リジェリン
エレナがやってきて、数日が経ったある日――
リュートはやけに広くなってしまった自室を、憮然とした表情で一瞥していた。
昨日までは存在していたはずの家具が跡形もなく無くなっていた。タンスも、本棚も、少ない小遣いを溜めて買ったお気にのローテーブルまでもがすっかりと消え失せていた。
消えた家具一式の行く先は隣の空き部屋。エレナが滞在する間、そこを自室として使ってもらうためだ。
もともとそれほど私物が多くはないため、タンスや本棚を持っていかれる分にはリュートも我慢したが、しかし、さすがにベッドまで持っていかれそうになると抗議しないわけにはいかなかった。
「俺はどこで寝ればいいんだよ!」と不満をぶつけたが、「あん? 童貞の分際で女の子に床で寝ろっていうのカ?」とサクミに凄まれ、結局すごすごと引き下がる他なかった。
唯一残ったソファで寝ると、翌朝にはもう腰が痛くなっていた。
両親と離ればなれになっているエレナの境遇に姉二人も思う所があるのか、出来る限りのことはしてあげようと思っているらしい。
だからといって家具を全て持ってくのはあんまりじゃないか、とリュートは思うのだが。
リュートは部屋の隅へと乱雑に積まれた(放り捨てられたとも言う)私物の中から愛用の鞄を引っ張り出すと、その中から小さなプラスチックケースを取り出した。
ケースの中身は注射器と薬剤の入った瓶。リュートは慣れた手つきで瓶の中身を注射器で吸い上げると、目線の高さに掲げ不純物が混じっていないことを確かめる。
軽く深呼吸して気持ちを落ち着かせ、アルコール消毒した右腕に針を近づけた。
「何してんの?」
「どわあ!?」
気配すら感じさせずに近寄って来たエレナのひとことに飛び上がりそうになる。危うく手にしていた注射針を全然関係ない場所へ突き刺しそうになった。
「あ、あっぶねえ……」
「うわ、注射だあ」
リュートが手にしているものを見た瞬間、エレナは露骨に顔を顰めて距離を取った。いつの時代も子供は注射が苦手なものらしい。
「お、おまえなあ、ノックぐらいしろよな!」
「だってドアが少し開いてたし。こういうの『ぶようじん』って言うんだよ?」
たどたどしい口調ながらも難しい言葉を使えたことが誇らしいのか。得意げに胸元を逸らす少女を前に、リュートは小さく嘆息する。
「ったく。それで、なんの用だよ……って、ま、まさか、またあのグロテスクな物体を持って、俺を追いかけまわそうって言うんじゃ――!」
「もう、そんなことするはずないでしょ?」
「うそだ! お前、毎回『もうしないよ』って言いながら、あの虫持って追いかけてくるじゃねえか!」
本気で怯えている表情を浮かべるリュートを見て、先程のお返しとばかりにエレナが小さく吐息を漏らす。
「今度こそ本当に大丈夫なの! それにあの子はもうお片付けしちゃったから、もういないよ。安心していいよ」
そう言って浮かべるのは子供らしい無邪気な笑顔。恐らくは大半の大人が釣られて顔を綻ばすであろう極上の笑顔を前に、リュートは自らの警戒心が解けていくのを感じた。
(でも、お片付け? ―――ああ、逃がしたってことか?)
