邂逅
■ ■ ■
リュートはシミュレーターのスイッチを切り、HMDを外す。
ずいぶんと長い時間没頭していた気がする。表示されている時刻を見ると夜の11時を過ぎていた。
さすがにやり過ぎだ。これではジャンキー扱いされても仕方が無いなと自嘲的に笑う。
リュートは本当の空を飛ぶことが出来ない。
幼い頃にエレナと交わした約束。パイロットになるという夢。それは挑戦することすら出来ずに終わってしまった。
あの時二人で見上げた空戦機はどこまで飛んでいったのだろうか……。
時折そんなことを考える。空軍基地か、補給所か、それともやはり戦場なのか。
戦争は未だに続いている。リュートが住んでいるナスル皇国と、対立するアゼイル共和国。
互いの戦力は今や完全に拮抗しており、一進一退の攻防がもう5年以上も続いている。
大規模な戦闘も少なくなり、戦場は互いの技術力を競うための展示場と化している。
片方が新しい空戦機を開発すれば、すかさずもう片方が対抗して新型機を開発する。片方が画期的な兵器を作りあげれば、もう片方がすぐにその対抗策を確立させる。
そんなイタチごっこを繰り返しながら、戦いのための技術だけが歪に進歩し続けている。その進歩の先に何があるのか、リュートには分からない。恐らくはきっと当事者達にも。
(まあ、そうやって空戦機の技術が進歩するから、うちらも食っていけるんだけどな……)
空戦機の技術は民間に流れ、爆発的に広まった。戦闘用に開発されたDANSは、形を変えながらも医療やVAR技術に転用され。垂直離陸技術の発展が滑走路を無用のものとし、騒音やソニックブームの問題も時間と共に解決された。
空を行き交う空戦機の数が増えることで、それを整備する側の需要も高まっていく。ある意味で戦争に生かされているという事実に、息苦しさにも似たやるせなさを覚える。
リュートが身体を起こし、ゆっくりとFTSから這い出ようとした時だった。
「何処にも居ないと思ったら……ったく、まーだやってたのかヨ」
背中越しに聞こえてくる長女の呆れたような声。「ああ、もう寝るよ」と訓練室の入り口に居るであろう姉へ振り返ろうとして――リュートはその場で固まった。
「な、なんて恰好してるんだよっ!」
サクミは半裸だった。正確には下着しか身に着けていなかった。
セクシーな形状をした純白レースの下着が褐色の柔肌に食い込んでいる。申し訳程度に胸を隠しているブラはひょっとしたらサイズが合っていないのか、豊かな乳房をきつく締め付けており、先端部分が今にも零れ落ちそうだ。
「んあ?」
サクミはリュートが何を狼狽しているのか分からないといった様子で、自分の恰好を見下ろし、そしてにんまりとした笑みを浮かべた。
「おやおやぁ? なになに、リュートってば姉ちゃんの下着姿で欲情しちゃってんノ?」
「ば、馬鹿! 何言ってんだよ!」
「ほれほれ、見たかったら遠慮なく見ていいんだゾ?」
にじり寄ってくるサクミから目を逸らすように背を向ける。
聞こえてくる足音でサクミがすぐ傍まで来たことを知ると、同時につんと鼻をつく匂いがあった。アルコールだ。
「サクミ、なんか妙だと思ったらまた酔ってんだろ!」
「あん? そりゃ酔ってるヨ? 酔ってたら何かいけないんですかア?」
頬をほんのりと染めたまま、サクミがしなだれかかってくる。背中に押し付けられる柔らかい二つの感触を感じた瞬間、全身の血が沸騰しそうになった。
「うわあああああああああ!」
慌てて飛びのくリュートを見て、不満そうに頬を膨らませ子供みたいに口を尖らせる。
「なんだヨ? そんなに嫌がらなくたっていいじゃんかヨ?」
「まったく! その酒癖の悪さどうにかしろよな!」
「いいじゃんかカヨ! 一日めいっぱい働いて最後は酒で締めくくる! これが私の人生の楽しみ方なんだヨ!」
「胸を張るな! 色々と見えそうでヤバイから!」
リュートは両手で顔を覆いながらも、姉の痴態を指の間からコッソリ眺めてしまう。
サクミとジル、義姉の二人とも親方の下で出会った。
つまりこの二人も少なからずリュートと似たような境遇を経験している。一度家族を失い、親方に拾われた。
なのに何故こうも自分と違うのだろうと、リュートは不思議に思う。
