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スモールワールド  作者: 竹取裕基
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スモールワールド 第二章

第二章

 



 ふと、深い闇の底に横たわっている事に気がついた。

 ……辺りが、うすぼんやりと見えてきた。

 ふと、正は横になっている事に気がついた。

 別に、体も痛いところはない。

 見たところ、体のどこにも、けがをしている様子もない。

 シャッターを切ったら、カメラが爆発?したにもかかわらず、奇妙な事に目はちゃんと見えるようだ。普通は、破片や爆風で間違いなく失明するだろう。

 いったい、何があったのだろうか?

 なぜ、カメラが突然爆発?したのか。

 そして、なぜ怪我もしていないのか?あれほどの爆発があったならば、死んでいてもおかしくなかったはずだ。

 理由は解らないが、とりあえず生きているようだ。

 あれからどれぐらい、時間が経った事だろうか。

 ……ここは、どこだ?

 何やら、ざらざらする感じだ。

 布のような感触がする。

 どうやら、布の上に寝ているようだ。

 ふと、気がつくと、巨大な布の上に、寝ていたではないか。

 白い布である。広さは、数メートル四方はあるような感じだ。

 正は、立ち上がってよく見た。

 その白い布には、緑の縁取りがついていた。

 見た感じは、巨大なハンカチのように見えた。縁取りの大きさも五センチ以上はあるようだ。

 ……何だ、あれは?

 直径五メートルぐらいありそうな白い皿に、直径一メートル半ぐらいありそうな、巨大なドーナツが乗っていた。

 なぜ、ここにこんな巨大なドーナツがあるのだ?

 そう思って、よく見た。

 間違いない。ドーナツである。中央部に直径三十センチほどの穴が開き、茶色にこんがりと揚げられて砂糖をまぶしてあるドーナツである。

 鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。間違いない。ドーナツの匂いがする。

 手で触ってみた。ドーナツの感触であり、手にべっとりと油と巨大なザラメの結晶がついた。

 思わず、指で少し削って口に入れて見た。

 間違いなくドーナツの味だ。しかし、なぜこんなところに巨大なドーナツがあるのだろうか? 不思議な感じがした。

 ふと、横を見ると、巨大な陶器の白い壁のようなものもある。

 よく見ると、高さ一メートル半、直径二メートルぐらいの巨大なコーヒーカップである。カップの厚さは、十センチはあるような感じがする。

 ……さっきの巨大ドーナツに、今度は、巨大コーヒーカップか?

 いったい、俺はどこにいるのか。テーマパークにでもいるのか?

 正はそう考えると、不思議な感じがした。

 テーマパークにいるのなら、何か出口もあるはずだ……。

 そう思って、歩いている。

 地面はなく、板張りになっていた。

 十メートルも行かないうちに、また変なものが出てきた。

 今度は、巨大灰皿である。

 直径一メートルほどの灰色の灰皿だ。

 しかも、太さ十五センチはありそうな吸殻が、無造作に捨てられていた。

 ――こんな太い吸殻を、わざわざ作ったのか。ずいぶん凝った造りだな。

 そう思って感心していた。ご丁寧にも、吸殻のフィルターにまるで誰かが咥えた後のように、染みまでついていた。

 それにしても……俺はいったいどこにいるのだ?

 そう思ったのだが、良く解らない。板張りのようなところに巨大ドーナツ、巨大カップ、そして巨大灰皿に巨大な吸殻があるだけだ。よく見ると、灰皿のそばには太さが三十センチ、長さが一メートルほどの、使い捨てライターまで置いてある。

 誰が、何のためにこんなものを置いたのだろうか?

 それにしても……何だろう。

 そう思って、歩いていると、ふと板の間が途切れている事に気がついた。

 危うく、板の間からどこかへ落下するところであった。

 慌てて、後ろに下がったので落ちずに済んだが、板の間の切れ目から下を見て驚いた。

 何と、いままで板の間と思っていたのは、実は長さが四十メートルはあるのではないかと思う巨大な机である事に気がついた。

 それも、自分のリビングにある机にそっくりだ。

 しかも、上空数十メートル先には、やはり長さが四十メートル、太さ十五メートルほどの巨大な家庭用エアコンがあるのが見えた。

 そのエアコンの近くの壁には、何と直径七~八メートルはあるかと思われる巨大な壁掛け時計がかかっていたのだ!

 そのエアコンや壁掛け時計、そしてさっきまで見てきた灰皿に吸殻、巨大ライターのすべてに、どこか見覚えがある事に気がついた。

 その全てが、自分の家にある物であったからだ。

 間違いなく、自分の部屋にいる。

 しかも、部屋のすべての物が、信じられないほどに巨大化して見えた。

 テレビに至っては、縦一五メートル、横二〇メートルはあるのではないかと思われた。

 そして、巨大化して見えるテーブルの上に、立っているのである。

 巨大な壁掛け時計を見た。

 時刻は既に、午後二時半になっていた。

 ……少なくとも、三時間ぐらいは意識を失っていたのだろうか。

 そんな事を考えた。

 端まで歩いて行き、テーブルの下を見た。

 高さは、四~五メートルはある。その下には、グレーのカーペットが引かれている。このカーペットも、自分の家にあるものと全く同じだが、やはり巨大化して見えているのだ。

 いったい、なぜ?