独特な言い回しに違和感を覚えながらも、リュートはエレナがここに来た要件を問う。
「うんとね、お腹が空いたんだけど……」
「ああそっか、もう昼メシの時間か。悪い、すぐ準備するわ。何か食べたいものとかあるか――」
「ねえ、リュートって病気なの?」
「話聞けよっ! ほんと自由だなお前は!」
「ぶう。もう、そんな『むかしのはなし』はいいの! ……ねえ、リュートって病気なの?」
抗議の声を受け流し、エレナはどこか不安げな表情を浮かべ聞いてくる。その視線の先にあるのは、リュートが手にしている注射器だ。
――さてどう答えたものか。リュートは悩んだ。
リュートが今打とうとしていた注射器には「リジェリン」と呼ばれる薬剤が入っている。
この薬には、人体の細胞に作用することで、その機能を活性化させる効果があった。
リュートの右腕は義手だが、パっと見には本物と見分けがつかない。これは義手を包む皮膚に生きた細胞が使われているからだ。
人工的に培養された細胞であるMan-Made-cell、通称『MM細胞』が、特殊セラミック製の骨格の周りに筋肉と皮膚を形成し、生身の人間と同じように息づいている。
DANSの応用技術として、脳からの指示を特殊な電気信号に変換して直接伝達させることを可能としており、非常にリアルでスムーズな動きを実現する。より優れた義手になると痛みや触感すらも完璧に再現されるというのだから、バイオニクスの長足の進歩には目を見張るものがあった。
もちろん通常の義手に比べて非常に高価であり、一般市民が簡単に手に入れられる代物ではない。リュートがつけている義手も親方が大金を叩いて買い与えてくれたものだ。
決して裕福とは言えないホームでの生活の中、数年分の給料にも値する義手を笑顔で買い与えてくれた親方の優しさに、リュートは涙が止まらなかった。
失った右手を取り戻したことよりも、親方が示してくれた愛情が嬉しかった。
実の父親が与えてくれなかったものを、初めて与えられた気がした。
実の父親につけられた左肩の火傷痕。育ての親から与えられた作り物の右腕。
リュートは不自由な右腕にこそ、より強い愛着を感じている。
ただ、そんな高価な義手も万能というわけではない。人工的に作られたMM細胞は活力自体が弱く、放っておくと細胞分裂の頻度が減っていってしまう。
細胞とは常に新しく変わっていくものであり、その力を失えばすぐに瑞々しさを失い、老い始める。老いた部分は黒く変色し、時間と共に広がっていき、やがて腐り始める。
そのためリュートは一日に二回、義手に細胞活性剤である『リジェリン』を注入しなくてはならない。
不便ではあるが、リュートは不満を感じたことはない。なによりも大切な右腕の管理だ。慣れてしまえば生き物が食事を取っている行為となんら変わらない。
こういった内容をエレナに説明しても理解してくれるだろうか―――
そう思い悩んでいると、何の前触れもなく部屋のドアが開け放たれた。
「おい、リュート、話があるからわざわざ来てやったゾ」
「まったく感謝しやがれですよう」
ノックも無く、無遠慮に開け放たれた扉を見てリュートは項垂れる。
まったくうちの女どもはプライバシーというものをどう考えているのか。男だってそれなりの年齢になれば、部屋に入って来られたら困るタイミングというのが色々とあるのだ。それが何かと問われれば……それはもう色々、としか答えられないが。
「あれ? エレナもいたのカ?」
「末弟君? 姉の監視の目が無いからって、手を出したりしたら駄目ですよ?」
にやにやと笑うジルへ苦笑いしながら「あのなあ」と答える。
「手を出すもなにも、エレナはまだ十歳だぞ? 弟を犯罪者にでもするつもりかよ?」
半ば呆れながらそう答えると「まあ、分かっているならいいですけど」といやらしく笑う。エレナは自分に関連した話題だとは分かっているようだが、その意味までは理解出来ないらしく、二人に挟まれながら不思議そうに顔をきょろきょろと動かしていた。
「で? 話ってなんだよ?」
「いやせっかくだからサ。エレナの歓迎パーティでも開こうかと思ってサ」
「はあ? 歓迎パーティ?」
「ん? なんだヨ? 反対なのかヨ?」
「いや、反対っていうか――」
どうなんだろうな、とリュートは思う。
パーティをすること自体に反対なわけではないが、エレナはいつまでここにいるのか分からない存在だ。記憶が戻り所在が判明すれば、すぐにでも送り届けなくてはいけない。
記憶がどういった形で戻るのかは分からないが、少なくともいつまでも一緒にいることは無い。一時保護しているだけのエレナに対して、歓迎するというのは正しいことなのだろうか。
きょとんと見上げてくるエレナの顔をじっと見つめ返す。
