この空をどこまでも
「――もう行くのかヨ」
どこか不満そうな声に頷いて返すと、我が親愛なる長女は唇をさらに尖らせた。
普段は傍若無人という言葉がこの上なく似あう姉であるのに、時折見せるこういった表情は妙に子供っぽくて、自然に口元が綻んでしまう。
工房脇にある離発着エリア。振り返れば、そこには慣れ親しんだ愛機の姿。
見上げる蒼穹に雲は少なく、これからの道程を指し示すかのように、陽光が遥か彼方までを明るく照らしてくれている。出発の日としては申し分の無い天候だ。
俺は―――今日、慣れ親しんだこの場所から旅立つ。
「なア……、用が済んだらすぐに帰って来るんだロ?」
まるで捨てられた子犬のよう。恐らくは本気で心配しているのであろう姉には悪いが、どうしても苦笑せずにはいられない。
「さあ、どうしようかな」
そう答えると、目の前の表情が面白い程に固まった。
「ななななんでだヨ! すぐに戻ってくればいいじゃん! つーかすぐに帰ってこいヨ! なんなら姉ちゃんのデザート一週間分……いや、一ヶ月分くれてやるからサ!」
若干涙目になりながらまくし立てるサクミの姿に、ジルが半眼で呻く。
「ちょっと、あんまりサク姉をからかわないでくださいよ。どうせ後でヤケ酒しながら泣くんですから、機嫌を取る方のワタシの身にもなってください」
途端に顔を真っ赤にしたサクミが「べべべ別にリュートがいなくなったぐらいで泣かねえシ!」とか言って、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。
別にサクミをからかうつもりなんて無かった。
ただ、本当にどうするのかを決めていなかっただけ。
やるべきことを終えた後、俺はどうしたいのだろう。
未だ見知らぬ地を旅して回るのも良いかもしれない。どこかに暫く腰を据えて気ままに生きてみるのも悪くないかもしれない。尊敬する姉二人に仕込まれた技術があれば、日銭を稼ぐ分には困らないはずだ。
もう俺の身体は地に縛り付けられてなどいない。
飛んで行けるところまでは飛んでみて、
そして世界を見るのに飽きたら――
――その時は帰ってくればいい。
降り注ぐ陽光に目を細めながら、愛機の操縦席を見上げる。
この位置からでは見えるはずもないが、後部シートには木製の箱がしっかりと固定されている。その中に収められているのは陶器の壺。さらに中には、幼馴染の遺灰。
変わり果てた姿に物悲しさも感じるが、死ぬことすらも許されなかった彼女がようやく解放されたのだと考えれば、その寂しさも少しは和らぐような気がした。
俺はこれから幼馴染と共に故郷へと帰る。
もうあの場所に懐かしい風景は残っていないだろうけれど、それでもエレナを埋葬するのであれば、俺達が共に時間を過ごした故郷の地にしてあげたかった。
……きっと、彼女がずっとずっと帰りたかった場所だから。
「リュート、ちょっといいですか」
「なんだよ?」
「これも一緒に埋めてあげてください」
そう言ってジルが差し出してきたのはエレナの日記帳だった。色褪せてボロボロになってしまっている表紙、その表面に少女の面影が微かに薫る。
その気配に僅かな想いを馳せながら、俺は静かに頷き、それを受け取った。
――エレナの部屋に忍び込び、この日記を読んでしまったあの日。
書かれている内容に耐えられず、俺は途中で読むのをやめてしまっていた。
しかし、この日記にはまだ続きがあった。
全てが終わってしまった後。幼馴染の面影を求めるように開き、その時に偶然に見つけたもの。呪詛の言葉が延々と続いているページのさらに先には、新たに書き加えられたページがあった。
そこには子供らしい字体で俺達と出会ってからの日々が短く綴られていた。
――私を助けてくれた人達が、暫くここに居ても良いって言ってくれた。少し変わった人達だけど、良い人みたい。なんだか姉弟が出来たみたいで、ちょっと嬉しい。
――リュートにケーキを買ってもらった。こんなに美味しいものを食べたのは初めて!
――ドレスでパーティなんてお姫様みたい! ケーキがいっぱい食べられて嬉しい。だけど、意地悪なお兄ちゃんがリュートをいじめたの。もう許せない! だから私がやっつけてやった! こんな私でも誰かを守ることが出来るんだ。とっても嬉しい!
