、赤い置時計があり、午後五時ちょうどを示していた。
……良子は、いつも有楽町で降りる。有楽町から徒歩五分のところにオフィスはある。小田急で新宿まで行き、今度は新宿から中央線に乗り換えで東京駅に行くのだが、電車に乗っている時間だけで軽く一時間はかかる。徒歩も含めると、いつも一時間半ぐらいはかかる。
いま、この時刻にここにいるという事は、少なくとも午後三時半ぐらいには退社した計算になる……。
それに、最近仕事が忙しいため、帰宅は午後十時過ぎになることも珍しくない。早くても、午後八時ぐらいである。それ以前に家にいることはまず考えられなかった。
なぜ? 体調でも悪くなったのだろうか?
もしかしたら、コロナにでもなったのだろうか?
大丈夫だろうか?
……しかし、良子は、早退などした事がなかった。よほど具合が悪いのだろうか?それとも、最近のコロナ騒ぎで、ちょっとした発熱でも、早退させられたのだろうか?
さまざまな思いが、正の脳裏によぎった。
「ただいま~」
また良子の声がした。
「おかえり」
と、言ってやりたい気がしたが、小人化した今、良子の前に出ていく勇気がわいてこなかった。
「パパ? 理沙? ねえ、誰もいないの……あはははは」
良子が、おかしな具合で笑い始めた。
明らかに、おかしい。
「パパ? 理沙ぁ? ねえ、誰もぉ、いないの? パパ? 理沙ぁ? 理沙もいないのぉ? あはは……」
どうやら、かなり酔っぱらっているらしい。
こんな時間から?
いったい、何をやっているんだ、と軽い怒りも感じたが、とにかく様子を見るしかない。
今は、二階にいるのだ。良子は、一階にいる。
一階に降りて行くのは、不可能でもある。
ガシャン!
突然、皿が割れる音がした。
いったい、何が起きているのだろうか?
皿でも落としたのだろうか。
ガシャン!
また、皿が割れた。
ガシャン!
さらにまた、割れた。
「ねえ! 誰もいないの!」
今度は、明らかに怒っている。
「ねえ! 返事ぐらいしたらどうなの!」
ガシャン! ガシャン!
また皿が割れる音が二回続いた。
怒って、どこかに皿を投げて割っているらしい。
いったい、何が起きているのだ!
その時である。
「ただいま!」
玄関から、理沙の声が聞こえた。
理沙が入ってきてしばらくすると、理沙の声が聞こえた。
「ママ! お皿が割れているよ!」
「……」
「ねえ、ママ! お皿が割れているよ!」
「うるさいわねぇ! 皿がどうしたって言うの! 皿なんてどうでもいいのよ!」
静まり返った屋内で、二人の声がかろうじて聞こえた。
「理沙! あっちへ行っていなさい!」
今度は理沙に八つ当たりしたようだ。
――良子が、理沙に八つ当たり?
いつも温厚な良子のそんなところをみた事がなかったので、相当酔っぱらっているのだろう。
普段の母が見せないそんな一面に驚いた理沙が、あわてて階段を登ってくる音がした。
すると、すぐに部屋のドアが開いた。そして部屋の電気がついた。
「あ!」
声に振り向くと、理沙が目の前に立っていた。
――しまった! 見つかった!
