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約束の空に君を乗せて  作者: 御堂寺 祐司
第三章 『Imagination means nothing without doing.』
17/33

日記

 窓から差し込まれる陽光が、板張りの床を照らしている。


 日課としているトレーニングを終え訓練ルームから出ると、むん、とした熱気が身体を包み込んだ。


 訓練室はFTSの稼働熱を抑える為に冷房をガンガンに効かせているせいで常に寒い。冷え切った身体に温もりが染み込んでいく感覚を味わいながら、リュートは大きく背伸びをした。


 セランの屋敷での出来事から約半月。


 エレナを守るために勝負を受け、激闘を演じたあの日。何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた夜から気が付けばもう2週間だ。


 時間の流れは早く、人が抱く煩慮などお構いなしに過ぎ去っていく。決して止まることの無い流水の無情さに、リュートは母屋へと続く廊下を歩きながら長い溜息を吐き出した。


 抱いた期待も空しく……


 結局あれから、なんの変化も無い。


 エレナの記憶が戻ることもなく、義姉達に虐げられる現状も変わらず、そして、リュートの閉所恐怖症も治ってなどいなかった。


 抱いた希望の分だけ、絶望は色濃く胸に残る。


 以来リュートの心に広がっているのは曇天の空だ。その雲のあまりの分厚さに鬱々としながら、ギシギシと鳴る床板を踏みしめる。


 中庭に面した外廊下を歩いていると、視界に飛び込んで来たのは陽光に煌く金色の髪だった。


(ん? エレナ? あんな所でなにやってんだ?)


 庭先に置かれた木製のベンチに腰かけ、足をぶらぶらと揺らしている。少女が手にしているのは薄汚れた表紙の手帳。ダルマの中で見つけた、例の日記帳だった。


 リュートに気付いた様子も無く、エレナはその日記帳を開き、どこか楽し気に微笑んでいる。


(……一体、何が書いてあるんだろうな)


 エレナから注意を受けたあの日以来、リュートは一度もエレナの日記を見ようとはしていない。それは姉達も同様で、日記を見られることにエレナが激しい嫌悪を示した以上、姉弟の中では「エレナの日記には触れないこと」という不文律のようなものが生まれていた。


 俺のプライバシーに関しては好き勝手に蹂躙するくせに――


 と姉二人へ文句を言いたくもなったが、だからって十歳の少女のそれを侵害しようとは思わない。


 だが、それでもなおエレナは警戒しているらしく、常に日記の入った巾着袋を落ち歩いているか、自室のどこかに隠している。


 ――よほど見られたくないことでもあるのだろうか。


 そう疑問に感じたが、日記とはすべからくそういうものだろうな、とも思い直す。


 足を止めてぼんやりと目の前の光景を眺めていると、エレナの口から、くふふ、という笑い声が漏れた。肩を震わせながら笑う少女の姿はいかにも微笑ましい。


 リュートはエレナの日記を見ようとはしていない。


 しかし、見ようとしないことと関心が無いことはイコールではない。


 実のところ、リュートは日記の中身が気になっていた。


 単純に他人が日記にどんなことを書くのか興味がある、というのもあったが、それ以上にリュートが気にしていたのは、日記の中にエレナの無くした記憶や故郷についての手掛かりが隠されているのではないか、ということだ。


 エレナに尋ねると「そんなこと書いてないよー」と答えるのだが、大人の視点から見れば何かしらのヒントが読み取れるかもしれない、そうリュートは考えていた。


 ――ふと、思い至る。


 ベンチは廊下のすぐ脇にあって、エレナは廊下に背を向け座っている。このまま通路を進んで気付かれないように背後に回れば、日記の中身が覗けるかもしれない。


 少女のプライバシーを侵害してはいけないという倫理感と無邪気な好奇心が鬩ぎ合う。リュートの中に湧き上がった感情は、未だ成熟しきっていない幼い男子が、好きな女の子につい意地悪をしてしまう心情、それと少し似ていた。


 普段であればそんな判断はしなかったかもしれない。だが積もりに積もったストレスのせいか、この時ばかりは好奇心が勝ってしまった。


 エレナが嫌がることを承知のうえで、実行に移す。


 ――これはエレナのためでもあるんだ。


 そんな言葉で自身を説き伏せながら、足音を忍ばせながら背後へと近づく。


 エレナは日記をめくりながら笑いを堪えるように肩を震わせていた。背後に回ろうとしているリュートからは表情が確認できないが、楽しくて仕方が無いといった感じだ。


(んん? 日記って、そんなに面白いもんか?)


