イシュム
「……イシュム」
遅れて出てきたアイオンが呆然と呟く。
燃料を積んでいないはずの機体が、悠然と夜空に浮かび上がっている。
いや、そうではない。燃料は既に積んでいるのだ。
燃料として扱われる――人間を。
そして、この機体を動かす術を知っているのは一人だけだ。
「エレナ!」
リュートが上げた声に反応するかのように、空中で静止していたイシュムが動き始めた。ゆっくりとその場で旋回し、半透明の風防に覆われた機体正面をリュート達へと向ける。
機体全体がぼんやりとした光を帯びていた。月光を受けて―――ではない。月灯りとは明らかに色彩を違える暖色の薄光が、機体を包むようにひろがり緩慢な明滅を繰り返していた。
まるで闇夜に浮かび上がるもうひとつの満月のようだ。
『――うふふ、見つけたよお』
イシュムから発せられるノイズ混じりの声。それは聞き慣れた少女のもの。
「お前、何してんだよ!?」
『何って……お片付けだよ? ゴミはね、ちゃんと片づけなくちゃいけないの。ゴミはね、処分して綺麗にしなくちゃいけないの』
「お前、何を言って――」
表情を曇らすリュートの脇を通ってアイオンが前へと進み出ると、響いていたクスクスという含み笑いが、きゃははは、という無邪気な声へと変じた。
『あ、ゴミ、はっけーん!』
「……やはり僕が狙いですか」
歓喜に湧くエレナの声を聞きながらリュートは呆然とした面持ちでイシュムを見上げる。
「こいつがゴミって、処分って……ちょっと待てよ。エレナ、何を言ってんだよ?」
『リュートこそ何を言ってるの? その人から私のことを聞いたんじゃないの? 私が何をされたのか……色々と聞いたんじゃないのかなあ?』
「それは――」
それ以上言葉を続けることが出来ないリュートを空の上から見下ろすエレナ。姿は見えなくても、自分が少女から冷やかに見下されていることを、リュートはひしひしと感じとっていた。
『私は殺されそうになったの。ううん、殺されるよりももっとひどいことをされたの。それなのに私は仕返ししちゃいけないの? 私をゴミのように扱った人たちをゴミって呼んで――』
息を吸う音が夜空に響き。そして、次の瞬間、
『何がいけないってのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』
絶叫が夜空に響き渡った。
大気が震え、闇に沈む木々の梢から夥しい数の鳥たちが飛び去って行く。
殺されるよりもひどいこと―――残響とともにこびりつく言葉を反芻するリュートの耳に、溜息をまとったエレナの声が響いた。
『あーあ、もう家族ごっこもおしまいだね。結構楽しかったんだけどなあ』
子供が欲しかった玩具を諦める時のような気安さで。
嘆息混じりに言葉を重ねる。
『わたしね、サクミ姉ちゃんもジル姉ちゃんも……リュートも、結構好きだったんだよ?』
それでも、そう語る言葉だけは本当に寂しそうに聞こえて。
「じゃあ、今すぐその機体を止めて降りてきてください」
「そうだ。まだおしまいじゃねえゾ。まだまだ一緒にやれることはあんだろーガ」
辺りを満たした静寂はほんの僅か。
それでも四人が共に過ごした短い日々を振り返るには十分で。
次に響いた少女の声はどこか冷たく、感情を押し殺すような警告だった。
『……ねえ、リュート、そこどいてよ』
「駄目だ」
『なんでよ。リュートには関係ないじゃない』
「それでも、駄目だ」
『…………』
「お前、そんな物騒なもん持ち出して一体何をするつもりなんだよ?」
エレナは答えない。答えなくてもリュートは理解している。
「大切な家族が人殺しをしようとしているのを黙って見過ごせる訳ねえだろ!」
家族。エレナがごっこ遊びだと言った言葉を、リュートは切って捨てる。
例えこれまで同じ時間を共有してこなくとも、ひとつ屋根の下で寝食を共にすればそれはもう家族。それが恩人である親方からリュート達姉弟が教わった、ただ唯一の、そして絶対のルールだ。