「……」
声が出ない。
理沙が、驚いた表情で、じっと正の姿を見ている。
正もまた、空を見上げるような姿勢で、まるで巨人のようにそびえ立って見える理沙を見上げていた。
今度は、理沙が膝をしゃがめて、至近距離で正を見つめた。
指で、正を押した。
理沙の指は、自分の腕よりも太く、軽く突いただけでも、ドン!と押されたように感じた。
「……パパ、なの?」
「……」
理沙が、顔を近づけて、さらにじっくりと正を見つめた。
「……ああ、パパだよ」
正がそう言うと、理沙は信じられない、といった顔をした。
きっと、自分でも、信じられないのだ。
こんな、おかしな事が、現実におこるわけがない。
理沙はそう思っているように見えた。
「ねえ、本当に……パパなの?」
「そうだ」
「……どうして、そんなに小さいの? 十センチぐらいしかないなんて。私、夢でも見ているのかな?」
「いや、夢じゃない。これは、現実だ」
「うそよ。パパが、こんなに小さくなっているはずがない……」
まだ理沙は、信じられないようだ。
「嘘だと思うのなら、自分の頬っぺたをつねってごらん」
そう言うと、半信半疑で理沙は自分の頬をつねった。
「夢……じゃないね」
「ああ」
「どうして? どうしてパパが……こんなに小さくなってしまったの?」
「パパにも解らないんだ……カメラが爆発して、こうなってしまった」
「どうして……」
そこまで言うと、理沙は泣き出しそうな顔になった。
そして、本当に声を上げて、大粒の涙を流し始めた。
「うそ。こんなのちがう! うそよ! 夢に決まっている!」
声を上げて、両手で顔を覆いながら、理沙は激しく泣き出した。
「うそ! こんなの嘘! 夢だ!」
ますます激しく泣き始めた。
「……理沙」
正は、激しく泣いている理沙を前にして、何も言うことができなかった。己の無力さを痛感したのであった。
――いったい、どう説明したらいいのだろうか? 理沙の言うとおり、俺はたぶん小人化してしまったのだが……。カメラが爆発してこんな風になってしまったなんて、そんな話、子供でも信じられないだろう。
正は、しばらく考えた後、話し始めた。
「理沙……」
まだ理沙は泣いている。
「理沙……パパの話を、聞くんだ」
「何?」
「お前、ランドセルの中に飲まなかった牛乳パックが入っていたぞ」
「え?」
驚いたような表情を見せた。
「見たの……?」
「ああ。教科書は、どうんだ? 学校に置きっぱなしか?」
「……忘れた」
「本当か?」
「うん」
いつの間にか、理沙は泣き止んでいた。
「まさか、学校にいつも置きっぱなしじゃないだろうな?」
「それはないよ」
「そうか、それならいいんだ」
「ママは、どうしているんだ? 妙に早かったんだが?」
良子のことが気になった。
「ママは、下にいるよ。……なんか、おかしかった」
「どんなふうに?」
「……なんだか、怒っていた」
「どうして?」
「わからない」
「……そう言えば、皿が割れる音が何度もしていたぞ。何かママは言っていたか?」
「聞こうとしたら、『あっちへ行っていなさい』って怒られた」
「そうか」
「うん」
――理沙は、すこし落ち着きを取り戻し始めたようだ。
「そうだ、理沙」
「何?」
「ママには、パパが小さくなったことは内緒だぞ」
「……どうして?」
「ママがびっくりするといけないからだ」
「……わかった。ねえ、パパ」
「なんだ?」
「……元に、戻ることはできないの?」
「わからない」
「どうして、こんなことになったの?」
「……言っても信じるかどうか、わからないが、カメラが爆発したんだ」
「カメラが?」
「ああ。わけは解らない。でも、カメラが爆発して、こんなことになった」
「……そんなことでなるのかな?」
「わからないが、こうなってしまったんだ」
「……ねえ、パパ」
理沙が、じっと正の目をみた。
「パパの事を、ママに言おうか?」
「……言わないほうがいいんじゃないかな」
「でも、いずれ解っちゃうよ」
「……それはそうだが……」
その時である。
突如、理沙の部屋のドアが開いたのだ。
そこに立っていたのは、酔眼でふらふらになった良子であった。
「……理沙、また部屋を散らかして……さっさと片付けなさい」
酒臭い息を吐きながら、そう言うと、ピシャリとドアを閉めて階下に下りて行った。
どうやら、小人化した正は、見つからずに済んだようだ。
――見つからずに済んだが……。
このまま黙っているわけにも、いかないだろう。
「……機嫌が悪そうだな」
正がそういうと、理沙は黙っていた。
確かに、機嫌が悪そうだ。良子が機嫌を悪くすることもたまにあるが、今日は特に機嫌が悪いらしい。
何かあったに違いない。
会社で、誰かと喧嘩でもしたのだろうか?