 正は、自問自答したが、理由が解らなかった。

 夢でも見ているのかと思い、思わず頬をつねってみたが、夢ではなかった。

 間違いなく、これは現実なのである。

 巨大化?したカップ、煙草の吸殻、ライター、ドーナツ、机、エアコン……。

 なぜ、こんな事に?

 いくら考えても解らない。とリあえず、机の下に降りたりできないか、考えてみた。

 ……うまい具合に、机の端に、文庫本が紐で縛っておいてあるのが見えた。もちろん、文庫本と言っても、超巨大な文庫本で、厚さは三十センチ以上、縦は三メートル以上、横も一メートル半ぐらい、ありそうだ。その文庫本を縛ってあるビニール紐も巨大化?しており、太さは人の胴体よりも広い。その文庫本の一番上と、机の端がわりに近く、ちょっとジャンプして文庫本に飛び乗って、紐でも伝っていけば下に降りられそうである。

 しかし、文庫本の一番上まで、机の端から一メートル半ぐらいある。飛び乗れるとは思うが、絶対にいける自信はなかった。

 もし、失敗したら……高さ四~五メートルの高さから落ちる事になる。文庫本はカーペットの上に乗っているので、コンクリートの上に落ちるよりはダメージは少ないだろうが、少なからずダメージは受けるはずだ。もしかすると、骨折するかも知れない……そう考えると、躊躇してしまった。

 しかし、このままではテーブルの上でうろうろしているほかない。とにかく、床に降りてみるしかないと思った。

 正は、文庫本の一番上に飛び乗るために、助走をつけようと思った。

 大体、机の端から端へと全力疾走して一気に飛べば、きっと文庫本につかまることが出来るだろう。

 文庫本のある方と反対側の机の端へと歩いてきた。そこから見える風景も、正のリビングの風景であるが、全ての物が巨大化?していた。

 ソファーの高さも、およそ十メートルほどはありそうだ。床に置いてある雑誌も、幅六メートルぐらい、縦は八メートルほど、雑誌の題名の活字の大きさが、一メートル半ぐらいはあるように思えた。

 ……文庫本の上に、必ず飛び乗るのだ……。

 失敗したら、死ぬかもしれない。

 そう思うと、武者震いがしてきた。

 しかし、それ以外、方法はない。

 覚悟を、きめた。

 ……正は、高校生の頃、陸上部に所属していた。短距離走には、自信があったのだ。

 しかし、それは遠い過去の話だ。既に四十五歳になった正の腹には、年相応の贅肉が付き、その太ももにも、腕にも、ありとあらゆるところに贅肉がついて、歩くと揺れる始末である。

 こんな状態で、全力疾走しても、十代の頃のような助走を決めて、ジャンプできるだろうかと一抹の不安が脳裏をよぎったが、一瞬の逡巡の後、正は、目標に向かって走り始めた。

 まるで、短距離走のランナーのように、スタートを切った。

 だが、全力疾走しているつもりだが、思うように走れない。腹の贅肉が激しく波打って心臓の鼓動も激しくなった。

 なんとなくだが、嫌な予感がした。

 だが、なんとかなる。そう思って、机の端のぎりぎりまで攻めて、見事なジャンプを決めた!

 つもりだった。

 ジャンプしたその瞬間、自分の飛んでいくコースが明らかに下過ぎる事に気がついたが、既に遅かった。

 しまった!

 やっぱりダメだったか!

 アッと言う間に、文庫本の上が見えなくなり、上から二番目の文庫本にぶつかった。

 衝撃でまた体が宙に浮いたかと思うと、頭から真っ逆さまに落ちた!

 思わず死を覚悟した。

 しかし、それ以上落ちなかった。

 逆さまになった自分の足が、かろうじて紐の結び目に絡まったのだ。

 それも、だらりと垂れた蝶々結びの紐に、だ。

 しかも、危ういところで右足の甲に紐がかかっている状態である。

 バランスを崩すと、それすら滑り落ちて真っ逆さまに落ちる恐れがあった。

 ここから落ちると、少なくとも二メートルは下に頭から落ちるだろう。

 間違いなく首の骨を折って死ぬには十分な高さである。

 ……だんだん、足の甲が痛くなってきた。

 このままでは、間違いなく紐から足が外れて頭から真っ逆さまに落ちるだろう。

 そして、それはだんだんと迫りつつあった。

 ……ダメだ、もう無理かも知れない……。

 全身の血が逆流して、頭が腫れぼったく感じながら、正は何とかして助かる方法はないのか、考えた。

 体をうまく上に向けて、絡まっている足のところまで行き、手で紐を持ってするすると下に降りるとか、考えてみた。

 しかし、日頃の運動不足がたたって肥満体である正には、それは無理な相談であった。

 下手に足を動かすと、せっかく危ういところで均衡を保っている足と紐のバランスが崩れて、あっという間に床にたたきつけられかねない。

 困った……。

 そう思っていると、目の前に紐があるのが解った。

 これにつかまろう。

 そう思うのだが、体が揺れてうまく行かない。

 そのうち、どういうわけか、右足が紐から抜けそうになってきた!

 このままでは落ちる!

 そう思った瞬間、本当に右足が抜けた。

 正は、今度こそ死を覚悟した。

 間違いなく死ぬ。

 その時である。

 突如、衝撃が走った。

 衝撃で背中を強打して、一瞬息が出来なくなった。

 何が何だかわからないうちに、単行本の上に落ちていた。

 ……一体何が起こったのだ?