義姉二人はいつもやりたい放題で、自らの感情に正直で、そして――楽しそうだ。
サクミはこの大陸の出身ではない。艶やかな黒髪と黒目は極東にある小さな島国の生まれであることの証だ。家族で旅行中に乗っていた旅客機が墜落し両親を失った。
奇跡的に生き残ったサクミは宛てもなく放浪している時に親方に拾われた。サクミの話す言葉が少し片言なのも母国語の癖が抜けきらないためらしい。
サクミは親を亡くし、リュートは親に捨てられた。
家族を失った哀しみは同じでも、やはり何かが違うのかもしれない。それとも違うのは本人の資質で、問題があるのはやはり自分なのだろうか。
そうかもしれない、と思う。
親に捨てられるような人間だ。問題が無いはずがない。
「――だとしてもその恰好は無いけどなっ」
「なんだヨ。これが楽なんだヨ。自分の家で楽な恰好して何が悪いんだヨ。ああん!?」
不良がいちゃもんをつけるのと大差無い仕草でサクミが睨みつけてくる。
「だいたいなあ、さっきから姉ちゃんに向かって生意気だゾ! お前だって本当は、美人な姉ちゃんのこんな姿が毎日見れてラッキーだって思ってんダロ?」
「ん、んんんんなわけあるか!」
「お、どもったな」
「どどどどどど、どもってねえし!」
にやりと笑みを浮かべると、サクミはスススと音も無く近寄って来た。達人のような無駄の無い動きに為す術もなく、一瞬で間合いに入り込まれたリュートの首にサクミの細くしなやかな腕が絡められる。いきなり過ぎる展開に固まっているリュートの耳元へ顔を寄せ、呟く。
「なあ、ジルは買出しに行って今夜は帰ってこないし……一緒に寝てやろうカ?」
吐息混じりの囁き声が耳たぶをくすぐると、全身が粟立った。
「な、な、な――」
リュートの目の前、鼻が触れ合いそうな距離に怪しく細められた瞳があった。顔が近い。脳が逃げろと緊急勧告を発しているのに、眼を逸らすことが出来ない。
やがて柔らかそうな唇が小さく開かれ、
そして。
――堪え切れなくなったように吹き出した。
唖然としているリュートの前でケケケと笑うと、静かにそっと離れていく。
「まあ、弟をからかって気が晴れたからソロソロ退散するヨ。お前も早く寝ろヨ?」
それだけを言うと背中を向け、さっさと部屋から出て行ってしまう。
一人その場に残されたリュートは全身の力が抜け落ちていくのを感じた。動悸が激しい。変な汗が出た。ほっとしたのか、残念に感じているのか、自分の感情がよく分からない。
「……まったく、何しに来たんだ?」
リュートは一人そう呟いて、直後、その問いの答えに思い至る。
『どこにも居ないと思ったら――』
サクミはそう言っていた。つまり自分を探していたのだ。きっと心配してくれたのだろう。なんだかんだ言って、面倒見の良い姉達なのである。
リュートは自分の髪をがりがりと掻きながら訓練ルームから出た。
母屋へと続く廊下へと踏み出した瞬間、ノイズにも似た雨音が周囲に満ちていることに気付く。訓練ルームに居る間は空調の音が激しくて気が付かなかった。
いつのまにか降り出していた雨は激しく、カタカタと揺れる硝子窓の向こうにはぼんやりと霞むような濁った闇が広がっていた。
ずいぶんと久しぶりに親のことを思い出したせいなのか、不意に寂寥感が胸を満たす。
自分の意志とは無関係に離れることになって以来、故郷の村へは一度も帰っていない。当たり前だ。自分は捨てられたのだ。帰れるはずが無い。だから考えないようにしてきた。
だが、それでも懐かしく感じることはある。故郷は今どうなっているのだろう。
……エレナは元気でやっているだろうか。
その時だった。窓越しに見える漆黒の空にぽっと光が灯った。
(なんだ、あれ?)
闇に凝らす視界の中に、白く発光しながら夜空を飛んでいく『何か』が映り込む。
(……軍の哨戒機か何かか? こんな悪天候の中で飛行するなんてよっぽどのことだぞ)
リュートは何か不穏なものを感じながら、その発光体を目で追い、そしてすぐになにか異常事態が起きていることを悟る。
発光体はゆっくりと下降しているのに速度を落とす気配すら無く、むしろ噴射炎を吐き出しながら加速を続けている。機首を上げる素振りも見えない。
(このままじゃ墜落するぞ!)