それはわからない。
でも、とにかくこのまま、黙っているわけにはいかないだろう。
「理沙、パパを下に連れて行ってくれないか?」
「パパを?」
「ああ。やっぱりママにちゃんと話をすることにするよ」
「わかった」
「頼むぞ」
理沙は、正を手のひらに乗せた。
理沙の小さいはずの手のひらに、正はすっぽりと収まった。
そして、手のひらに立ってその中指にしがみついた。
自分自身が、ますます無力に感じられたが、仕方がない。
とりあえず、良子と話をしないと、前に進まないのだ。
理沙の手のひらの中で、階段を下りるたびに感じる激しい振動で、手のひらから振り落とされないように、必死に中指にしがみついた。
理沙は、そんな正を気遣ってか、ゆっくりと階段を降りて行った。
――良子に、なんと話をしたらいいのだろうか?
わからない。
とりあえず、自分がこうなってしまった状態を、ありのままに話をするしかないだろう。
……二人が階段を降りて、良子を探すと、良子は応接間のソファーでだらしなく横になっていた。正は、テーブルの上に降りた。
酒臭い空気が、周囲に充満していた。
時計を見ると、まだ五時十五分だ。
「ねえ、ママ」
「……」
良子は、すっかり寝てしまっていた。
「ねえ、ママったら」
「……もう、何よ」
ようやく、良子が瞳を開けた。
まだ寝ぼけ眼をしている。
「起きて。パパが、ママに話があるの」
「……え? パパ、家にいたの?」
ようやく、目が覚めてきたようだ。
「うん」
そう言って、理沙はテーブルの上にいる正を指差した。
正の隣には、飲みかけの湯飲みが置いてあった。
湯飲みの高さと、正の身長が、ほぼ同じになっていた。
「……え?」
良子は、瞬きをした。
そして、もう一度、凝視した。
正は、そんな良子を黙って見ていた。
「……よくできているわね、これ」
そう言って、良子は再び目を閉じた。
どうやら、正を人形か何かと思ってしまったようだ。
「ねえ、ママ。違うったら」
理沙がそう言ったが、良子は起きようとしない。
良子の肩を揺すると、再び良子は目を開けた。
「もう、うるさいわね」
「パパだってば」
「はあ? そんなわけないでしょう。ただの人形よ。よくできているけれど。どうしたのよ、これ? どこかで買ったの?」
「違うって。本当に、パパがこんな風になってしまったの」
「バカなことを言わないで。そんなわけないでしょう?」
良子は、理沙を相手にしていないようだ。
「ねえ! ママ! 私を信じてよ! パパも何か言って!」
「良子!」
正が、大声を出した。
「え?」
良子は、驚きで一瞬、動きが固まった。
「パパ?」
「そうだ」
……テーブルの上に、湯飲みの隣に立っている正そっくりの「人形」が、突然大声を出したのだ。驚くのも無理はなかった。
良子は、自分がいま、見ているものを信じられないといった表情をしていた。
「嘘よ……きっと、私、ちょっと酔っぱらいすぎて変なものを見ているんだわ」
母と娘、言うことがよく似ている、思わずそう正は思った。
目の前の現実を、どうしても受け入れたくないのだろう。
「嘘じゃない。目の前に立っているのは、俺だ」
正は、精いっぱいの大声を出して叫んだ。
「……本当に、あなたなの? パパなの?」
「ああ。そうだよ」
「……」
良子の目に、みるみる涙がたまったかと思うと、それが頬を伝って零れ落ちた。
それは一筋のしずくとなって、絨毯に染みを何個も作った。
「……どうしたらいいのよ! 私……」
良子は、泣き出した。
「……ママ。今日は、いったい何があったんだ」
正は、良子に聞きただした。
「……いったい、これからどうなるのよ……」
酒の影響もあるのか、普段あまり泣かない良子の涙が、なかなか止まらなかった。
「だから、ちゃんと話さないと、わからないよ」
「……実は」
良子は、そう言うと、鼻をかんだ。
「……実はね、今日、会社を首になっちゃった」
「え!」
正は驚いた。
「どうして? なんでまたそんなことに?」