 考える間もなく、今度はまた単行本が動いた。

 必死で単行本につかまった。

 ……どうやら、何らかの拍子で、縛っていた単行本が、横に落ちて、その上に落ちた為に、床への落下は避けられたらしい。

 ……助かった……。

 そう思った。

 ホッと一息入れた瞬間の事である。

 突如、ドン!と言う衝撃が走った。

 衝撃のした方向を見る間もなく、また何かに、ぶつけられた感じがした。

 慌てて紐を伝って絨毯(じゅうたん)の上に降りる。

 絨毯の上に降りた瞬間、また衝撃を感じた。

 その衝撃で正は、弾き飛ばされた。

 弾き飛ばされた時に、転んでしまった。

 ガサッ!と音が聞こえた。その時、顔に風圧を感じた。

 ふと、横を見ると、巨大な昆虫の足らしいものがある。

 茶色で太く、細かい毛が生えていた。

 いったい、何の足だろう……?

 巨大化したカブトムシか?

 そう思っていたら、顔に太い触角のようなものが触れた。

 ネトネトとしており、顔に脂がついた。

 嫌なにおいがする。

 おそるおそる、横を見た。

 何と、そこにいたのは、全長一メートルはある、巨大なゴキブリであった!

 その触角が触れたから、正の顔に脂がついたのだ!

 ゴキブリの巨大で不気味な複眼が、じっと正を見ていた。

 その目には、何の感情も感じられなかった。

「ぎ、ギャー!!」

 恥ずかしいほどの大声を上げて必死で逃げた!

 だが、ゴキブリは、正が全速力で逃げるとすぐ、追いかけてきた!

逃げようとするものを、本能的に追うのだろう。

 ガサガサガサ! 

 背後から物凄い足音が聞こえてきた。

 声にならない悲鳴を、喉の奥から絶叫した。

 捕まったら食われる!

 その恐怖で、正は必死で叫び、そして必死で逃げた。

 必死で逃げるそのすぐ後ろに、ゴキブリの冷たく脂臭い触角が迫っていた。

 とうとう、部屋の隅に追いやられたのだ!

 ――どうしよう、もう逃げられない!

 背中には、壁がある。

 壁の高さは、高さ十五階ぐらいのビルのように見えた。

 とてもではないが、よじ登る事は出来ない。

 ゴキブリは、二メートル先で正の方を向いて止まり、その汚らわしい触角を動かしながら、その前足をまるでこするような動作を続けていた。

 その口をよく見ると、不気味な小さな突起物がついており、複雑な動きをしているのが解った。

 まるで、化け物が舌なめずりをしているような感じである。

 ――このままでは、食われる!

 しかし、見たところ、こん棒などの武器になりそうなものもない。ゴキブリが飛びかかってきたら、その六本の脚で掴まれてそのまま食われてしまいそうだ。

 絶体絶命である。

 その時である。

 ちょうど、前足の前に別の黒いものが動いているのが見えた。

 よく見ると、触角のようだ。

 恐る恐る、見ると、いつの間にか、ちょうど右真横に、別のゴキブリがいたのである!

 目の前にもゴキブリが舌なめずりをしているし、真横にもゴキブリがいたのだ!

 その真横のゴキブリも、不気味な舌なめずりをしていた。

「ぎゃああああ!」

 声にならない声を上げた。

 そして、驚いたことには、いつの間にか左にも、もう一匹のゴキブリが居るではないか!

 もう声は出なかった。

 ――間違いなく、食われる! こいつら、俺を餌と思っているんだ!

 二メートルほど左右にいるゴキブリも、目の前にいる奴と同じように、その不気味な口を舌なめずりさせていた。

 いつ、ゴキブリが一斉に飛びかかって来るか解らない。

 三匹の巨大ゴキブリに飛びかかられたら、まず間違いなく勝ち目はない。

 目の前のゴキブリが、少しずつ、近寄ってきていた。

 左右のゴキブリも、食指を伸ばしているかのように、迫ってきている。

 ――もう、ダメだ。ゴキブリに食われるなんて!

 ――ぜったいに嫌だ!

 その時である!

 突如、風圧が正を襲った!

 ――何事か!

 思わずその風圧に目を閉じた。

 そして、目を開いた時に気がついた。

 目の前にいたゴキブリが、消えていたのである。

 太い茶色の脚を一本だけ残して消えた。

 その脚は、ピクピクと痙攣しており、床にべっとりと、不潔な液体と肉片のようなものがついていた。

 ふと、気がつくと、左右にいたゴキブリも、いなくなっていた。

 ……一体、何が起こったのか。

 目の前に、大きなシルエットが見えた。

 窓から差してきた日差しの逆光で良く見えないが、巨大な獣のようだ。

 高さは、およそ六メートル以上はあるだろうか。

 正は、恐る恐る、その獣のような生き物をよく見た。

 それは、巨大な猫であった。

 横を向いていた。

 その猫は、口に何かを咥えていた。

 よく見ると、先程まで正を食おうとしていた巨大ゴキブリではないか。

 その猫を、どこかで見たことがある。

 その猫を、間違いなく見たことがある。

 あれは、トラだ!