血の繋がりや出自だけが『家族』たり得る要素ではない。そのことをリュート達姉弟は身を持って知っている。
リュートが言い放った言葉に対し、エレナが息を飲む気配だけが夜の冷えた空気を通して伝わってくる。
やがて月夜に響くように聞こえてきたのは
――――嘲笑だった。
『くくくく――』
なにがそれほどまでに可笑しいのか。その声は徐々に、歪に、大きくなっていく。
『うふ、うふふふひ、あははははははアハハハハはアはあアハハハハハハ――』
狂気すらも感じさせる声。その笑い声は疑いようも無く少女のものであるのに、それでもリュートは、エレナがそんな声を上げているという現実を認めることが出来ない。
ひとしきり笑い、満足げに息をついた後、エレナはぼそりと呟いた。
『……もう遅いよ』
ぞっとするほどに冷たい声。
そして――――それが合図だった。
全天に重厚な稼働音を轟かせながら4門の砲塔がリュート達へと向けられる。
『もういいよ。じゃあね、みんな死んじゃえ』
感情の削ぎ落された無機質な声。
次の瞬間、砲門から眩いばかりの白光が閃いた。
長く伸びた銃身から夜空に閃光が走ったと思った瞬間、リュート達の手前の地面がじゅっという音とともに抉れて消えた。放たれたのは実態を持たない光そのもの。
光学兵器。物語の中でしか見たことのないようなトンデモな武装に、リュート達は呆然と立ち尽くす以外の行動を取れない。
「――逃げるゾ!」
唯一正気を保っていた長女の叱責を受け、ようやくリュート達はその場から駆け出した。
「あああ、あの光はなんですか!? ビーム兵器が実用化されたなんて聞いたことないですよ!? ふざけてます! 滅茶苦茶です! 非科学的ですよ!」
「あれは厳密に言えば光ではありません。エレナさんの生命エネルギー、それを抽出して打ち出しているんです」
「人間一人の生命が、あれほどの熱量を秘めてるっていうんですか?」
ジルは改めてその事実に驚愕する。
航空力学にそぐわない機体を空に浮かし、あれほどの熱量の光線を放つ。確かにこの技術が確立されれば戦況は一変するに違いない。
しかし、それだけに恐ろしかった。こんなものが無尽蔵に生産されでもしたら国同士の争いだけで収まるわけがない。人の命は燃料として際限なく燃やされ続け、その炎は容易く世界を焼くだろう。
人の命をもって人を滅する。まさに地獄と呼ぶべき世界に成り果てる。
逃げ惑うリュート達を追い立てるかのように、イシュムは光を乱射する。地面に穴が穿たれ、道路のアスファルトは溶解し、地形さえもが跡形も無く変わっていく。
『ほらほらあ、逃げてばっかりじゃ、この辺全部燃えちゃうよ? 私の故郷みたいにぜーんぶ消えて無くなっちゃうよ?』
鬼ごっごでも楽しんでいるかのように、きゃはきゃはと笑いながら、イシュムは飛ぶ。
「あいつ、やっぱり記憶が戻って? ―――あの機体のせいか!?」
「いえ、恐らくはそうじゃねえです」
「どういうことだよ!」
「エレナは今日、修理されたイシュムを見て『すっかり元通りだね』って言ったんですよ。元の形を覚えていなくちゃ言えない台詞です」
「じゃあ、すいぶん前から記憶が戻ってたってのか?」
「いえ、もしかしたら……始めから記憶なんて失っていなかったんじゃないでしょうか?」
ジルの発言にリュートは目を見開いた。
「……私達は騙されていたんですよ」
「そんなはず……そんなはずねえだろ! 第一なんのために!?」
「きっと不審がられずに機体を修理してもらうためでしょうね。私達が初めてエレナを見た時、彼女は寝たふりをしていました。そこでの私達の会話から空戦機に詳しいことを知り、そのまま利用しようとしたんじゃないでしょうか?」
リュートにとって、到底信じられる話ではなかった。
騙されていた――?
無邪気な笑顔も、あどけなさの残る言動も、全てが偽り?
