やくそくのソラ
女の子が泣いている。
目の前で、小さな女の子が泣いている。
朝、顔を会わせると嬉し気に笑い、
昼、話しかけると楽し気に笑い、
夜、意地悪をすると怒ったように頬を膨らませ――
だけど、かまって貰えたことが嬉しいのか、
やっぱりはにかんだように笑う。
そんな女の子が、僕の目の前で声を上げて泣いている。
すでに太陽は山々の稜線の向こうに沈みかけ、辺りはじんわりと薄暗い。
にじり寄る宵闇の気配の中で、彼女の頬に残る涙の跡だけが夕照りにきらめている。
「なんで……、なんで……」
彼女が泣いているのは、僕のせいだ
同い年で、一番仲の良い幼馴染でもある彼女。本当だったら一番泣かせたくない相手であるはずの彼女が、僕のせいで涙を流している。
身体中が痛かった。流れ出ていく血と一緒に力までもが抜けていってしまったかのように、指先を動かすことさえひどく億劫でたまらない。
「なんで? ……なんでリュー君がこんな目に会わなくちゃいけないの……?」
幾度となく繰り返される問いが、赤銅色の空気に空しく溶けていく。
ああ、それは仕方が無いことなんだよ。
誰が悪い、とかでもないんだ。
きっとどうしようもなくて、仕方がないことなんだ。
そう言葉にしようとしたけど、口から漏れるのは掠れたような呼吸音だけ。それがひどくもどかしい。
人形のように愛らしかった彼女の顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
夕焼けに照り映える艶やかな金髪もひどく乱れてしまい、眩いばかりだった彼女の面影が、もうどこにもない。
それもこれも、結局はーーーー僕のせい。
それなのに。
彼女は、こんな僕なんかのために、涙を流し続けている。
「こんなの……ひどいよ……」
彼女の指先が、恐る恐るといった様子で僕の左肩に触れた。
その瞬間走った痛みに顔が歪み、彼女の瞳から、またひとすじ涙が零れた。
ボロボロになったシャツから覗いているそこは、きっとグチャグチャになっている。
あれだけ酷く殴りつけられたのだから、まだ感覚が残っていることがむしろ不思議なくらいだ。
自分で確かめる勇気は無かったけど、傷口を見た瞬間に彼女の口から洩れ出た悲鳴が、想像と現実の間にそれ程の乖離がないことを教えてくれている。
――どうして、こんな状態になったんだっけ……?
……ああ、そうだ。真っ赤に熱せられた火掻き棒で何度も打ち据えられたからだ。
何度も、何度も。
自分の身体の一部が焼かれ、潰されていく音がまだ耳の奥にこびりついている。暖炉から引き抜かれた赤熱の棒が幾度となく振り下ろされる光景を滲む視界に捉えながら、僕は何かを必死に叫んでいた。
「やめて!」だったのか「許して!」だったのか。どちらにしろ相手に聞き入れて貰えないのだから大差は無い。
「なんで…………なんで、自分の子供に、こんなことが、できるの……?」
……そう。僕は実の父親から虐待を受けている。
もうすいぶんと長い間だ。いつ頃始まったのか、もう思い出せないくらいに。
初めのうちは数日に1回殴られるぐらいだった。
だけど、それは日に日に酷くなっていって。
最近ではもう僕の身体の痣の数が減ることは無い。
「このままじゃ……リュー君が死んじゃうよ……」
うん。僕もそう思うよ。というか、今日は本気で殺されると思った。
どうやってあの家から逃げ出してきたのか。
どこをどう走ってこんな村はずれまで来たのか。よく覚えていない。
騒ぎを聞きつけた彼女がこうやって後を追ってきてくれたぐらいだから、きっと結構な騒動になっているんだろうけど。
「っく……うぅ……」
僕の姿を直視していられないかのように、彼女は顔を覆い嗚咽を漏らす。
殴られて痛いのも、血を流して苦しいのも、僕なのに。
なんで君が泣くのさ。
僕は……君にだけはずっと笑っていてほしいのに。
「…………わたし……決めた……」
……?
訝しむ僕の前で彼女は立ち上がると、部屋着の袖で自分の目元を拭った。
大きな翡翠色の瞳が、残照の中で強く輝く。
「……おじさんに、お願いしてみる! リュー君にひどいことをするのはやめてください、って!」
…………え?
いま…………なんて言ったの?