 ……トラまで、巨大化?しているのだ!

 トラは、咥えていたゴキブリを、突然離した。

 ドサッと音がして、ゴキブリが床に落ちた。

 それを今度は、両手でがっしりと掴んで、また噛んでいる。

 ゴキブリは、体内のあちらこちらから不潔な体液を流してピクピク痙攣しており、瀕死の様子であった。

 そのゴキブリを、両手の肉球でしっかりと押さえては、夢中になって噛んでみたり匂いを嗅いでいたりじっと獲物を見て愉しんでいた。

 人間よりもはるかに大きな巨大猫が、巨大なゴキブリをいとも簡単に倒し、獲物をおもちゃにして愉しんでいるという非日常の光景があまりにも信じられず、正は食い入るようにその様子を見つめていた。

 肉球でゴキブリを抑え込んでいるトラが、ふと正の方をみた。

 その眼は、瞳孔が縦に伸び、まるで悪魔のような眼に見えた。

 ゴキブリを抑え込んでいる肉球が、止まった。

 じっと、トラは正を見ている。

 その動きが止まったトラを見て、正は恐怖を覚えた。

 目の前のゴキブリの事も、忘れてしまったかのように見える。

 ――これはまずい。トラに気づかれた!

 ゴキブリよりも、俺の方が美味いと思うかもしれない!

 どうしよう!

 とりあえず、ゆっくりと、この場を去ろう。

 正は、トラの方を凝視しながら、ゆっくりと後ずさりし始めた。

 とは言え、隠れることが出来そうな場所があまり見つからない。

 ……あるとすれば、巨大なソファーとソファーの間の空間ぐらい、であろう。

 トラの目が、まだ正を見ている。

 正は、ゆっくりと、ゆっくりと後ずさりしていた。

 エアコンの音だけが、室内に響いている。

 まだ、トラはじっと正を見ている。

 ゴキブリから、片手の肉球を離した。

 ――まずい! このままでは、次の瞬間、絶対に飛びかかってくる!

 正は、動きを停めた。

 もし、このまま動き続ければ、きっと飛びかかって来るだろう!

 だが、次の瞬間、トラは正から視線を離して、再びゴキブリを両手でしっかりと掴み、舌でその獲物を舐り始めた。

 まるで猛獣が獲物にかじりつくように口に咥えたりもした。

 ……どうやら、助かったようだ。

 そう思い、正はできるだけ足音を立てないように、ゆっくりと、ゆっくりとその場を離れていった。

 とりあえず、トラは獲物に夢中になっているようだから大丈夫だとは思う。

 少なくとも、そう信じたかった。

 ――とりあえず、トラに見つからないように、この部屋を出よう。

 そう決めた。

 ゆっくりと獲物に夢中になっているトラに用心しながら、正は果てしなく広く感じる床を歩いていた。

 歩きながら、いろいろと考えていた。

 ……カメラが突然、爆発?した。死んだと思ったのに、怪我もなくこうして生きている。そして、あの巨大灰皿、巨大ゴキブリ、そして巨大なトラ……完全に思考が停止していた。

 正は、先程までのゴキブリとの対峙、トラとの恐怖の瞬間を思い出しながら、考えていた。

 ……実は全ての物が巨大化?したのではなく、自分自身が小人のように小さくなったのではないだろうか?ふと、そんな事を思った。

 なんとなくだが、そうなったと思えた。今まで起きた事を考えると、自分の体が何らかの原因で、小人になってしまったのだろう。だから周囲の物が巨大に見えるのではないだろうか?

 そうだとしたら、これから、一体どうなるのだろうか?

 あのカメラが爆発?してからこんな事になっているのだが、もし小人のようになってしまっているとしたら、いったいどうやったら元に戻れるのだろうか。

 それまでに、もしかしたらトラに食われてしまうかもしれない……。

 とりあえず、トラに見つからないように気をつけよう。

 そう思った。

 いつもよりもはるかに長く感じられる廊下を渡り、キッチンへ来た。廊下からキッチンへ行くドアは開いていたが、自分の膝ぐらいまである木でできた段差を超えていかねばならなかった。

 その時に段差をよく見てみた。

 キッチンへの段差に、以前、トラがつけてしまった爪の跡がくっきりと残っていたのだ。

 まるで猛獣がつけた爪痕のように見えた。

 ……いつもなら、何とも思わないのだが、小人になった自分自身にとっては、トラに襲われたら間違いなく食い殺されるのは明白に思えたのである。

 はるか頭上まで高くそびえるキッチンのテーブルの脚が、まるで寺院の柱のように太く感じられた。そのテーブルを過ぎて、さらに歩く。

 ……外には出られないのか。

 外に出てみたいとも思ったが、あいにく窓は締まっており、どこにも行けそうにない。

 よくよく考えたら、外に出れば、カラスや犬や猫、蛇など、正を襲いかねない危険な生き物がいる。

 家の中で、安全なところを探したほうがよさそうだ。

 トラにも襲われず、ゴキブリにも襲われないところはどこだろうか?

