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スモールワールド  作者: 竹取裕基
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スモールワールド

第一章

 

朝日がダイニングの小窓から差し込んでいた。

 いい天気になりそうだ。

 今日は、令和三年七月十三日火曜日である。

 幾島(いくしま)(ただし)は、ハムエッグを食べていた。

 妻の良子(りょうこ)が、心づくしの朝食を作ってくれたのだ。

 正の隣には、今年小学五年生になった娘の理沙もいた。

 理沙(りさ)は、正が先月買い与えたスマホに夢中になっていた。

「理沙、食事の時には、スマホを触っちゃだめ」

 良子が優しく理沙に注意する。

 理沙は、少しうかない顔をしたが、母親に従ってスマホを机に置いて、トーストとハムエッグを食べ始めた。

「ねえ、パパ。今日は、ちょっと遅くなるからごめんね。納期が迫っているの」

 良子がそう言った。

「ああ、解った。夕飯は、俺が作っておくよ」

「ありがとう。冷蔵庫に野菜と、牛肉の細切れがあるから炒め物をしてね。味噌汁も作っておいてね。ご飯は六時に炊けるようにセットしておくわ」

「解った」

 正はそう返事すると、ふと居間に置いてあるテレビを見た。

「ねえ、パパ!」

 理沙がハムエッグを食べながら言った。

「何だい?」

「今度の土曜に、どこかへ行こうよ」

「そうだな。土曜は休みだから、いいだろう。みんなで江の島でも行こうか」

「ダメよ。私は、土曜日はたぶん仕事だわ」

 良子がそう言うと、理沙は残念そうな顔をした。

「つまんない……どうしてママは土曜日も仕事なの?」

「仕方がないじゃない。ママの会社は今が忙しいの」

「つまんないな……」

 理沙が残念そうな顔をした。

「仕方がない。土曜は、新宿でも行こう。パパと、どこかデパートでも行こうか」

「この前、新宿は行ったよ」

「じゃあどこに行きたいんだ」

「……パパだけじゃ嫌だよ。ママもいなきゃ嫌だ」

 理沙の言葉に、少なからず正はショックを受けたが、父親というものは、もともとこういうものだろう、しょせん母親にはある意味勝てない面もあるのだと自分自身を慰めた。

「仕方ないわね」

 良子はそう言うと、理沙に、にっこりと笑った。

「来月になったら、ママの会社も暇になるから、来月、みんなでどこかへ行こう」

「解った。約束だよ」

 ようやく理沙の顔に笑顔が戻った。

「理沙、そろそろ行かないと遅刻するわよ」

 良子がそう言うと、理沙は時計を見て叫んだ。

「もう行かなきゃ! 遅刻しちゃう!」

 慌ただしく玄関まで駆けていき、

「行ってきます!」

 と言ったかと思うと、理沙は学校へ向かっていった。

「私も、そろそろ行かなくちゃ。パパ、おうちの事、お願いね」

 そう言うと、慌ただしくバッグを持って良子は出て行った。

 ひとり、正は残された。

 急に静かになった家の中にテレビの音声だけが、聞こえてきた。

 平日の慌ただしい朝のニュースで、アナウンサーが何かを話している。

 ふとテレビの画面を見た。

「東京で昨日のコロナウイルス感染者が五〇〇人を突破」

 と、テロップが出ている。

 正は、株式会社東産業の総務部主任であった。

 総務部主任と言えば、聞こえはいいが、吹けば飛ぶような小企業である東産業の全従業員は総勢三十名ほどだ。それに総務部は、部長の早川大作と主任の正を含め若い女子社員の島崎、三人しかいない。

 正は「名ばかり主任」であった。東産業では、何らかの役職についている者は、過半数を超えていた。その理由は、社長の方針で、「役職者には残業手当を支給する必要がないから」であった。

 正は、キッチンで皿を洗いながら、考え事をしていた。

 

 部長の早川と島崎は相変わらず出勤しているが、総務で正だけは、「コロナ対策」として今週からテレワークを命じられた。東産業は、午前九時に始業なので、午前九時前にクラウド上の社員専用のページにログインしておけば出社した扱いとなる。

