第1話 はじまり
001
ずきん、ずきんと断続的にくる腕の痛みに我慢できず、俺は目を開けた。
甘い香りに顔を横に向けると、ほつれた髪が顔にかかり妙な色気を出している入社二年目で配属されてきた西川が眠っていて、思わず凝視してしまう。
閉じられた目を飾る睫が長い。桜色の唇が微かに開いて白い歯がチラリと見えている。
ワイシャツのボタンは微妙な位置まで外されていて、白い鎖骨の窪みと黒い下着が見えた。
ぴったりと押し付けられている体は柔らかくて温かい。
まあ、聞いたことがある。
腕枕をした翌朝は腕が痺れてそれは幸せな痛みだそうだ。
小鳥の囀りが耳に心地いい。
緑色のカーテンからの木漏れ日が目に眩しくて手で遮る。
緑の匂いに女の甘い体臭が混じる。
腕に抱いた西川の横顔からは幸せそうな寝息が漏れていた。
よし、まずは落ち着こう。それからよく考えよう。
どうして俺が西川を腕枕している状況で目を覚ましたかだ。
思い出したように、ずきん、ずきん、と腕が痛む。
確か、昨日の夜は飲み会だった。課に配属された西川の歓迎会だ。
たいして飲めもしないのに赤い顔をして「21世紀ですよ? 自分の名前が気にいらないです」と絡んできていた西川を思い出す。座敷童と心の中でつけたあだ名通りのおかっぱに近いボブのちんまい女だ。
歓迎会後、足元をふらつかせた西川を送り届けることになったはずだ。
「えへへ、先輩、私をこんな所につれこんで何をするんですか?」
西川は赤い顔で俺を見上げると悪戯っぽく唇の端をあげていた。
何もするか。だいたいここは会社の用意した寮代わりのアパートで、お前の部屋だ。
入社二年目の女子社員を歓迎会で酔わせて美味しくいただきましたとか俺の会社での立場を地に落とすつもりか。勘弁してくれ。
同じアパートに住むよしみで送り届けただけだ。西川を部屋に放り込んで扉を閉めた記憶がある。
よし。
酔った上での不埒な間違いはない。
「えへへ、おはようございます先輩、朝帰りになっちゃいました」
目を覚ます前に姿を消そうとした身動きで起こしてしまった。
いや、それ以前に別の理由で体が固まってしまったんだけどな。
「私をこんな所に連れ込んで、何をしたんですか?」
体を押し付けるな。期待に満ちた眼差しが確認するように周囲に向けられると西川は眉を寄せた。俺の部屋かラブホテルでも想像していた顔だな。
「……初めてが野外とか非常識にも程がありますよ?」
「お前、服着てるだろ?」
「初めてが着衣プレイとか、ないですね」
「まずそのいかがわしい初めてというのから離れろよ。この状況でよく落ち着いていられるな?」
小鳥の囀りがやけに近いはずだ。壁がないからな。
木漏れ日が眩しいはずだ。屋根がないからな。
緑の匂いがするはずだ。下は草原で、周りは木で囲われた森っぽいからな。
ずきん、ずきん、と腕が痛む。
痛みで顰めた顔を気遣ったのか、むくりと西川は体を起こした。下は紺色のタイトスカートで、白い足に枯れ草がついている。
「先輩……その腕……」
西川の驚愕の表情に誘われて目を向けると、シャツの腕部分は真っ赤に染まっていた。
ひぃっなんじゃこりゃ。
さっきから痛いと思ったら。
青いぷよぷよした球体が腕にくっついている。ソフトボールくらいの大きさだ。
「いてっこいつっ噛み付いてる」
どこが口かもわからない分際で。
「先輩っ、ちょっと背中見てもらっていいですか?」
なんだこの状況で!
西川が背中を向ける。枯れ草がついた白いシャツの小さな背中だ。
「血とかついてないですか? 代えのシャツはクリーニング中で心配なので」
お前、俺の血まみれの腕の心配しろよ。
「付いてねえよ! きれいなもんだ!」
「綺麗だなんて朝から恥ずかしいです。あ、なにかおねだりでもあるんですか? エッチなのですか?」
頬を染めてはにかんでる場合かよ。あと、おねだりというかお願いだから腕の変なものをなんとかしてくれ。
「先輩のペットかと思ったんですけど、違うんですね」
こんな得体の知れないペットがいるか!