 猫が来られない場所……冷蔵庫の上など高いところ?それは違う。猫なら一発で冷蔵庫の上に乗るなど、お手の物だ。

 ……それにしても、安全な場所を探すのは難しい。いま、この瞬間にでもトラが音もなく忍び寄り、正を狙っているとも限らないのだ。

 ほかの部屋に行けるだろうかと思って、キッチンを過ぎて廊下を歩いていたが、残念ながらドアが閉まっており、行けそうにない。廊下から二階へと伸びる階段もあるが、こちらは、一段の高さが正の身長の二倍ぐらいあり、とてもではないがよじ登ることは難しい。

 とりあえず、キッチンに戻ってきた。太い椅子の脚の根元で、脚にもたれながら、胡坐をかいた。こうしてみると、いつも見ていたキッチンの風景とは全く違い、別の世界をさまよっている感じが改めてしてきた。

しばらく正はどこに行こうか考えていた。

よく考えたら、キッチンなどは、ほかの部屋よりもゴキブリが生息している可能性が高いではないか。あまり長居しないほうがいいのかも知れない。

 とりあえず、リビングに帰るか?

 しかし、リビングにはトラがいる。

 トラに食われる可能性もある。

 しかし、それはキッチンにいてもあまり変わらない。トラだってじっとリビングでゴキブリを相手に遊んでいるだけとは限らないからだ。

 どこか別の部屋に行ったかもしれない。

 いや、行ったはずだ。

 正は、自分自身にそう言い聞かせて、リビングへと足を向けた。

 ゆっくりと、歩いていく。途中、キッチンの冷蔵庫の裏側が、まるでビルの谷間の路地のように見えた。

 トラがいませんように……。

 恐る恐る、歩みを進めた。

 リビングの絨毯が、まるで広大な白い草の生えた草原のように感じた。

 ……見たところ、トラはいない。

 ゴキブリもいないようだ。

 それでも用心深く、白い草原のようなリビングの絨毯の上を進んでいった。

 ふと、目の前に大きなカメラがあるのが見えた。

 先ほど、爆発したと思っていたカメラが、部屋の片隅に転がっていたのだ。

 ……爆発して、粉々になったと思ったのだが……。

 正は、信じられない思いであった。近くに寄ってみると、そのカメラは、全く変わらない様子で絨毯の外側の床にまるで小屋のように鎮座していた。自分の身長ほどの大きさである。巻き上げレバーも自分の顔より大きい。

 見たところ、どこも異常はなさそうだが、押してみてもびくともしない重さだ。

 いったい、何だったのだろう?爆発したように感じたのに。

 ……とりあえず、トラの気配は無いから、大丈夫だ。

 そう安心した瞬間、机の上に置いてあるスマホが、鳴り始めた!

 ――誰だ?

 いったい誰が電話をしてきたのだろうか?

 早川だろうか?

 それとも、良子?それとも、理沙か?

 いずれにせよ、通話を取る事は無理だろう。

 どう考えても、スマホが鳴っている間に、机の上によじ登り、通話を取る事はできそうになかった。

 ――仕方がない。とりあえず、後で確認しよう。

 とはいえ、どうやって机の上によじ登るのか?

 なかなかいいアイデアが浮かんでこなかった。

 ふと、壁時計を見た。

 午後三時を過ぎていた。

 ……理沙や良子が帰宅したら、わけを話して解ってもらおうか?

 そのほうがいいだろう。

 きっと、話をしたら、わかってくれるはずだ。

 でも、どうやって?

 直接話しかける?

 それが一番いいかも知れない。

 しかし……仮に自分が小人のようなサイズになっているとする。その小人のような自分が彼らの前に現れたとして、本当に信じてくれるだろうか?

 余りにも信じられない現実を目にした彼らが冷静さをもって事実を受け入れることができるのだろうか?

 だが、そうであったとしても、やはり直接会って話をしてみないことには、始まらない。

 とりあえず、テーブルの上にでもいようか? しかし、あのテーブルをよじ登るのは至難の業だ。

 どうしようか……スマホに出ることも出来ない。困ったものだ……。

 と、その時である。

今度は、家の固定電話が鳴り始めた。

 いったい、誰だろう?さっきスマホにかけてきた人だろうか?

 しかし、固定電話は、リビングの隅にある茶箪笥の上にあるのだ。

 テーブルの上にいく事すら不可能なのに、茶箪笥の上に行く事は当然、不可能である。

 十回ほどコールが鳴った後、留守番電話になった。

「早川です。幾島君、すぐ連絡をください。午前中から、幾島君のパソコンに何度もメールしたし、スマホにも連絡しましたが、全く返答がないね! いったい、どうなっているのですか? 今は、勤務時間中だよ! 君はいったい、家で何をしているのかね? 勤務中なのに、連絡がつかないようでは困ります! では!」

 早川が、いら立った調子で留守番電話にメッセージを入れて、ガチャンと受話器を置く音がして通話が切れた。

 ――まずい! 部長、相当、怒っているぞ。それにしても、いつも連絡なんかしないのに、どうしてこんな時に連絡なんかしてくるのだ!

 そうは思ったのだが、今の状態ではどうしようもない。パソコンでメールの返事を書くどころか、電話すら取れないのだから。

 ……これでは間違いなくリストラになりそうだな……。

 正は、そう思うとため息をついた。

 ため息をつきながら、なぜか、ふと笑った。

 自分の身の上に、大変な事が起きているのも忘れて、自分がリストラされるかどうかが心配になったからだ。

 それが妙に滑稽に思えたのである。

 その時である。

 突如、プーン! と、羽音のようなものが聞こえた。

 よく見ると、自分のすぐそばに、自分の顔ぐらいのサイズの巨大な蚊が飛んでいる。まるで、蚊が狙いを定めて刺そうとしているようであった。

「うわっ!」

 思わず声が出た。

 今度は蚊か!