 エレナが示す反応に少々首を傾げながら、ゆっくりと忍び寄る。日記に夢中になっているエレナはにじり寄る影に気が付かない。


 ぐっと首を伸ばすようにしてエレナの頭越しに覗こうとした。その矢先、



「――だれ!?」



 エレナが飛び出すようにベンチから腰を跳ね上げ、日記を胸に振り返った。


(完全に気配を消してたのに、なんで気付かれた!?)


 振り向いた拍子に金色の髪がふわりと巻かれるようにたなびき、その絹糸のような髪の隙間から、相手を射抜くような鋭い視線が覗いた。


 リュートはその場から動けなくなった。


 大きく見開かれた翡翠の双眸の奥で、冷たく鋭利な光がゆらりと揺れる。含まれているのは警戒心と敵意、そして――


 ――殺意。


 向けられた感情のあまりの苛烈さに息を飲み、とっさに頭に浮かんだ取り繕いの言葉さえも口に出来ない。普段のエレナからは想像も出来ないような表情を見て、リュートが辛うじて発することが出来たのは、なんの装飾も無い稚拙なひとことだけだった。


「ご、ごめん」


 呆然と立ち尽くすリュートの姿を認め、エレナはほっと息を吐き出した。


「……なんだ、リュートかあ」


 凍てついていた表情が一瞬で氷解し、にっこりとした親しみに彩られる。


「もう、人の日記を見たら駄目だって言ったでしょ!」


 そう言って頬を膨らませる。そこにはあるのは、リュートがよく見知っている少女の表情。しかし、リュートは言葉を返すことが出来ない。直前に見せた感情があまりにも鮮烈過ぎて、普段と変わらないエレナの笑顔がどこか作り物めいたものに感じられてしまう。


「ん? どうしたの?」


「ああ、いや……悪かったよ」


「ほんとだよ、気をつけてよね!」


 もう知らない、とばかりにつんとした表情でそっぽを向いてしまうエレナ。今回ばかりは全て自分に非があるのだから、どんな罵倒も受け入れよう――そうリュートは決心し、


「もう本当にリュートってば…………変態エチエチ童貞クソ虫野郎なんだから!」


「ちょっと待てえ!?」


 さすがに許容範囲を超えてるぞ、とすぐに思い直した。


「ク、クソ虫はともかく、誰が変態でエチエチだあ!? しかも童貞って、お前サクミたちから何か聞いたな! だいたいエレナの後ろを通ったらたまたま日記が視界に入っただけだろーが!?」


 嘘だ。本当はしっかりと覗こうとした。


 エレナは「ほんとう?」と半信半疑の視線を向けてくるが、やがて何かを確信したように薄い胸を大きく逸らした。


「ううん! やっぱり、リュートはエッチだよ!」


「なんでだよ!?」


「だってサクミ姉ちゃんと……なんかしてたもん!」


 再びそっぽを向くエレナを見て、リュートはあんぐりと口を開けた。


(こいつ、まだ言ってるのかよ……)


 あの義姉による押し倒し事件から二週間。リュートとサクミの当事者二人が出来るだけ触れないようにしている出来事を、少女はいまだ気にしているように蒸し返してくる。


 普段の態度は変わらないが、何かにつけ、あの時のことを持ち出してはリュートへ「エッチ!」という言葉をぶつけてくるのだ。


 不機嫌そうに鼻をふんすふんす鳴らすエレナの横顔を見て、リュートは項垂れる。


(意外と根に持つタイプ………というか、なんでエレナがあのことを気にするんだ?)


 子供にありがちな潔癖さのせいか。


 それとも。いや、これはひょっとして――。


 不意に思い浮かんだ事柄をリュートはそのまま口にした。


「……なあ、お前ひょっとして、やきもち焼いてるのか?」


 リュートの言葉を聞いてエレナは瞳を丸くした。そのままじっと見返してくる。


「…………は?」


 きょとんと首を傾げてから、瞳を閉じてこめかみに指を当て深く考え込む。そして形の良い眉間に幾重もの皺を刻んだあと、再度、瞳を丸く開いた。


「…………は?」


「悪かった。俺が悪かったから、本気で、何言ってんだコイツ、みたいな表情をするのやめてくれ」


 心が折れそうになっているリュートへ、エレナが憤慨したように眉根を寄せる。


「なんで私がやきもちを焼くのよ? 私が好きなのはリュー君なの。リュートじゃなくてリュー君。分かった?」


「ハイハイ。そうでしたね。失礼しました」


 別にリュートとしても何かを期待して言ったわけではないが、こうもハッキリと否定されると若干面白く無い。でまかせとはいえ、パーティ会場ではオーディエンス達に向かって「愛し合ってます」宣言した仲なのだが。