 コロナ対策でテレワークになったが、実は、ほとんど仕事らしい仕事はない。仕事のほとんどは、出勤している早川と島崎がやっているので、正の仕事は、会社から携帯に連絡があった場合はすぐに出る事、そして早川から書類作成などを依頼されたら作成する事になっているが、実際のところ、テレワークになって以来、簡単な書類作成の仕事すら、依頼されたことはない。そもそも会社から全く電話すらかかってこないのであった。週明けの昨日も、一本も電話がかかってこなかった。もちろん、メールも全くない。

 ……正だけが、テレワークになったのは、正は不要な人材だからと会社が判断したと正自身考えていたし、このような仕事のない状況を見ると、そうなのだとしか思えなかった。普通は、テレワークといっても、リモート会議はあるだろうし、会社から連絡は来るはずである。

 自宅の新築二階建ては、ローンが二十八年残っている。毎月の支払いは十二万円ほどだ。

もし正が失業すれば、ローンがずっしりと家計にのしかかってくる……はずだが、幸い、良子は、勤務する大手工作機械製造会社の部長を務めており、年収は九〇〇万円ほどあった。その額は、正の年収四〇〇万円の二倍以上にもなる……。だから当分はさしあたって生活の心配はない。だが、良子は昨年、部長に昇進した事もあり、いつも帰宅は遅くなる。そのため正が代わって家事をするのが慣習となっている。朝食だけは、良子が作ってくれるが、夕飯は、正が作ることがほとんどだ。

 おかげで、料理の腕は上がった。最初は「パパの料理はマズイ」と言っていた理沙ですら、最近は「パパの料理もなかなかだね」と褒めてくれるようになった。

 料理のレパートリーも増えた。クックパッドなどを見て自分でも独学で料理をやっているうちに、焼き豚だとか、手の込んだ煮込み料理だとか、普通の家庭の主婦ですら敬遠しそうな料理にも手を出すことも増えたのである。

 ……昨夜。疲れ果てて帰ってきた良子が帰宅した時、総務で正だけがテレワークになっていることが、間違いなくリストラの前兆だと思うと伝えた。

 少し困った顔をしたが、すぐに良子は明るく笑った。

「大丈夫だよ。何とかなるって」

 その笑顔に正は、救われる思いがした。

 ……思えば、十四年前にプロポーズしたのも、この笑顔に惚れたのが原因だったのかも知れないと、正は思った。

 少し引っ込み思案のあるところのある正だったが、良子の明るい笑顔を見ていると自身も何か勇気づけられるような気がする事もしばしばであった。

 何か起きても、いつも「大丈夫だよ。何とかなるって」と言ってくれる良子に支えられて生きてきたと思っている。

 大学時代、テニスサークルで出会った時、ちょっと元気のいい女の子だなと思ったのが、初対面での印象であった。良子と正は、年齢は一つしか変わらないが、学年は同じであった。

 そのわけは、良子は現役で光洋大学経済学部に入学したのだが、正は一年浪人してから入学したので、学年は同じでも年齢は一つ上になったのだ。

 だが、一つ年下であった良子であるが、テニスサークルのコンパで食事をしながら、時には飲みながら話をしていたら妙に気が合い、いつしか二人は恋人同士になっていた。

 とは言え、順風満帆に二人の関係が続いたわけではなかった。時にはつまらない理由で喧嘩もしたし、互いに口も聞かない時も少なからずあったのだが、正が三十になった年のある夏の日に、勇気を出して正は良子にプロポーズをしたのだ。

 三十一の時に結婚して、その三年後に理沙が生まれた。

 理沙のほかにも子供に恵まれたら……と思って二人は努力をしてきたのだが、残念ながら良子の母体に問題があったらしく、それ以来、子宝に恵まれる事はなかった。

 理沙は、すくすくと育った。もともと活発な性格であったが、小学校に上がるころにはさらに活発な女の子になり、クラスの男の子と喧嘩して泣かせたことすらあった。担任によると、今では、クラスの女子の中で中心人物になっていると言う。