心臓が大きく脈打つ。
(や……)
身体の奥の方、ずっとずっと深い場所が、小さく震える。
(や…………)
力の入らなかった指先に戻ってくる感覚。僕はその僅かな力すらも全て使い果たすつもりで、口を開ける。
「…………やめて」
僕の口から洩れた老人のようなしわがれた言葉に、彼女の瞳が驚きに染まった。
それは、彼女が僕のためを想って言ってくれた言葉だ。僕なんかを救うために、小さな彼女がありったけの勇気を振り絞って発した言葉だ。
そんなことはわかっている。
だけど僕が感じたのは喜びでも安堵でもなく、ただ途方もないほどの――ーー恐怖だった。
僕は必死に右手を伸ばし、彼女の手に縋る。
「やめて」「お願いだから」「僕のことはいいから」――
僕がそう繰り返す度に、彼女の顔が絶望の色に染まっていく。
「で、でもっ、それじゃリュー君が……!」
反論しようとする彼女の前で僕は首を力無く振り続ける。
自分がこういった仕打ちを受けることにはもう諦めがついている。
最初の頃は父親を恨んだり、僕を残していった先に逝った母親を恨んだり、それこそ居るのかも分からない神すらも恨んだけれど。
それもすぐに意味が無いのだと思い知った。
そんなことをしたって現実は何一つ変わらない。
だけど。だけどさ。
もし君に何かあったら。僕はきっとーー耐えられない。
父は……アイツは、もう正気じゃない。
ひどく酔っぱらっている時なんて、ひょっとしたら殴っている相手が僕だってことすらわかっていないかもしれない。
そんな人間に関わることで、もし君が傷つけられでもしたら。
想像しただけで、身体の芯が凍り付いたように呼吸が出来なくなる。
この残酷な日々の中で、君と過ごす時間だけが救いだった。
君と手を繋いでいる時だけ。
君の笑顔を見ている時だけ。
僕は生きていることを許されていた。
もし、それを失ったら。
きっと僕の生は、本当に意味の無いものへと成り果てる。
だから僕は必死に彼女を説得し、首を振り続ける。
「そんな……そんなの……ないよ……」
彼女の瞳から、大粒の涙がまた一筋流れる。
「このまま放っておけないよ! リュ―君が苦しんでいるのを見ることが、私にとっても一番苦しいことなんだもん!」
今、彼女を傷つけているのは僕だ。
その事実が胸を強く締め付ける。
だけど。僕の我儘だとしても。
やっぱり僕は……彼女が僕以外の人間に傷つけられる姿を見たくない。
そうだ。もうその願い以外、なにもいらない。
そんなこと、本当はもっとずっと前から分かっていたはずなのに。
僕は今、初めて明確に自らの願いを自覚した。
彼女を傷つけさせない。
――彼女は、僕が、守る。
その瞬間、身体の奥深いところで微かな灯りが灯った気がした。
壊れかけだったはずの身体が動き出す。
緩慢に、それでもしっかりと、僕は立ち上がる。
「……リュー、君?」
不安そうに見上げてくる彼女に、もう大丈夫だよ、と口角を上げてみる。
すると彼女の口から漏れていた嗚咽がほんの一瞬だけ止まり、たったそれだけのことで、胸の奥が満たされるのが分かった。
「……そろそろ帰らなくちゃ」
「っ! だ、駄目だよっ!」
「大丈夫だよ……さっきのであの人の気も晴れただろうから。少し時間を空ければ大丈夫。いくらあの人だって一日のうちにそう何回も殴ったりはしないよ」
半分、嘘をつく。さっきので気が晴れただろうというのが本当。一日のうちに何回も殴らないというのが嘘。ちくりと罪悪感が胸を刺した。
だけどこうするしかないんだ。
もうすぐ日も沈むし、いつまでも彼女とここにいるわけもはいかないから。
結局、僕はまだ一人では生きていけない非力な子供でしかない。
これだけの仕打ちを受けたって、僕が帰れる場所なんてあの家しかなく、長引く戦争のせいで貧しいこの村に、僕を保護してくれる人なんていない。すごく悔しいけれど、それが現実だ。
彼女の手がゆっくりと僕の身体から離れていく。納得したようには見えなかったけれど、きっと彼女もこのどうしようもない現実を理解っている。
力無く項垂れると、パサリと落ちた前髪の隙間から小さな呟きが聞こえた。
「……ごめんなさい」
なんで? なんで君が謝るの?