そんなはずはない。認められない。
しかし、今の状況を見れば、ジルの言葉を全て否定することも出来はしない。
どこからが真実でどこまでが虚実なのか、もうリュートには分からなくなっていた。FTSを一緒に操縦した時の笑顔も、その時かけてくれた言葉も全てが偽り――
「……嘘、だよな……」
漏れ出た呟きは絶望に彩られ、両の足までもが力を失い、その場に立ち止まる。
「バカ! あぶねエ!」
「…………あ」
瞬間、リュートは視界の全てを光が覆っていくのを知覚した。
引き伸ばされていく刹那の瞬間、身体に何かが当たる衝撃を感じる。
そして。閃光が弾け、轟音が轟いた。
次に目を開けると身体は地面に横たわっていて。
周囲の光景は変わり果てていて。
一瞬遅れてから自分が吹き飛ばされたのだと理解する。
「ぐう――っ」
立ち上がろうとすると全身に痛みが走った。着ていた服は至る所が破れ、露出する肌には無数の傷跡が刻まれている。ずいぶんと長い距離を吹き飛ばされ、地面を転がったのだと悟る。
しかし、その痛みすらも次に目にしたもの前では泡となって消え去った。
「サクミ!」
辺りに立ち込める土煙の中、少し離れた場所でサクミが倒れていた。
駆け寄って息を飲む。脇腹の辺りから大量に出血している。
光線に焼かれたのか、それとも吹き飛ばされた時に強く打ち付つけたのか、みるみるうちにツナギが赤く染まっていく。
爆発の直前にぶつかって来たもの。あれはサクミだったのだ。自分を庇った結果がこれだ。
「なんで!」
責めるような口調に、サクミは苦し気に瞳を開き、にやりと笑った。
「バーカ……弟を守るのは姉の役目だろうが」
リュートは喉を詰まらせる。
「――まずは一旦ここを離れますよ!」
駆け寄って来たジルのひとことで我に返り、サクミを抱き抱えるようにして移動する。
舞い上がる土煙に隠れながら移動し、林の中へと身を隠す。出来るだけ平坦な場所にサクミを寝かせ、夜空に浮かぶ禍々しい機体を睨みつけた。
「くそっ! どうすりゃいいんだよ!」
「とにかく、サク姉の容態が心配です。このまま潜伏してエレナをやり過ごし、まずはサク姉を安全な場所に運びましょう!」
首肯するリュート。しかし、そこにすかさず割り込む声があった。
「いいえ、それでは駄目です。早く彼女を止めないといけません」
アイオンだ。自身の提案を却下され、苛ついたようにジルはその理由を問う。
「あの機体は人の生命力を動力源としています。つまり彼女の命をエネルギーとして燃やしているんです。万全な状態ならともかく、今の彼女の身体はだいぶ弱っている。このままイシュムを動かし続けたら―――」
手遅れになるかもしれない――
告げられた事実にリュート達は絶句するしかなかった。
「……僕が出ていきます」
「お前、何を言って――」
「彼女の狙いは僕だけですから。僕さえ殺せれば彼女も少し落ち着くかもしれません。そしたらエレナさんをあの機体から連れ出し、サクミさんもすぐに病院へ」
そう言って立ち上がろうとするアイオンを、リュートの右腕が強引に押し留めた。正面から睨みつけながら「ふざけるな!」と一喝する。
「お前がどうなろうと知ったこっちゃねえけどな。エレナにそんな真似をさせられるか!」
「……優しいんですね」
アイオンが口にしたのは素直な感想だった。生命の危機に瀕している自分よりも、人を殺めてしまった後に少女が背負う罪、そしてその心情を慮る。その想いに対する尊敬の念。
しかし、だからこそ、アイオンは悲痛な表情を浮かべる。
「でもね、彼女も言っていたじゃないですか。……もう遅いんですよ」
「そりゃ、どういう――」
噛みつくようなリュートの問いを遮って、少女の愛らしい声音が夜空に響き渡った。
『ねえねえ、今度はかくれんぼでもするの? でもね、隠れても無駄なんだよお? 私には全部見えてるんだから』