 「おてんば」それが、理沙を言い表すのに、ぴったりな言葉であった。

 どちらかと言うと控えめなところのある正の血よりは、やや活発なタイプである良子の血を濃く引いているのだろう。

 勉強はあまりできないが、スポーツは得意だ。男の子に混じってサッカーに興じたり、鉄棒は女子の中で一番できる。水泳も得意である。

 正の心配ごとの一つは、あまりにもお転婆すぎて将来、結婚相手に困るのではないだろうかと言う事であったが、どちらかと言うとやや活発な良子に惹かれた自分の事を思い出し、きっと将来、理沙の活発さに惹かれる男性も必ず現れるだろうと思った。

 ……良子と理沙のふたりが、慌ただしく職場や学校へ行った後は、家の中がいつもよりも広く感じた。

 皿を洗い終え、風呂も落としてから、リビングのソファーに座りこんでテレビを見た。

 まだ、八時にもなっていない。

 ……二人とも、今頃電車の中かな……。

 ふとそんな事を考える。正も、先週までは満員電車に揺られて会社に通う毎日であった。

 いつも新宿駅で降りて、JR中央線に乗り換え東京駅でさらに京葉線に乗り換えて新木場駅で降りる。新木場から会社までは徒歩で約二十分であった。

 登戸駅から徒歩十五分の二階建て新築のマイホームから、職場までは二時間近くかかるのだ。本当ならば、地下鉄を使えばもっと早く着くのだが、正は地下鉄が嫌いだったのでわざわざ中央線を使っていた。

 それはともかく、小田急線も、JR中央線も、朝の通勤ラッシュはまさに殺人的で、生きた心地がしない。地方出身者でもある正にとって、この朝の通勤ラッシュは何年、東京で暮らしていても慣れる事はなかった。

 ……だが、テレワークになってからは、始業時刻まで自宅でこうしてぼんやりとしていてもいい。それが、とても不思議な感覚に思えた。

 テレビだけがしゃべっているリビングのソファーに腰を下ろすと、トラが寄ってきた。トラは、トラ猫だから「トラ」と名付けられた。名付け親は、理沙である。あまりにも安直な命名に、名前をつけられる猫の事も考えてちゃんとした名前をつけるべきだ、と理沙に言ったものだが、理沙は「絶対にこれがいい!」と言って譲らなかった。