深く透き通る翡翠色の双眸。揺れる虹彩からは感情が上手く読み取れなかったが、自分の居場所に関する話題だと察してはいるのかもしれない。リュートにはその瞳が不安と寂しさで曇っているように感じられた。
「……まあいいんじゃねえの?」
リュートが溜息混じりにそう答えた瞬間、サクミとジルの瞳が怪しく光った。
我が意を得たり、とばかりに破顔する義姉達の顔を見て、リュートは自らの発言が失言であったことを悟る。
しかしもう既に手遅れで。サクミとジルは口端を吊り上げたまま、まるで示し合わせたかのような見事なユニゾンでリュートへと手の平を差し出した。
『じゃあ、買出しと準備、全部よろしく!』
「はあああああああ!? なんっじゃそりゃあ!」
「ホラヨ、ここに買出すモン書いといたからよろしく頼むワ」
「せっかくのパーティなんですから、とっておきのスイーツをお願いしますねえ」
二人の欲望がびっしりと書き綴られた紙のメモに目をやり、リュートはようやく悟る。
「さてはお前ら! 最初からそれが目的だろ!」
要は歓迎パーティという名目でドンチャン騒ぎをしたいだけなのだ。
「だいたい、なんで俺が! 言い出しっぺの二人のどっちかが行けば良いだろーが!」
リュートがそう声を荒げた瞬間、サクミの目がすっと細められた。瞳の奥に湛えられた冷やかな光に射抜かれ、反射的にリュートは身体を引いてしまう。
「……なあジル、なんか最近コイツ、ちょっと生意気だとは思わねエ?」
「ですねえ。可愛い女の子が来て、気でも大きくなってるんですかねえ」
サクミは大きな胸いっぱいに空気を吸い込み、
「童貞の分際で! お姉様に逆らってんじゃねエエエエエエエエ!!」
「お、横暴だ! だいたい童貞は関係ないだろ!」
「おおアリだヨ童貞馬鹿! 悔しかったら童貞をキレイサッパリ卒業して一人前になってみせロ! いつまで倉庫であの機体を眠らせとくつもりだヨ!」
「仕方ねえだろ! 俺は童貞を卒業したくても卒業出来ねえんだよ!」
「出ましたね! 得意の言い訳が! そんなことばっかり言ってるからいつまで経っても童貞なんですよ! まったく童貞の殿堂入りでも目指してるんですかね、この童貞は!」
「なんだとおおお!?」
姉二人からの童貞連呼。リュートは顔を真っ赤に染めて必死に反論する。
口喧嘩では勝ち目がないにしても、ここは男として引き下がってはいけない場面だと覚悟を決める。
そんな中―――
「ねえ、どうてい、ってなに?」
少女の純粋無垢な心から発せられたひとことが、室内の喧騒を一瞬で鎮静化させた。
「………………え?」
問われたことを理解出来ないのか(もしくは理解したくないのか)、リュートはぽかんとした表情をエレナへと向ける。
「だからあ、どうてい、ってなんなのよう」
会話に入れなかったことが不満なのか、エレナは頬を膨らませながら言った。
「あー、それはだナ……えーと、あれダヨ……なあジル?」
「えっと、そうですね……大人になりたくても大人になりきれない男子特有の……まあ病気みたいなものです」
「病気いうな!」
リュートの抗議を無視して、エレナはふんふんと形の良い顎を上下させる。
「そっか……やっぱりリュートお兄ちゃんは病気なんだね!」
言葉の意味を理解出来たことが嬉しいのか、どこか満足そうな表情を浮かべる。
「さっきの注射も、そのどうていって病気と関係あるんでしょ?」
「え、えーと……?」
義手になったことと、空戦機に乗れなくなったこと――、
確かにその二つは全くの無関係というわけではない。
だから関係あるのかと聞かれれば答えは「YES」となる。
「うん。まあ、そうかな……」
微妙な表情ながらも首を縦に振ったリュートを見て、エレナが大きく瞳を輝かせた。
「そっか! じゃあ私にまかせて!」
「…………は?」
なにがどうなって「私に任せて」になったのか。会話の流れが全く分からない。子供の思考とは実に不可解なものだ。
リュートが説明を求めようと口を開きかけた瞬間、エレナが唐突にリュートへと飛びついてきた。
「えいっ」
「おわあ!?」
そしてそのまま押し倒されるような格好でソファに仰向けにされる。すかざす馬乗りの体勢でマウントを取ったエレナがにんまりとした笑顔を浮かべる。
「病気なら私にまかせて!」
そう宣言するやいなや、リュートの着ているTシャツをまくり上げようとする。
「うおお!? い、いきなり何すんだお前は!?」
「なによう、まずは診察からでしょう! 大人しくお腹を見せなさい!」
エレナにひん剥かれそうになりながら、リュートは自らの子供時代を回想していた。
――そうだった。俺の知っているエレナもそうだった。
俺が怪我をするとすぐに「私が治してあげるから!」なんて強引に迫ってきたっけ? エレナとしては本心から心配していたんだろうが、今思い返してみればあれはお医者さんごっこの延長でしかなかった。まさかコイツも―――?