そう言い放ち、まっすぐにリュート達の居る方へと近づいてくる。
「ハッタリ……じゃなさそうですね」
「はい。あの機体はエレナさんの生命の力を増幅させます。実験の結果、生命エネルギーには様々な能力があることが分かっています。見えるはずの無いものを見たり、聞こえるはずのないものを聞いたり――」
「俗に言うESPというやつですか」
「そうです。さすがに物を動かしたり直接相手を攻撃するような物理的な力はありませんが、上手く使えれば他人の心に干渉したりもできるそうです」
「心に干渉?……それって普段も使えたりするのか?」
「分かりません。でもエレナさんはずっと生命エネルギーを意図的に操るための訓練を受けていました。少しならコントロール出来るようになっていても不思議じゃないかもしれません」
アイオンの言葉を聞いてリュートは確信する。
パーティ会場でのセランとのFTS勝負。その時、恐怖に捕われたリュートに語りかけてきたのは、やはり彼女だったのだ。
その力で怯えるリュートを助け、恐怖を取り除いてくれた。
そんな少女の優しさを今更ながらに感じ取り、だからこそ、今この状況が悲しくてたまらない。
きっと本来は心優しいであろう少女。しかし彼女が抱いている憎悪はそれすらも凌駕するほどに大きく根深いものなのか、と。
『さっさと諦めて出ておいでよぉ。さもないと、みんなまとめてドッカンなんだからぁ』
普段であれば微笑ましくもある無邪気さも、この状況下では少女の異常さを増すだけだ。
そしてその時、背後で横になっているサクミが苦し気な呻き声を上げた。
「……助けてくレ、リュート……」
いつも気丈であった長女が発する意外な弱音、驚いたリュートは慌てて駆け寄った。
「あ、ああ分かってるっ。安心しろよ、すぐに病院に連れて行って――」
「バカ野郎そうじゃねエ!」
どこにまだそんな気力が残っているのか、サクミは普段と変わらない厳しさでリュートを怒鳴りつけた。
唖然とするリュートを一旦睨みつけてから、空へと視線を上げる。
「あいつが泣いてるのが……聞こえないのかヨ」
サクミが向けた視線の先。そこにあるのは不気味な光を湛えるイシュムの威容だ。
『うふふふ――、もう待てないよお?』
エレナは楽し気に笑っている。しかし、サクミはまるで痛々しいものでも見るかのようにイシュムの威容を見上げ、憐憫に満ちた表情を浮かべる。
その横顔を見て、リュートは気付く。
エレナは笑う。楽しそうに。嬉しそうに―――でもほんとうにそうなのか?
エレナは言っていたではないか。愛するリュー君のために、悲しくても、辛くても必死に頑張って笑っているのだ、と――。
「あいつを……助けてやってクレ」
「サクミ……」
サクミが家族へと示す愛情に付き添ってきた年月は関係無い。例えずっと騙されてきたのだとしても、自分が家族であると認めた以上、それは手を差し伸べるべき対象なのだ。
「……でも、どうやって?」
姉の想いに応えたくともその手段が分からない。抱いた不安がそのまま口から零れる。
そんなリュートに助け船を出したのは、またしても姉だった。
「空に居る相手のところまで行くには、自分も飛ぶしかありませんね」
他人が聞けばあまりにも当たり前過ぎる言葉。しかし、リュートはその意味を正しく受け取り息を飲んだ。
ジルはリュートに、空戦機を操縦しろ、といっているのだ。
「私はここでサク姉を診ています。それにあの物騒な機体に近づくためにはサポートも必要でしょうしね」
向けられた顔をまっすぐに見返すと、ジルは眠たげな瞳をにんまりと細めた。
「倉庫にしまったままのあの機体、貴方に預けますよ」
二人の姉から向けられる視線。
そこに込められているのは期待――いや、信頼だ。
リュートは力強く頷いた。
「エレナを……可愛い妹を頼んだゾ」
長女の言葉に背中に向け、リュートは一人、闇に沈む林間を駆け出した。