 距離は、一メートルほど先、自分の目線ぐらいのところにいる。

 さっきのプーンという音が、今はブーンという感じの太い音に聞こえ、しかも蚊の羽ばたきからくる風圧まで感じられる。

 その黒い針は、人の小指ほどの太さがあり、時折揺れていた。

 あの針で刺されたら、いったいどうなってしまうのだろうか?

 正の脳裏に、子供の頃、仰向けになった蛙の死体の上に、蚊が止まっているのを見た事があるのを思い出した。

 あの蛙は、蚊に刺されて死んだのか、それともたまたま死んだ蛙の上に蚊が止まったに過ぎないのか、今となっては解らないが、当時は、きっと蚊に刺されて毒で蛙が死んでしまったのだと思っていた。

 ――あんな巨大な蚊に刺されたら死んでしまうかもしれない!

 そう思うと、恐怖心が高まった。

 それにしても、何とかならないのか……。

 そう思っていたら、突如、蚊が太ももに止まった!

「うわぁ!」

 思わず、声を出してしまった。

 正は、満身の力を込めて蚊を拳で殴りつけた!

 ボン!

 鈍い音が立ったが、蚊はびくともしない。

 そのうち、正の小指ほどもある太さの針を、正の皮膚に這わせて刺す場所を探していた。

「馬鹿野郎!」

 思わず怒鳴りつけて、その胴体をつかみ、必死で体から剥がそうとしたが、蚊はものすごい足の力で正の太ももに食い込んでいた。

 そのうち、後ろ脚を上げたかと思うと、太ももにズボン上から、針を必死で刺し込もうとしてきた!

 痛い!

 見ると、蚊の不気味な針がズボンに食い込んでいた!

 ズボンの上からでも物凄い力だ!

 このままでは、殺されてしまう!

「させるか!」

 思わず叫びながら、蚊の針をつかんだ!

 ブオーン!

 物凄い羽音を立てながら、逃げようと蚊が暴れた。

 それでも必死で、正は針をつかみ、思い切りひねった!

 ブチッ!

 いやな音がして、蚊は羽音を立てて逃げ去った。

 ホッとして、ふと指の間に掴んでいるモノを見た。

 そこにあるのは、不気味な複眼の無表情の蚊の頭と、太い針であった。

 首と胴が離れたにもかかわらず、まだその頭は生きていた。

 よく見ると、長い鹿の角のような触角がゆらゆらと揺れていた。

 その針の先端は、複雑な動きを止めようとせず、その頭と針は、本能で血を求めているように見えた。

 首の切れたところから、不気味な色の体液が滲んでいた。

 不気味な複眼をもった蚊は、無機質で言いようのない表情をしていた。

 何を考えているのか全く読めず、ただ血を求めるために作られたロボットを連想させたのであった。

「うわっ!」

 正は、そのグロテスクな蚊の頭を、投げ捨てた。

 鈍い音がして頭が転がった。

 床に落ちたその頭は、こちらを向いていた。

 ――危なかった。

 もう少しで、蚊に刺されるところだったのだ。

 どうやら、危機は去ったか――。

 そう思った時のことである。

 突如、玄関の鍵が開く音がした。

 そして、足音がしたのだ!

「だだいま!」

 理沙の元気な声が、響き渡った!

 ――理沙が帰ってきたのか!

 ――どうしよう! 理沙に話しかけて、事情を解ってもらおうか?

 ――しかし、理沙がどう思うだろうか? 理沙から見て、父親が小人のようになっていたとしたら……。少なからずショックを受けるのではないだろうか?

 ――とりあえず、姿を隠そう。

 正はそう決めると、とにかくどこか、隠れるところはないか、探した。

 机の上に上るのも無理、とりあえず、ソファーの下の空間か、ソファーとソファーの隙間ぐらいに、もぐりこむしかない。

 そう思っているうちに、ドドドドド!と、足音が響いてきた!

 床全体が、まるで地震で揺れているような感じがした。

「ねえ! パパ!」

 いきなりリビングのドアを理沙が開け放った!

 その瞬間、正はソファーの下にもぐり込んだ。

 埃がいっぱいで不快な空間だったが、仕方がない。

 間一髪で姿を隠すことができたが、ソファーの下から、理沙の靴下が見えた。

「ただいま! パパ!」

 理沙が呼んでいる。

「パパ! パパ?」

 ――理沙……。こんなに小さい親父を見たらどんな顔をするのだろうか……。

 理沙の靴下が見えたとき、思わずソファーの下から這い出して大声で叫びたくなった。

「パパはここにいるよ!」

 と、叫んでみたくなった。

 だが、正はその欲求をぐっとこらえて、ソファーの下に這いつくばって身を隠していた。

「あれえ? パパはいないの?」

 理沙はそう言うと、ランドセルを床に放り出して、また玄関へと駆け出して行った。

 鍵がしまる音がした。

 ――理沙は、またどこかへ出かけて行ったようだ。

 理沙のランドセルが、床に転がっているのが見えた。

 ソファーにおけばいいのに、正はそう思ったが、自分の躾がなっていない事に気が付いて、苦笑した。

 理沙は、どこかに行ったから大丈夫だが……。

 問題は、トラだ。

 奴の動きだけは、猫だけあって予想もつかない。

 この瞬間にも背後に忍び寄って、肉球で俺をしっかりと掴んで食ってしまうかも知れないのだ。


 そう思うと、正は身震いした。

 猫に襲われないようにするにはどうしたらいいのだろうか……。

 猫が入れないぐらいの狭い隙間に逃げる?