そして、リュートの懸念はすぐに現実となった。
夜空を斜めに切り裂くように飛ぶ物体は、そのまま宵闇よりも昏い森の中へと消え――次の瞬間、凄まじい爆音と衝撃が大気を駆け抜け、窓枠がビリビリと振動する。
(マジで落ちやがった!)
反射的に母屋に続く扉へと視線を移すが、すでに寝てしまったのか、それとも酔いつぶれてしまったのか、サクミが出てくる様子は無い。
墜落したポイントに要救助者が居るなら一刻を争う。リュートは外へと飛び出した。
雨で視界が悪い中を、舌打ちとともに発行体が落ちていった森の中へと駆けていく。
リュートは記憶だけを頼りに方角を決め、森の中を進んだ。ぬかるんだ地面は滑りやすく何度も足を取られそうになるが、なんとかバランスを取りながら木々の間を抜ける。
そして暫く駆け続けると――唐突に森が終わった。
つい先刻までは存在していたはずの木々が地面ごと消失していた。
墜落の衝撃で大地は大きくえぐられ巨大なクレーターとなっている。至る所で小さな炎がチロチロと上がっていたが、この勢いの雨が続ければすぐに鎮火されるだろう。
リュートは雨で濁る視界へと目を凝らす。クレーターの中心。そこには巨大な機械の塊としか表現できないものが、その身を土に埋もれさせていた。
(これは……空戦機、なのか?)
リュートが見たことの無い機体だった
球体に近い胴体は異様なまでに大きく、一見しただけで平均的な空戦機のゆうに数倍はある。丸みを帯びた側面に沿うような形で短い翼らしきものがついており、背面と思しき場所にはジェットエンジンにも似た形状の噴出ノズルがついている。前面には砲塔らしき筒状のものが複数突き出していた。
それらの特徴を踏まえれば戦闘機のようにも思える。ただ、リュートが培ってきたどの知識ともかけ離れた存在だった。
球状の胴体は空気力学的に考えても速度を出すのに適しているようには思えないし、胴体に対して異様に小さい主翼では、飛行に足る揚力を得られるとは到底思えない。
だがこの機体が空を飛んでいたところをリュートは目撃した。正確には墜落する瞬間を見ただけだが、その軌道から考えてもある程度の距離は自身で飛行してきたと考えるのが妥当だろう。
リュートはクレーターの斜面を滑り降り、警戒しながらその機体に近づいて行った。
近づくにつれて驚愕の度合いも大きくなっていく。クレーターを作った衝撃の大きさから考えてもかなりの速度で墜落したことは明らかだ。にもかかわらず、この機体は裂傷がいくつかついてるだけで、ほぼ原型を保っている。理解し難い頑丈さだ。
リュートは機体に爆発する予兆等が無いことを確認してから、主翼脇にあるハッチらしき部分に取りつき、レバーを力任せに回した。
「誰かいませんか!」
扉を開けた先は通路になっていて、顔だけで覗き込み声かける。返事は無い。
(こりゃあ……すでに手遅れかもな)
絶望的な気持ちになりながら中へと侵入する、空戦機の中に通路が存在するという時点で不思議な感覚だったが、とりあえず勘を頼りに足を進める。
通路の先には扉がついていて、開けた先は小さなドーム状の部屋となっていた。
壁面に並ぶのは見たことも無い計器類、それに丸みを帯びた巨大な防風硝子。整備士としての直感が、この場所がこの機体を操るためのコクピットであることを告げてくる。
部屋の中央には大人一人が腰掛けられるぐらいの大きさのシートがあった。リュートの立っている入り口からは背もたれしか見えず、そこに人がいるのかは判別出来ない。
――もし生存者がいるならそこに座っているはず。
リュートは背後からそのシートへ手をかけ、ある種の覚悟を持って覗き込んだ。
――そして息を飲む。
そこには、純白の衣服に身を包んだ少女が横たわっていた。
腰の辺りまで伸びた艶やかな金色の髪はシートに沿って広がり、その幼い顔立ちは作り物のように整っている。胸部が僅かに上下しているところを見ると息はあるようだ。
しかし、リュートの視線は少女の顔に張り付いたまま動かなかった。
信じられないものを見るかのように、その瞳は大きく見開かれ驚愕に揺れている。
震える指先が少女の頬に触れ、そっと、その輪郭をなでた。
「……エレ、ナ……?」