「ニャー」

 トラがそう言いながら、正にすり寄ってきた。

 猫の毛並みが、とても心地よく感じられる。

 温かい生きた毛皮を触っている感じだ。

 トラが、ぺろぺろと正の指を舐めた。

 ざらざらとした感覚がする。

 猫の舌の感覚。

 この感覚が、妙に好きであった。

「トラ、あっち行っていろ」

 優しく声をかけると、トラは「ニャー」とまた言いながらどこかへ行った。

 テレビの時刻を見た。

 午前七時五十分だ。

 ……いつもなら、中央線のラッシュで揉みくちゃにされている事だろう。

 テレビを消して、リビングの隣の部屋に行った。

 ノートパソコンを持ってきて、リビングのテーブルの上に置き、電源を入れて立ち上げた。

 しばらくして、東産業のホームページを開き、そこからリンクされている社員専用のログインページを開いた。

 自分に割り当てられた暗号キーを入力する。

 「2020akyz4ofg3r78v89azuma」

と打ち込むと、しばらくして自動でログイン完了のメールが来た。

 これで、今日は出社したのと同じ扱いになる。

 ちなみに、退社するときも、終業時刻以降に、同じように暗号キーを入力しなければならない。

 たぶん、今日の仕事はこれでおしまいだろう。

 ……とは言え、自分の社内のメールボックスはやはりチェックする。

 やっぱりと言うか、自分あてのメールなど一通もなかった。

 ――そもそも仕事そのものが割り当てられていないのだ。どうせ、俺はもうすぐリストラされるのだろう……。

 ――それもいいかもしれない。俺が失業しても妻の稼ぎがあるから、家のローンは払えるだろうし。

 そんな事を考えながら、ぼんやりとしていた。

 正は、煙草を取り出して火をつけた。

 紫煙が、たなびいていく。

 理沙がいたら、「パパ、煙草はイヤだ!」と大騒ぎしそうだ。

 幸い、騒がしい理沙は学校だ。もし良子もいたら、「リビングに匂いがつくから、私も嫌だよ……」といい顔はしないだろう。

 だが、ふたりがいない今は、煙草をリビングで吸おうと構わない。

 紫煙を大きく吸い込んで、吐き出した。

 まるで、空にたなびく雲のように、煙がリビングに漂っていた。

 ふと、正は考えた。

 それにしても……。

 サラリーマンなど、何年勤めてどんなに偉くなっても、首になったら、また一からやり直しだ。

 良子が稼いでいるとはいえ、ローンもあるし教育費もかさむ。さすがに働かないわけにもいかない。でも、もう四十過ぎの俺が、失業して、転職して、新しい職場でうまくやっていけるだろうか。そもそも、次の仕事が見つかるだろうか?

 考えたら、不安になってきた。

 だんだんと憂鬱な気分になった。

 ――よそう。気分が暗くなる。

 正は、リビングの端にある、物入れを開けた。

 ビニール袋があった。

 なかには、何かが包まれている。

 正は、その袋を取り出した。

 ずっしりと重い。

 正は、袋から、中身を取り出した。

 それは、真新しい感じの黒の双眼鏡であった。

 ずっしりと重く、ダイヤルのようなものがついていた。

 袋の中には、英語で書かれている説明書があった。

 説明書は、机の上に置き、双眼鏡を取り出すと、バルコニーに立ってみた。

 二階のバルコニーは、二畳ほどの広さの、小さなバルコニーだが、高台に家があるので、風景を楽しむことが出来る。とは言え、実際には住宅街や、道を行く車や人、鉄橋を走っていく電車が見られる程度だ。

 たまに、ここに立って煙草を吸ったり、ぼんやりと星空を見たりする時もあった。

 正は、双眼鏡を覗いて鉄橋を見た。

 その途端、すぐ目の前で列車が凄いスピードで通り過ぎた。

 満員電車だった。

 無数の人々が家畜のように電車に詰め込まれて、今日も職場へと運ばれていく。

 あっという間に列車が過ぎ去っていった鉄橋のリベットの一つ一つが良く見えた。

 そしてすぐに、今度は反対側からの下り電車が凄い勢いで通り過ぎた。

 猛烈に通り過ぎる電車が視界から消える瞬間、ドアの窓際に立っていた一人の中年男の顔が網膜に焼きついて残った。

 その顔は、明らかに物憂げな、暗い表情であった。

 まるで、自分自身を見ているような気がした。



 ……今度は、双眼鏡で街の様子を見た。

 駅をみた。

 職場や学校へ急ぐ人々の人の波が見えた。

 信号機が青になると走りだす車の列。コンビニに出入りする人々。駅前で黙々と歩く人々が見える。

 双眼鏡で覗いていると、遠くの出来事もすぐ近くで行われているかのように見える。

 だんだんと街を双眼鏡で眺めるのも飽きてきた。

 正は、双眼鏡を降ろして、部屋の中に入った。

 コーヒーを入れて、壁掛け時計を見た。

 まだ八時過ぎだ。

 時間が経って行かない……。手持ち無沙汰を感じた正は、双眼鏡の説明書を取り出した。

 英語ばかりで書かれており、何が何だかさっぱり解らない。イラストもあるので双眼鏡のピントの合わせ方とか使用方法らしいのがなんとなくわかったが、読んでいると英語だらけなのですぐに嫌になった。双眼鏡のあちらこちらに、見た事もないダイヤルや小さなスイッチのようなものもついていたが、英語で書かれており良く解らない。