「リュー君はリュートとは全然違うんだから! 優しくてね、かっこよくてね――」


「ハイハイ」


「頭も良くて、なんでも上手に出来て、面白い冗談も言えて、男らしくて、魅力的で、包容力もあって、足も臭くないし、脛にもじゃもじゃした毛も生えてないし、ご飯を食べたあとゲップなんてしないし――」


「……ハイハイ」


「それに――」


「なんだよまだあんのかよこんちくしょう!」


「リュー君はあんなエッチなことしないもん!」


 リュートは盛大に溜息を吐いた。


 エッチなことをしない? エッチなことに興味が無い? そんな聖人君子みたいな男が存在するはずがないだろう。あくまでリュートの持論だが。


「はあ? リュー君だってエッチなことぐらい考えてるよ!」


「そ、そんなことないもん! リュー君はあんな気持ち悪いことしないもん!」


「気持ち悪いって、おまえなあ!」


 確かに十歳の感覚では気持ち悪い行為に見えるのかもしれない。しかし、リュートは自分自身が気持ち悪いと言われたような気がして、頭に血が昇るのを感じた。


「あのな、前から言おうと思ってたんだけど、お前リュー君のこと美化し過ぎじゃねえ?」


「そんなことないもん、リュートの馬鹿! リュー君のことなんにも知らないくせに!」


「知らなくても分かるんだよ! 同じ男だからな!」


「違うもん! バカバカバカ! リュートの意地悪!」


「約束の話だってそうだ。お前が一人が信じてるだけで、リュー君はそんな約束なんてもう忘れちまってるかもしれないだろーが!」


 そうだ。守ることも出来なくなってしまった約束なんて、さっさと忘れた方が良いに決まっている。


 果たせない約束なんて心を縛りつける鎖でしかない。


 それはもう呪いと一緒だ。忘れた方がいい。


 ……いっそ、忘れられたならどれだけいいか。


 苦し気に瞳を歪めるリュートの正面―――エレナの瞳から涙が零れた。


「――っ! ご、ごめ――」


 慌てて謝罪の言葉を述べようとするが既に手遅れで。ううう、と唸るエレナの瞳からは後から後から雫が溢れてきて、その頬を濡らしていく。


 両手を身体の横で握り締め、ぎゅっと引き結んだ口を震わせ、悔しそうにリュートの顔を睨みつけてくる。


 リュートは今更ながらに悟った。自分が口にしてしまった言葉の残酷さを。


 この少女は記憶を失っている。常に笑っているせいで忘れそうになるが、縋ることの出来る記憶がないというのはどれほどに心細いものか。そんな少女が心の拠り所にしている少年の面影。それを踏み躙ろうとした。


(俺は、十歳相手になにをムキになってるんだ――!)


 いくら後悔を重ねても、一度吐き出した言葉は消えてはくれない。


「リュートも……()()()()()とおんなじだ」


「……え?」


「リュートの馬鹿! もう知らない!」


 エレナは全身を使って叫ぶと、振り返って中庭を囲む林の方へと身体を向ける。


「お、おい!」


 リュートの制止の声さえも振り切って、エレナはこの場から走り去ろうとし――、


 そして。


 盛大に転んだ。


 顔面から地面に倒れ込むような見事な転倒っぷりに、声をかけようと伸ばしたリュートの手が空しく宙を彷徨う。


「……いったーい! もう、なんなの? 急に足が……」


 転び方の派手さに反してダメージ自体は少なかったのか、エレナはすぐに上半身を起こすと、涙と泥まみれになった顔を怪訝そうに顰めた。


「ったく、急に走り出そうとするからだぞ?」


 呆れつつもリュートはエレナを助け起こそうと近づく。


「ああ、ほら、痣まで出来てるじゃねえか」


 リュートの視線の先、エレナの脛の後ろ側に親指と人差し指で輪を作ったぐらいの大きさの痣が出来ていた。透き通るような白磁の肌に、濃紺の斑紋は見るからに痛々しい。


(……ん? でも、前のめりに転んだのになんでこんなところに痣が?)


 リュートが訝し気な表情で手を伸ばすと、


「触らないで! リュートなんか大っ嫌いっ!!」


 エレナはその手を払いのけながら立ち上がり、服についた泥汚れを払うこともなく、そのまま林の中へと消えていった。示された拒絶の意志に、しばし呆然とする。


 少女と出会って以来これほど明確に拒絶されたのは初めてだった。口喧嘩をしたり、冗談交じりに罵られたことはあっても、涙の浮かぶ瞳で「嫌い」と言われたことはない。


 それほどまでに少女の心を傷つけてしまったのだと思い知る。


「……くそっ、なんだよ」


 後悔と憤り、悔しさともどかしさ――無数の感情がごちゃ混ぜになって胸中で逆巻いている。


 穏やかに注ぐ陽射しの中にあって、吹いてきた風だけがどこか肌寒く感じられた。



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