「……今日、常務に呼ばれたの。ネチネチと、仕事のミスを責められた後に、『君は、部長としての職責を果たしていない。……実は、君は、来月一日付で福岡に異動してもらうことになった』と、言ってきたのよ。……しかも、福岡では以前の部下だった一之瀬が主任になっていて、私は何の役職もなく平待遇になるの。
一之瀬は、本当に嫌な奴だったし大嫌いだったから本当に嫌だと思った。平になるから給料も大幅に減らされて。あんな奴の下で働くなんて、それに九州に行くなんて嫌だったし、これは嫌がらせ以外の何物でもないと思ったから……」
「……思ったから?」
「即座に、『辞めます!』と即答して、帰ってきちゃった」
――こういうところは、良子らしいな。
――後先、考えないところが。
そう思うと、苦笑いをしてしまった。
「むしゃくしゃして、コンビニで缶ビールを何本も買って飲んじゃった」
「だから、酔っぱらっていたのか」
「そうよ」
「そうか……」
「……パパもリストラになるかも知れないのに……私まで失業だもん。まだ家のローンも残っているしどうしたらいいのよ……」
「実は、俺もやばいかも知れない」
「どうして?」
「……部長が何度もメールしてきていたのに、こんな体になっていたから連絡できなかったら、部長は怒って早く連絡をしろと、家に電話してきたんだ。でも、まだ連絡できていない……」
「……」
「こんな体になってしまったから、働くのは無理だろうけれど……」
「……でも、とりあえずテレワークだよね、なんとかなるじゃない?」
「ならないと思う……それに、まだ、部長には連絡は取れていないんだ。電話もできないのだ。それに、パソコンにメールが何通も来ているらしいが、それも見てない」
「わかったわ。私が見てあげる」
良子はそういうと、リビングに置いてあった正のノートパソコンを立ち上げて、メールをチェックした。
「……何だかよく解らないけれど、社訓や社の理念について思うことを、作文にして書いてくれといったメールだよ。それを午後三時までに提出しろって」
「……社訓や社の理念について作文にして書くのが俺の仕事、か?」
――業務に直結しない事だし、いわば、どうでもいいことではないか。そんな事を仕事として要求してくるようでは、確かにリストラは近いだろう。
「どうするの? ちゃんと書く?」
「……まあ、書くしかないだろう。でも、どうやって?」
正は、学生の頃、論文を書くのも一苦労していたことを思い出した。
「とりあえず、電話よ。部長さんに」
「わかった」
「電話、持ってくるから」
――電話をして、とにかく詫びる。詫びるにしても、理由がいる。何がいいだろうか?
父親が危篤? 本当は、十年も前に亡くなっているが、心筋梗塞で倒れたことにでもしておこうか……。
良子が、正のスマホを持ってきた。
「連絡先は、ここでいい?」
見ると、株式会社東産業の電話番号が表示されていた。
「ああ、机の上に置いてほしい。それと、スピーカーにしてくれないか? たぶん、俺は小人化しているから、普通に話をしただけではひょっとしたら、相手にうまく聞こえないかもしれない」
「わかったわ」
良子が、東産業に電話を掛けると同時に、正の目の前にスマホを置いた。正は、祖のスマホの前に立つと、相手が電話に出るのを待った。
三回ほどコールが鳴って、女性の声が出た。事務の島崎だろう。
「はい。東産業株式会社の島崎と申します……」
「幾島です。部長を呼んでくれない?」
「幾島さんですね……部長、かなり怒っていましたよ」
ちょっと島崎が声を潜めた。
島崎は、まだ二十代後半だが、性格のいい娘だ。正も好感を持っていた。顔も悪くない。
「……困ったな」
「いま、ちょっと席を外しています。たぶん、トイレかな……あ、来ました。かわりますね」
早川が電話を取った。
「早川ですが。……幾島君かね? 遅いじゃないか。いったい、今まで何をしていたんだ? 家にいるんだから、私のメールとか、電話とか、すぐ気がつくだろう?」
――ここで、一芝居打たねば!