瞬間、背筋を悪寒が走った。
「い、いいって!」
突き指しただけなのに包帯をきつくまかれ過ぎてむしろ悪化したことや、擦りむいた膝に消毒液を大量にぶっかけられて悶え苦しんだこと。
その他諸々の悲劇を思い返しながら、割と本気で遠慮する。
従おうとしないリュートに業を煮やしたのか、やがてエレナは全体重を使って抑え込もうとするように身体を密着させてきた。薄い胸板が押し付け得られ、鼻が触れ合わんばかりに近づけられる。
想像よりもずっと軽い体重を感じながら、逃げようとする意志とは裏腹に、身体は硬直したように動かなくなっていく。
「安心して――」
耳元でエレナが囁いた。翡翠色の瞳がまっすぐにリュートへと向けられ、リュートはエレナの大きな瞳越しに自分の顔を見る。
「私が、リュートのどうていを、なおしてあげるから――」
室内に満ちたのは、一瞬の静寂。
そして、次の瞬間沸き起こったのは――――爆笑だった。
今まで黙ってなりゆきを見守っていたサクミとジルが堪えきれなくなったように吹き出し、身体を折るようにして笑い声をあげていた。
「あはははっ! 良かったなあリュート! エレナがお相手してくれるってサ!」
「これでそっちの童貞は卒業じゃねーですかあ! こんな可愛い子相手に卒業なんてついてるですね! いひひひひひひ!」
「こりゃリュートの卒業祝いパーティも同時開催だナ! 赤飯炊こうゼ、赤飯!」
「ちょ、ちょっと無理! 駄目だ。笑い過ぎてお腹がイタいですう――!」
義姉二人の馬鹿笑いが狭い室内に響き渡る。響いて、響いて、響き続けて―――
――そして。
「ははははは……って、アレ?」
「ん? おや? なんか……」
二人してようやく自分達を取り巻く空気が妙なことに気が付く。すぐにリュートから返ってくると思っていた反論が無い。
それどころかリュートはじっとエレナと見つめ合っていて。
固まっていて。
……その頬はうっすらと朱に染まっていて―――
『ちょっと待てえええええええええええええええええええええええ!?』
本日一番の大音量をもって姉二人の愕然とした叫び声が響き渡った。
「リュートおおおおおお!? お、お前、なんだその反応は!」
「いやいやいやいや! それはまずいですよ!? ロ、ロリ……マジで末弟君そうだったんですか!?」
「ち、違っ! 誤解だ!」
姉二人からの疑惑に、ようやく我に返ったリュートがエレナの下から慌てて這い出た。
「いやあ、うすうす感じてはいたんですよお! 末弟君はどこか陰で鬱な一面があるから、他人に言えないような性癖を持っているんじゃないかとは!」
「ど、どうりでナ! 私が普段から下着姿でうろついてヤってんのに、夜這いのひとつもかけて来ねえからオカシイとは思ってたんだヨ!」
「だから誤解だって! つーか、サクミはやっぱりわざとやってたのかよ!」
ドン引きの姉達へ必死になって弁明する。
リュートとしてもこれは看過出来ない。僅かに残っている自尊心を守るため、なんとしてもこの誤解だけは解いておきたかった。
自分は至ってノーマルだ。決して年下好きだとか、そんなことはないはずだ。
しかし、幼い頃エレナという少女に恋心を抱いていたのも紛れもない事実なのだ。
その時の想いは運命の残酷さによって断ち切られ、未消化のまま胸の奥底にわだかまっている。そんな初恋の相手と全く同じ顔で、同じ声で、あんなことを言われたら。
――どう反応して良いか混乱してしまうのも仕方がないじゃないかっ!
リュートは自分に対してもそう必死に言い訳をする。
繰り広げられる喧騒の中、エレナ一人だけが取り残されたような表情でソファに腰掛けていた。
またも始まった理解出来ない会話を前に、つまらなそうに足をぶらつかせる。
「……お腹すいたなあ」
我関せずを決め込んだエレナは、窓の外をぼんやりと見上げると、可愛く鳴るお腹の音を誤魔化すようにゆっくりとさすっていた。