 確かに効果的だろうが、猫は意外と狭いところをすり抜けることができるし、その足は意外と長い。

 ソファーの下でも、かなりのところまで届くだろう。

 しかも、ソファーの下には、ゴキブリなど危険な虫がいる可能性は高いのでやはり行きたくない。

 とりあえず、ソファーの下から這い出した。

 どうやら、トラは今のところいないようだ。

 とりあえず、投げ出されているランドセルのところまで歩いて行った。

 ……ランドセルか……。

 ちゃんと、理沙は学校で勉強しているのだろうか?

 まさか、子供のころ、俺がやっていたように、教科書を持ち帰らず学校の机の中に放置していないだろうか?

 理沙は、体育は得意だが、勉強はあまり得意ではない。

 ちょっと体育ができたとしても、プロのスポーツ選手になるほどの運動神経でもない。

 ある程度は、勉強もできないと、これから先、思いやられる……。

 そう思った正は、ランドセルの中に、教科書があるのかどうか調べることにした。

 幸いというか、だらしがないというか、ランドセルの留め金が外れており、まるで乱暴な男の子のランドセルのようにちゃんとカバーが固定されていなかった。

 どうやら、中を調べることができそうだ。

 どれどれ……。

 正は、ランドセルのカバーがめくれている隙間から、その中を覗き込んだ。

 え!

 己の目を疑った。

 一冊も教科書がない!

 あるのは、給食でこっそり残したらしい牛乳パック、途中のコンビニで買ってきたらしいキャラメルの箱、そして筆箱ぐらいのものである。

 ――やっぱり、理沙のやつ……。

 気が付いたら、理沙は子供の頃の俺と全く同じ事をしている……。

 理沙は女の子なのに……本当に、困った奴だ。

 ため息をついた。

 その時である!

 突然、玄関のドアがまた開く音がした。

 あっという間に、足音が近づいてリビングのドアも勢いよく開け放たれた!

 やばい!

 とっさにランドセルの中に身を潜める。

 中は、薄暗い。

 そして、使い古した牛革の匂いと、雨に濡れた匂いが混じり合って、何とも言えない匂いが正の鼻を突いた。

 その瞬間、あっという間に、ランドセルの底に体をたたきつけられる感じがした。

 とにかく、激しい揺れと振動で必死になって身を守った。

 ランドセルの中の牛乳パックが、まるで液体の入ったドラム缶のように暴れた。

 とにかく、体験したことのない大地震にあっているかのように揺れるランドセルの中で、牛乳パックがドラム缶のように暴れる。

 あれにつぶされたらひとたまりもない!

 ドン!

 牛乳パックが襲いかかってきた!

 風圧を感じながら、危ういところで逃れた。

 そして、とにかく激しい揺れと振動が永遠に続くように感じられたその時、最後に激しい衝撃を感じて、背中を打ちつけた!

 息が止まる。

 呼吸ができない!

 このまま、死んでしまうのではないかと思うほどの衝撃を感じた。

 ――だが、どうやらランドセルの動きは止まったようだ。

 どうやら、助かったらしい。

 理沙が、ランドセルを二階の自分の部屋に置いたのだろうか?

 ランドセルの中は、静まり返っていた。

 物音ひとつ、しない。

 ランドセルの上部の隙間から、光がさしていた。

 ここから、出よう。

 そう思い、ランドセルの上部に向かい、這うようにして歩いていくと、光は見えるのだが、ご丁寧にも理沙がランドセルのカバーの留め具を止めたためか、どうやっても外に出ることができない。

 これはマズイ!

 中に閉じ込められてしまった!

「おーい! 理沙! 俺はここだ! 開けてくれ!」

 力の限り叫んでみた。

 しかし、返事は返ってこない。

 理沙は、ランドセルを自分の部屋に置くと、そのままどこかへ行ってしまったのだろうか。

 とにかくここから脱出しない事には、どうしようもない。

 困ったな……。

 そう思いながら、何とかしてランドセルの上部から抜け出ようとした。

 だが、革は思いのほか硬くて、うまく体を出すことができない。首ぐらいは出ないかと思ってやってみたが、それすら出ないのだ。

「ニャー」

 突然、声がした。

 ――まさか、トラか?

 間違いなく、トラに違いない。

 ドン!

 ランドセルを外側から叩く振動で体が揺れた。

 ドン! ドン! ドン! ガリ! ガリガリ!

 猫パンチをしたり、噛みついたりしているのか!

 いきなり、ランドセルの床が斜めになった!

 トラが悪戯をしているらしい!

 あっという間に、ランドセルの上下が逆さになった!