 説明書をまた袋に戻すと、大きくため息をついた。

 時計を見た。

 まだ八時二〇分である。普段であれば、会社に着き、デスクに座って一日の予定を確かめたり、身の回りの整頓をしたりしている頃だ。

 平日のこの時間には会社にいることを体で覚えてしまっている自分にとって、その時間に、家でこうして過ごしているのがどうにも不思議な感じがした。

 昨日から始まったこのテレワーク、実質、家にいて何もしないので楽と言えば楽だが、リストラが近い自分の境遇を考えると、楽だとばかり言っていられない。

 ――このまま、ずっと「テレワーク」で家に居られて飯が食えるならいいのだが……

 ふとそんな事を思った。しかし、テレワークと言うよりも単に仕事を干されているだけだと思われる正は、もう「要らない」人材であろうから、いずれ首だろう。首になったら、こんな生活は、できるはずがない。

 ――この先、どうなるのだろう――

 そんな事を考えながら、またテレビを見た。

 くだらないワイドショーがやっている。どこかの街で誰かがごみをまき散らしているとか、猫がマンホールにハマっており脱出できなくなっていたのを消防署のレスキューチームが出動してコンクリートを切って救出したとか、正にとっては、どうでもいい内容だった。

 くだらない内容に、テレビを思わず切った。

 テーブルの上の双眼鏡を見た。

 ――この双眼鏡は、昨年末に近くの「蚤の市」でやっていた露店で買ったものだ。埃だらけの段ボール箱に入っており、価格は千円だったので、買ってみたのだ。

「お客さん、この双眼鏡、米軍で使われていたそうですよ」

 本当かどうか解らないが、店主のセールストークを聞いて、購入してみる気になったのであった。

 双眼鏡は、ほとんど使われた形跡がなく、真新しい感じだ。「米軍のデットストック品」なのだとしたら、千円なら確かにお買い得だろう。

 

 正は、双眼鏡を机に置いた。

 壁時計の時刻は、まだ八時二八分だ。

 時間が経って行かない。

 ふと、疲労感を覚えた正は、ソファーに横になった。

 ――どうせ、俺に電話なんて、かかってこないのだからいいだろう――

 そう思って、目を閉じた。

 心地よい気怠さを感じると共に、意識が薄れていった。

 




 ハッ!と、なって飛び起きた。

 時計を見ると、午前十時半である。

 ――マズイ、遅刻だ!

 一瞬、そう思ったが、すぐにテレワークであったことを思い出し、安心した。

 まさか、電話がかかって来てはいないだろうか?

