少女とダルマ
「待ってよう! お兄ちゃん!」
一点の濁りも無い蒼天の下を、少女の無邪気な笑い声が流れていく。
「こ、こっち来るなあああああああ!」
少女の前方にはリュートの姿。穏やかな陽気には似つかわしくない必死の形相を浮かべ、追ってくる少女から逃げ惑っている。
エレナと名乗った少女は、翌日にはベッドから自力で下りられるようになった。
元来が人懐っこい性格なのか、エレナはリュート達に対して必要以上に警戒することも無く、繰り返される質問にも根気よく答えてくれた。
しかし、墜落した巨大空戦機についてはやはり何も覚えておらず、それどころか自分が空戦機に乗っていたという事実に驚いてさえいた。
さらには、住んでいた村の場所、名前、そして自らの両親に関すること―――
それらの問いにすらも、困惑するように「思い出せない」と告げる。
眉根を寄せる少女の姿は嘘を言っているようには見えず、「やはり墜落時のショックで断片的な記憶の欠如が起きているのではないか」とジルは言った。
「昨日はね、普通におうちでご飯食べて寝たの。で、起きたらもうここに居たんだよ?」
エレナの中の時系列としては、そうなっているらしい。
結局、その後も有益な情報は何も得られず、話し合いの結果、とりあえずは少しの間この家に置いて様子を見ようということになった。
今、二人が走っているのは母屋の裏手に広がる中庭。
まともな手入れもされず荒れ放題となっている庭は、境界を曖昧にしたまま周囲の原生林へと続いている。
雑草を踏みならしながら二人でぐるぐると駆けまわっている光景は、年の離れた兄妹が戯れているようで一見微笑ましい。
しかし、エレナが無邪気に笑い声をあげているのに対して、リュートが浮かべる表情は、まるで捕まったら殺されると言わんばかりの必死さだ。
そんなやりとりを遠く離れた場所から眺めているのは、義姉の二人。
「……なア、どう思う?」
工房の中に設けられた休憩スペース。クッションのへたった安物のソファに二人並んで腰掛けながら、サクミは背もたれに胸を乗せるような恰好で窓越しに二人の追いかけっこを眺め、ジルはテーブルの上に置かれたドーナツの山をマイペースに処理していた。
頬張っていたドーナツをコーヒーで喉の奥へと流し込み、ジルが先の質問に答える。
「どうって……エレナのことですか? 腑に落ちない点はいくつかありますけど、まあ元気になって良かったですよ」
「なんか分かったかヨ?」
「いいえ、何も。あれだけ目立つ容姿をしているんだから何かしら検索にヒットしても良いと思うんですけど、サッパリですね」
「そっか……」
「にしても、記憶が欠落しているのというのに、よくあんなに落ち着いていられますよねえ。あまり深く物事を考えない性格なんでしょうか?」
「……でも、良い子だよナ」
「ええ、良い子ですね」
防音効果の薄い工房の壁越しに、庭を駆けまわる二人の声が聞こえてくる。悲鳴と笑い声。相反する声色でありながら、どちらも心なしか楽しそうだ。
「……なア、どう思う?」
先程と一言一句変わらない問いかけに、ジルは眉を顰めた。しばらく考え込むように目を瞑った後、ややあってから、ぱんっと両手を打つ。
「ああ、この機体のことですね」
視線は外に固定したままサクミは頷いた。
今、二人の目の前には回収してきた巨大な鋼鉄の塊が駐機してあった。エレナと名乗った少女が乗っていた機体。無駄に広かったはずの工房内も、目の前の機体があまりにも巨大であるためにどこか窮屈に感じられる。
「一体コイツはなんなんでしょうねえ。中は見たこともないような構造でいっぱいですよ。というか、この形状でよく空を飛べますよねえ」
正式名称すらも分からないため、とりあえず二人はこの機体を『ダルマ』と呼称することにした。
サクミの生まれ故郷である極東で作られている偶像で、この機体とよく似た形状をしているのだという。
ダルマの外観は非常にシンプルだ。胴体部から翼と砲塔が突き出ているだけで、あとはほぼ完璧な球体をしている。唯一の例外は球体の最上面で、そこだけカットされたかのように平らになっており、小型の空戦機であれば離着陸すら可能なほどのスペースを形成している。
全体を地味な灰白色で統一された機体は、空戦機というよりも深海を調査するための海洋探査艇と言われた方がよほどしっくりと来る。
「実はですね、昨夜ダルマの全体をスキャンしてみたんですけど……って、聞いてます?」
「んあ?」
どこかはっきりとしない返事。サクミらしくない反応にジルが溜息を吐く。
「はあ……、そんなに外が気になるんですか?」
ジルの言葉を受け、サクミがようやく窓硝子から顔を離した。
「は、はあ? そんなことねえヨ!」
「別にいいですけどね。まあ、とにかくこれを見てください」
ジルから分厚い紙の束を押し付けられ、サクミは渋々それを受け取る。
「なんだぁ、こりゃあ?」
「ダルマのスキャン結果です。よく分からない部分は私の推測で埋めてあります」
「ふーん」
さして興味も無さそうに紙をめくっていたが、不意にその手がピタリと止まった。
「ん? ……いや、これっておかしくないカ?」
「あ、やっぱり気が付きました? そうなんです。この機体はおかしいんですよ。もはや空を飛ぶとか以前の問題ですよ」