「うわっ!」

 思わず悲鳴を上げた。

 そして息をつく暇もなく、すぐにまた上下が逆さまになった。

 必死で身を守る。

「トラ! やめろ!」

 正は必死で叫んでみたが、今度はまたランドセルに猫パンチの応酬だ。

 普段、トラに猫パンチをされても大した衝撃があるわけではないが、ランドセルの外側から、こうして猫パンチの応酬を受けると、ものすごい衝撃である。

 まるで巨大怪獣に襲われているような衝撃である。

「やめろ! トラ! この馬鹿猫が!」

 思わず正は叫んでいたが、トラは全く気にしない。

 猫パンチは、さらに激しくなった。

 ドン! ドン! ドン! ドン!

 凄まじい振動が伝わってくる。

 あれに直撃されたら、間違いなく即死だろう。

 トラの猫パンチはさらに激しさを増した。

「やめろ! やめるんだ! トラ! この、馬鹿!」

 正は絶叫した。

 すると、正の声が聞こえたのか、突然、猫パンチは収まった。

 ふう、とため息をついたその時、またもや猫パンチが始まったのだ!

 今度は、さらに激しさを増した。まるで、激しい空爆のように感じられた。

 すると突然、ランドセル内が明るくなった。

 ランドセルの革の蓋が、突然開いたのだ!

 ランドセルの外が見える。

 そこから、太いトラの足が中に入ってきた!

 爪は、恐ろしく伸びており、あれに引っかかれたら間違いなく即死だ。

「ひ、ひぃ!」

 正は、必死でランドセルの奥にあった牛乳パックの陰に隠れた。

 トラが、ランドセルの中を覗いているのが見えた。

 巨大なトラの顔が、ランドセルのすぐ外に鎮座していた。

 その眼は、大きく見開き、その瞳孔は縦に細く伸び、まさに悪魔の目のように思えたのだ。

 動物園で虎やライオンを間近に見るよりも、はるかに恐ろしく感じられた。

 自身が小人化?した今となっては、トラのような猫ですら、体長九メートルは遥かに超える巨大な猛獣にしか思えなかった。

 体長九メートルの猛獣に狙われた経験を持つ者は、この地球上にほとんどいないだろう。

 いま、正はそれを経験していたのであった。

「ニャー!」

 また、トラが鳴いた。

「フンッ!」

 鼻息も荒い。

 匂いを嗅いでいるようだ。

 おいしい餌かどうか、吟味しているのだろうか?

「うあああ! やめろ! トラ! この馬鹿!」

 正は絶叫した。

 バム!

 大きな音を立てて、牛乳パックが動いた。

 バム!

 また音がした。

 トラが足を入れて様子を見ているのだ。

「フンッ!」

 また鼻息の音がした。

 ボム!

 ボム!

 また足でランドセルの中を掻き出そうとしている。

 ドン!

 牛乳パックに思い切りぶつかられた!

 痛い!

 そして、ふと目の前を見ると、巨大な肉球が目の前にあった。

 その鋭い爪が、正の目の前で不気味に光っていたのだ!

 その爪が、正の方に向かってきた!

 いよいよか!

 ゴソ!

 今度は、トラがランドセルの中に頭を入れてきた!

 すぐ目の前に、トラの顔がある。

 だが、その目は、先ほどまでの瞳孔が縦に伸びきった悪魔のような眼ではなかった。

 優しい目をしていたのだ。

 正は、思わず驚いた。

 間違いなく食われる、と先ほどまで感じていた恐怖心も、不思議と去った。

 ペロリ。

 トラが、正をなめた。

 生暖かい感触と、ざらざらした猫の舌の感触がした。

 正直なところ、少し痛い。

 サンドペーパーでこすられたような感じがしたのだ。

「痛ッ!」

「フンッ!」

 鼻息を立てると、またトラがなめた。

 また、少し痛い。

「わかった。もうやめろ」

 正がそう言うと、トラはしばらくじっと正を見ていたが、頭をランドセルの中から出した。

 そして、ランドセルのそばで、今度は腹を見せて横になったのだ。

 どうやら、敵意がないところを見せたいらしい。

 とりあえず、トラの腹を撫でた。

「フンッ!」

 また鼻息を立てた。

 小人化した正にとっては、トラは体長九メートル以上あるように感じられる。その胴も、二~三メートルは優にあるように感じられた。

 トラは、うつぶせに寝そべった。

 じっと、正を見ている。

 そのひげが、動いているのが分かった。

 口の周りも、柔らかな動きを見せている。

 思い切って、トラの背中にもたれかけた。

 ふんわりとした猫の毛並みが心地よかった。

 うれしそうに、トラは尻尾を立てた。

 ――俺は、トラに食われるのかと思っていたが、トラは俺を助けようとしていたのかも知れない。

 正は、ふとそんな事を考えたのだ。

 ――ゴキブリに囲まれた時も。トラは俺を助けてくれたのかも知れないし、さっき、ランドセルの中に閉じ込められた時に、散々猫パンチを食わらされたのも、ランドセルの留め金を外すためだったんじゃないだろうか……。

 そう思うと、正は、トラに対して、「馬鹿」と言ってしまった事がよくない事のように思われてきた。

「すまなかったな、トラ」

 正は、そう言いながら、トラの温かい毛並みの中に顔をうずめた。

「ゴロゴロゴロ……」

 尻尾を少し立てながら、トラは気持ちよさそうに、のどの音を立てた。

 トラの温かい毛並みに身をゆだねているうちに、正は心地よい疲労感に包まれていつしか眠っていた。

 



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