正は、緊迫した声を出した。
「すみません、部長。実は、父が心筋梗塞で倒れまして……」
「なんだと? それは大変じゃないか!」
「はい。まだ予断を許さない状態ですが、私はいまメールと部長からのお電話に気が付いたところだったんです。先ほどまで病院にいて、ついさっき帰宅したばかりです」
「そうなのか。それは済まなかった。……どうだ、君も、お父さんが心配だろう。しばらく休暇でもとるか?」
――どうせ、仕事といっても仕事らしい仕事などないんだろう。溜りに溜まった有給休暇を消化させたいだけなのだろう。
「……宜しければ、そうさせていただきたいと思います」
「そうか……確か幾島君は、有給がまだ三十六日残っているね」
「そうなんですか。とりあえず、今週いっぱいお休みを頂けますか?」
「ああ、いいよ。とりあえず今日は、定時後に退社のログアウトだけをしておいてくれないか。水曜から金曜日まで、とりあえず三日間、有給消化で処理しておくよ。来週からのことは、またその時考えよう」
「わかりました。ご迷惑おかけしましてすみません」
「ああ、いいよ。大丈夫だ。メールで指示した仕事のほうは、落ち着いてからの提出でいい。お大事に」
そう言って、早川は電話を切った。
――どうせ、メールで指示された「仕事」に大した意味はないからそれでもいいんだろう。
どうやらごまかせた。
そう思うと、一気に疲れが出てきた。
通話が終わったスマホの画面の上に、腰を下ろした。画面の上は、生暖かい感じがした。
「……何とかごまかせたが……」
横から心配そうに見ていた良子にそう言った。
「……そうね。とりあえずは……」
少し酔いがさめつつある良子が、ため息をついた。
「でも、いきなり出社しろ、って言ってきたらどうするの?」
「……そうだよな。その時は、仮病でも使うか」
「いつまでもそれが通用するとは限らないよ」
「確かにそうだ」
「それに、お義父さんやお義母さんが来たらどうするの?」
「……やっぱり言うしか、ないだろう」
「それはそうだけど、少なくとも会社に知られたらおしまいよ」
「とはいえ、こんな体では、働けないじゃないか」
「……まあね。それに、リストラが近いようだからどうしようもない、か」
そう言うと、良子はまた、ため息をついた。
「……私も、失業しちゃったし……どうしよう。家のローンも、理沙の教育費もあるし困ったわ」
「ママ! 私、働く!」
理沙が、真剣な顔で良子を見つめていた。
そんな理沙を、良子は理沙の目線に合わせてしゃがんで頭を撫でた。
「心配しないで。大丈夫だから」
そう言って、抱き寄せた。
――それにしても、確かにこのままでは生きていけない。俺はこんな体だ。良子も『辞めます!』と言ってしまった以上、前言撤回であの会社に居座るなど、無理な話だろうし。
どうしたらいいのだろうか。
正は、いろいろと考えてみたが、良い考えは浮かばなかった。
――宝くじでも、当たればいいのだが……。
宝くじにでも当たれば確かに問題は解決するだろう。だが……。
小人化したこの体は、元に戻らない。たぶん、永久に。死ぬまで。
そう思うと、絶望感がひしひしと押し寄せてきた。
――俺は、いったいどうなってしまうのだろうか。いや、俺だけではない、良子も、理沙もどうなってしまうのだろうか?
スマホの上に、腰を下ろしたまま、正は絶望感に打ちひしがれていた。