――いつまで皆と一緒にいられるかな。できることなら、ずっとこのまま……。
そんな風に、ともに過ごした日々の記録が一日も欠かされることなく書き綴られていた。
そこには十歳の少女が抱いていた想いがあますことなく残されていて。
想いの種類は色々だったけれど、共通しているのはエレナが俺達との生活を心から楽しんでいたということだった。誰もいなくなったエレナの部屋でこのページを見つけた時、不覚にも俺は嗚咽を抑えることが出来なかった。
そして。最後の最後に書かれていたのは。
――みんな、だいすき。
その横に、後から書き足したように書かれた文字。
――リュート、大好きだよ。
思い付いたまま殴るように書きつけたのか、字体は崩れ僅かに大きい。
その言葉を綴った時、少女がどんな想いであったのか。
その言葉は家族としてのものなのか。それとも――。
それを確かめる術はもうない。
答えは分からないけれど、以来俺はこう思うことがある。
あの日、エレナが俺達の下へとやってきたのは単なる偶然だったのだろうか。
ひょっとしたら違うのではないのか。
アイツは、俺がリュー君だと気付いていたのかもしれない。
もちろん意識して気付いてはいなかったはずだ。しかしイシュムの操縦室で対峙した時、アイツはこうも言っていた。
『この子があれば、私にはリュー君の居る場所がなんとなく分かるんだから』
だとすれば。もしかしたら。アイツは無意識のうちに俺の居る場所を探り当て、ここまで飛んで来たのではないのか。
もしそうなのだとしたら。
俺とエレナが再会したのは偶然ではなく必然ということになる。
俺達は出会うべくして再び出会った。辛過ぎる運命に翻弄されながらも、それでも交わした約束を叶えるために再び巡り合った。そう考えれば、辛いことばかりだったこの道程にも何か意味があったように思えて、なんとなく救われたような気持ちになれた。
――彼女も最後には救われたんじゃないか――
そう考えることが出来た。
まあ、結局は俺の思い込みでしかないのかもしれない。真実はやはり分からず、永遠に闇の中だ。けれど、今はそれでいいと思う。
ここで過ごした短い間、エレナが幸せであったのなら、他に言うべきことはない。
「や、やっぱり、私もついていくゾ!」
突然思いついたようにそんなことを言い出すサクミに、ジルが胡乱な目を向ける。
「ちょっと何言ってるんですか! トラトラはどうするんです! 倉庫の修理に金がかかったせいで、これからまたたっぷり稼がなくちゃいけないんですよ!?」
「ジル、後はお前に任せた。私はもう隠居するワ」
「ワタシ一人で空戦機の整備なんて出来るわけないでしょお!」
ぎゃあぎゃあと言い争う義姉達。そのどさくさに紛れて俺はアルスヴィースへ近づくと、一気にタラップを駆け上がった。
「あ! オイ! まだ話は――」
慌てたような長女の声もキャノピーを閉じるとすぐに聞こえなくなった。風防の強化硝子越しに姉達が叫んでいる姿が見て取れる。
どうせズルズルと別れを惜しむことになるのだ。ならばいっそこうして思い切りよく。
俺は後席に鎮座する桐箱へと視線を投げかけてから、操縦桿へと手をかけた。
再び失った右手には新たな義手。武骨で機械的で駆動部分が丸見えになっている安物の。見た目はだいぶ悪くなってしまったけれど、空戦機を操縦するにはそれほどの不便さも感じない。それなら、なんの問題も無い。
未だ名残惜しそうに手を伸ばしてくる長女と、穏やかに笑っている次女。
この世で最も敬愛する姉二人に風防越しのハンドサインで別れを告げた。
深呼吸とともに身体の力を抜くと、慣れ親しんだパイロットシートが優しく包み込んでくれる。操縦席に以前のような窮屈さはもう感じない。エンジンに灯を入れると心地良い振動がシートを通して伝わって来た。
「さあ、行こうか」
誰に対してでもなくそう口にして、スロットルをゆっくりと引き倒した。翼面に揚力を溜め込み、高音のうねりをあげてアルスヴィースの胴体が地を離れる。
見る見るうちに小さくなっていく愛しいものへの想いを胸に。
眼前に広がっている恒久の蒼への期待を胸に。
俺は操縦桿を握り締める。
きっとこの空はどこまでも広がっている。
そう、どこまでも―――
空を超えて、世界も超えて、時代すらも超えて、どこまでも続いている。
であれば俺とエレナが約束を交わしたあの空へもきっと繋がっている。
人の身でそこまで飛ぶことは出来ないとしても、そうであったら嬉しいと思う。
操縦桿を引き倒し、一気に大空へと舞い上がった。
行く手を遮るものの無い、一片の濁りさえも無い蒼穹。
その中をどこまでも。
どこまでも―――
ふと、少女の幸せそうな笑い声が、風の音に混じって聞こえた気がした。
完
これで完結になります。ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございました!!!
これからも執筆は続けていきますので、また次回作で会えることを楽しみにしています!