「……確かにナ。こりゃあ、一体どうなってるんだ?」
「分かりません。そもそも、この機体には無いんですよ。絶対にあるはずの――」
ジルがそう口にした時だった。
「助けてくれえええええええええええ!」
そんな絶叫を上げながら工房内へと駆けこんできたのはリュートだ。そして、息を切らせながらサクミ達の座るソファの影に身を隠そうとする。
眉根を寄せる姉二人のもとへ、少し遅れてからエレナがトテトテと駆け寄って来た。
その身に着ているのはジルのおさがりである白のシャツと水色のフレアスカート。一見してシンプルな恰好だが、派手な容姿をしたエレナが着ると妙に様になって見える。
「もう、お兄ちゃんってば、なんで逃げるの?」
「当たり前だろ! それをどうにかしろ! その手に持っているそれを!」
「これ?」
にこやかな笑みを浮かべ、エレナが手を突き出した。その手で掴んでいるのは。
わしゃわしゃと忙しなく足を動かしている……大きく黒光りした甲虫。
「きいいいいやああああああああ――!」
「うるせエ!」
迸った絶叫を遮り、サクミの拳がリュートの脳天にめりこんだ。
「うおおおおおおおおおおおおおお!?」
頭頂部を押さえて床を転がるリュートに、サクミが呆れかえった視線をなげかける。
「いい年した男が、こんなもんで悲鳴をあげてんじゃねえヨ」
裏手にある林でエレナが捕まえた甲虫で、学名をエルサージマダラオオカブトという。
エレナの顔ほどもある身体に、緑と紫のまだら模様の外郭。突き出た6本の足は不釣り合いなほどに長く、蜘蛛や足の長い蟹を連想させる。
リュートにしてみれば、こんな気色の悪い生き物を前にして、何故みんな平然としていられるのかが分からない。
「何が怖いのかなあ。こんなに可愛いのに」
エレナは本気で理解できないという風に首を傾げると、手にした甲虫を愛し気に眺め、リュートの元へと駆け寄って来た。
「ほら、大人しいよ?」
「やめろおおおおおお! 近づけるなああああああああ!」
凄まじい速さで壁際まで後退していくリュート。
「だからもう、逃げないでってばあ」
「お、お前! 絶対に面白がってやってるだろ!」
「うふふ、リュ―君も虫が怖くてね。いつもこうやって逃げ回ってたんだよ?」
「ああ! そういえばそうだったな! ちくしょう!」
目尻に涙すら浮かべリュートは恨めし気にエレナを睨む。
「……へ? なんで知ってるの?」
「え? あ……いや、なんでもねえよっ」
きょとんとした表情を浮かべるエレナを見て、リュートは自分の失言を恥じた。
目の前の少女がリュートの知っているエレナであるはずが無い。論理的に考えてもそれはありえない。例え名前が一緒であろうと、彼女にリュー君と呼ばれる幼馴染の男の子がいるのだとしても、それはありえないのだ。
計算するのも馬鹿らしくなるような奇跡的な確率で一致しただけの単なる偶然に過ぎない。
リュートも頭ではそれを理解している。
理解している……つもりなのだが。
目の前の少女が上げる笑い声が、細められる瞳が、そして何より花が咲き誇るような愛らしい笑顔が、どうしても記憶に残っている幼馴染の顔と重なってしまう。
姉達にはそのことを伝えていない。話したところで今度は自分の頭を疑われるのがオチだ。
「ほらほらあ、可愛いよう?」
「可愛くない! 頼むから! それをどっかへやってくれ!」
「ぶう。……まあでも、そんなに嫌なら仕方ないかなあ。お片付けしちゃおっかな」
「お、お片付け? まあ、良く分からんが、そいつをどこかにやってくれるなら、もうなんだっていい! さっさと『お片付け』しちゃってくれ!」
「はーい――」
エレナの瞳が黒光りする甲虫へと注がれる。そのまま甲虫を手放す――のかと思いきや、何故かじっと手元を睨んだまま動かない。
しばし考え込むかのように眉間に皺を刻んでそのまま数秒間。
そして唐突に――――
にんまりと笑った。
「やっぱ…………やーめた」
「は?」
ペト。
伸ばされたエレナの手。リュートの視界を覆ったのは甲虫のグロテスクな腹面だった。
「ぎいいいいいいいいいいやあああああああああああああああああああ――――!」
「あははははははは!」
顔面に甲虫を張り付けたまま工房の外へと逃げていくリュートを、エレナの喜々とした声が追いかけていく。
「……まったく、何をやってんでしょうね」
去っていく二人を見送りながらジルがぼやく。しかし、同意を求めたはずの長女は、消えた二人の姿を追うかのようにまた窓の外へと視線を移してしまっていた。
(やれやれ……元に戻っちまいましたよ……)
大きく溜息を吐く。冷め切ってしまったコーヒーでも入れ直して来ようと腰を持ち上げかけると、唐突にサクミが呟いた。
「……なア、どう思う?」
独り言にも思えるような小さな呟き。
三度同じ質問を受けて、ジルの眉間に深い皺が刻まれる。腕を組んで暫く考え込むが、答えは出ない。やがて降参だとでもいうようにジルは手の平をサクミに向けた。
「えっと、ごめんなさい。分からないです。何の話ですか?」
サクミは答えない。その代わりにポツリと呟く。
「……アイツ、あんな風に笑えたんだナ」
窓の外へと向けられている表情は、どこか拗ねているようにも見えた。