僕はいつだって君に助けられているんだよ。
それだけは伝えなくちゃと口を開いた瞬間だった。
ゴオウゥゥッ!!
紡いだ言葉は、なんの前触れもなく発生した轟音によって掻き消された。
反射的に見上げた空を、巨大なシルエットが通り過ぎていく。
赤と群青の混じり合う空を、真っ黒に切り抜くように十字の影が泳いでいる。
見覚えは無い。だけど、それが何かは知っている。
夕照りを反射する鈍色の胴体と左右に突き出た巨大な主翼。小型の牽引式単発機。
『空戦機』
そう俗称で呼ばれる戦闘用航空機だ。
虫の羽音にも似た巨大なプロペラ音を全天中に響かせながら、空戦機が空を往く。
「きゃあっ」
ずいぶんと低空を飛んでいたのか、巻き起こった突風に身体を持っていかれそうになる。翻弄される髪を片手で押さえ彼女はじっと空を見上げる。
空戦機は見上げている僕らの頭上を一瞬で過ぎ去ると、西の方角へとその姿を徐々に小さくしていく。
単機だから哨戒任務だろうか? それとも補給のため寄港する途中?
……ひょっとしたら、戦場に向かうのかもしれない。
僕達は夕映えの中に消えていこうとする機影を並んで見送っていた。
黒い影となった空戦機は、一定の速度を保ちながら、まとわりつく風を切り裂くように、この雄大な空の中をどこまでも飛翔する。
そして、たなびく薄雲の向こうへと姿を隠し、やがて見えなくなった。
僕は身体中の痛みも忘れてその姿に見入っていた。
――ああ、いいなあ。
羨望の想いが胸に溢れる。
もちろん戦争なんて大っ嫌いだけれど。
でも。それでも。
ああやってこの空を飛んでどこまでもいけたなら。
この牢獄のような場所からも飛び出していけるかもしれないのに。
「……いいなあ」
耳元で聞こえた声に横を向く。
すぐ隣、顔を向けた先で彼女が笑顔を浮かべていた。
僕と同じように、眩しそうに細めた瞳で空戦機の消えた空を眺めながら。
「……あんな風に飛んでいけたらいいのにね」
僕は息を飲む。
口には出していなかったはずだ。それでも彼女は今、僕と同じものを見て、同じ想いを抱いていた。
彼女の指がそっと僕の指に絡まってくる。ぎゅっと握る。
それだけで凍り付いていた心がゆっくりとほどけていくのが分かる。
溶けだした液体が、そのままふたつの眼から溢れてしまいそうになる。
少しでも彼女へ返すことが出来るのなら。
彼女の笑顔をもっと見ていられるのなら。
きっかけはそんな小さな願い。
だけど気付いた時には、僕は自分でも驚くようなことを口にしていた。
―――「僕はパイロットになるよ」―――
すぐ横で彼女が息を飲んだのが分かった。
僕は沈みゆく夕日をまっすぐ眺めながら、言葉を紡ぐ。
「僕はいつかパイロットになって……あんな風に自由に空を飛ぶんだ」
何者にも縛られず、何者からの圧力も受けず、この空を、どこまでも自由に。
そして、その時は。
僕は胸いっぱいに息を吸いこんで、彼女の方を向く。
そして大きな翡翠色の瞳をまっすぐに見つめ、告げる。
「その時は、後ろに君を乗せてあげる」
彼女は驚いたように口をポカンと開けていた。
あ、あれ、失敗したかな?
だけど、口の端がゆっくりと持ち上がっていくのを見て、僕は自分の言葉が間違いではなかったことを確信する。
「――うんっ!!」
残照に照らし出される世界の中、彼女の笑顔だけがひときわ強く、輝く。
「約束だよ、リュー君!」
「うん! 約束だ、エレナ!」
差し出された細い小指に自分の小指を絡める。
この瞬間から。
ただの思い付きでしかなかった言葉は、僕の一生をかけて叶えるべき夢となった。
こんな僕でも大切な人を笑わせてあげられる。
そんな当たり前のことが、涙が出るくらいに嬉しかった。
――でも。やがて僕は知る。
この世界は、やっぱりどこまでいっても変わりはしないのだということを。
それまで過ごしてきた日々がそうであったように。
いっそ呆れるくらいに残酷で、どこまでいっても無慈悲なのだということを。
子供同士で交わしたこんな些細な約束さえも、
――叶えることを許してはくれないのだから。