 スマホをチェックするが、着信履歴はなかった。

 ただ、理沙からのLINEのメールが来ていただけだ。

「パパ、ちゃんと仕事している?」

 と。

 フッ、と苦笑すると、

「ちゃんとしているよ。理沙も学校で頑張るんだよ」

 と、送った。

 良子からもLINEが来ていた。

「お鍋の中に、昼のご飯が入っているから温めて食べてね」

 と書かれている。

 キッチンのコンロの上の鍋を覗くと、昨夜食べたカレーの残りがあった。

 昼ごはんはこれを食べろという事だろう。

「ありがとう」

 と、返信しておいた。

 テレビをつけてみた。

 朝のワイドショーは終わって、ゴールデンタイムの番組の再放送をやっていた。

 ……芸人が北関東の小さなお店に訪れては、飲んだり食べたりする番組である。以前、見た事があるので、見ても仕方がないのだが、ついつい見てしまった。

 一応、パソコンから社内の自分のメールボックスをチェックしたが、メールは一通もなかった。

 とりあえず、やる事がない。

 時刻はまだ十時半だ。昼食までまだ時間がある。

 ふと、テーブルの上に置いてある双眼鏡をまた見た。

 正は、双眼鏡をソファーの上へ乱暴に置いた。

 柔らかなソファーの上で、二度、双眼鏡が跳ねると静かになった。

 壁時計の針は、まだ午前十時三十五分を少し回ったところであった。

 ――別に十二時に昼食を食べなければいけないわけじゃない……。

 ふとそう思った。

 オフィスにいるわけではないのだから、いつ、何を食べようと基本、自由だ。

 キッチンのコンロの上にかかっている鍋の中に昨夜のカレーの残りがある。

 蓋を開けて、少し水を入れて、温めた。

 カレーが焦げないようにかき混ぜながら温め、温め終えると、炊飯ジャーの中に入っているご飯を皿に盛りつけ、そこにカレーをかけた。

「お、一晩置くと、なかなかうまいじゃないか」

 思わずそう言いたくなる。

 自分が昨日、作ったものだからなおさらだ。

「ニャー」

 足元に、温かい毛皮が寄ってきた。

 トラである。

 トラが、正の足もとに自分の体をこすりつけて甘えているのだ。

 生きた毛皮の感触を楽しみながら、カレーを食べる。

「ほら、ちょっと食ってみろ」

 正は、カレーライスから牛肉を取り出して、小さな皿に乗せて床に置いた。

 ところがトラは、匂いを嗅いだが、食べようとしない。

「何だ、食べないのか。せっかくやったのに」

 正はそう言うと、またカレーライスを食べ始めた。

「贅沢な奴だな」

 そう言うと、机の上に置いてあった菓子袋から一個、ドーナツを取り出して皿に置いた。

 プレーンドーナツだが、砂糖が表面にびっしりとかかり、見るからに、甘そうなやつだ。

 ……こんなのを、猫は食わないかも……。

 そう思って皿に置いたのだが、意外な事に、トラはそれにパッと食いついたかと思うと、ムシャムシャと食べてしまった。

「お前、甘党なんだな」

 そう言うと、トラは言葉の意味を解したのか、首を縦に振ったような気がした。

 そしてまたトラは正の足もとに寄ってきて今度は腹を見せた。

 その生きた毛皮を、横着にも足で触ろうとした瞬間、トラは、パッと逃げて行った。

 そんなつもりはなかったのだが、蹴られると本能的に思ったのかも知れない。

 カレーを食べて、時計を見た。

 まだ午前十一時だ。

 本当にやる事がない。

 普段の日なら、今頃オフィスで働いているはずなのだが……。

 こうして、平日のこの時間に家にいる、その状態には、未だに慣れてこない。

 テレビをつけても、この時間は、ワイドショーとか、以前の番組の再放送などが多く、あまり見たいとは思わない。

 正は、物入れからもう一つの袋を取り出した。

 袋から、取り出したのは古ぼけたカメラである。

 それも、昔のライカのような手巻きのフイルムカメラだ。

 こちらも、この前の蚤の市で同じ店主から購入したものだ。こちらは僅か五百円であった。

 このカメラも、店主によれば米軍が使用していたものだそうだ。

 本当かどうか知らないが、カメラは傷だらけである。

 どこのメーカーなのか、気になってみたが、奇妙な事にメーカー名は一切書かれていなかった。

 カメラの底に英語で、“Property of United States”

と、刻印がされていた。

 ――合衆国財産? やっぱり米軍で使われていたのか?

 正は、とりあえずこのカメラが何らかの形で米軍に使われていたのだろうかと思ったが、もちろんこれは偽物の可能性もある。いや、たぶん偽物だろう。

 誰かが、ぼろぼろのカメラに細工して高く売るために刻印を施したに違いない。

 そう思った。

 裏蓋を開けてみたが、フィルムは入っていない。

 ただ、内部にほんのわずかに埃が侵入していたが、内部は意外と綺麗な印象を受けた。

 ISO感度のダイヤルに数字が並んでいたが、どういうわけか∞と言う場所がある。

 普通は、∞というISO感度はない。

 ――何だ、これは? 

 面白いので∞にダイヤルを合わせた。

 巻き上げレバーを動かす。

 カチッと音がして、レバーが戻る。

 ファインダーをのぞいて見た。

 部屋の壁にかかっている壁時計が見える。

 時計の針が、午前十一時三分を示していた。

 シャッターを切った。

 そのとたん、目もくらむ閃光と耳をつんざく爆発音がとどろいた!

 カメラが突然、爆発を起こしたようだ!

そして、一瞬で目が見えなくなった。

――いったいなんだ? 何が起きたのか!

 正は意識を失う瞬間、死を確信した。



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