西川は俺の腕にくっつく謎の物体を手で掴むと横の崖っぽい岩肌に投げつけた。
ぶよぶよは水風船のように破裂して、数秒で蒸発してしまう。
なんだよあれは、それから、どこだよここは。
「先輩、いくら私が可愛いからって拉致監禁するのは如何なものかと思います」
この状況で監禁という言葉の選択はありえなくないか? どう見ても屋外だ。あと、お前を拉致する動機がまったく思い浮かばない。
俺はどうしてこんな長閑な森の中で寝ていたんだ?
夢遊病か? 性質が悪いな、いやストレスか? 仕事忙しいからな。
というか横で髪の乱れを直している西川の仕業か? やけに落ち着いているのが気にかかるが。
「大変待たせ致しました。一条光輝様」
いきなり声が聞こえたかと思うと、視界にぽんっと小さな女の子が現れた。いや小さい所じゃないくらいミニマムだ。15センチないぞ。しかも浮いている。なんという違和感。前下がりのボブカットの黒髪に絣の着物姿の女の子はにこにこ笑っているけど、これはあれだ実写映画にアニメキャラがはめ込まれたやつだ。
顔が誰かに似ているかと思ったら西川にそっくりだ。
格好も座敷童だし。
「違和感があると思いますがすぐに慣れますので御了承下さい」
女の子がてへっと言いながら軽く自分の頭を叩く。
漫画ならともかく現実でされるとイラっとするな。だてに西川にそっくりではない。
「起動シーケンスに時間が掛かってしまい遅れました。大変申しわけございません」
ぺこりと頭を下げられる。
「状況を説明する前にプロフィールの確認を行いますね? 一条光輝様、26歳、身長170センチ体重60キロ職業会社員職種は省略、顔平凡彼女無しと、間違いないですか?」
最後の二つはプロフィールか? 余計なお世話だ。喧嘩売ってんのかコイツ。
「はい、では改めまして、私は迷宮運営委員会から派遣されました支援プログラムの菊千代ともうします。以後宜しくお願いいたします」
深々と頭を下げられる。なんだって? 何委員会って言った?
「これより一条光輝様の迷宮運営につきまして様々なサポートをさせて頂きますね」
可愛らしくガッツポーズをした。いちいち人を不快にさせるやつだな。
「先輩、さっきから何をブツブツとおっしゃっているんですか?」
西川が可哀相な大人を見る目を向けてくる。いや、ちょっと待て。
「お前、見えてないのか?」
「はあ……何がですか?」
西川はキョロキョロと周囲を窺う。
「こいつだよ、このなんとか委員会の菊千代とか名乗るちっこい女だよ」
「先輩。私、先輩に体は許しましたけど、名前を呼ぶのは許してませんよ?」
体も許されてねえよバカ。人様に聞かれたらあらぬ誤解を生むだろうが。大体、許すものが逆だろうが普通は。
何故睨む。あ、そういえば昨日の飲み会で名前が嫌いだとか言っていたな。
名前、菊千代っていうのか。西川も。
「あと、小さいと言われましてもですね、女性には個人差というものがあるのです」
胸を隠すな。お前に言ったわけじゃないが小さいといえばまず身長だろうが。
「はい、お取り込み中失礼致しますね。時間も押してますのでしゃきしゃき行きますので」
何か進行しているのか。空中に浮かぶ女が笑顔を引きつらせていた。
「まずはこちらをご覧ください」
菊千代が小さな手をそっと上げると目前に白い文字が浮かび上がる。
記号と数字の羅列。細長いバーが二つ。ゲーム画面みたいだ。
「AR表示でご自身のステータスや所持アイテムを見ることが出来るメニューとなります」
まんまゲームだった。
「あら、バッドステータスに右腕軽症の表示がありますね。お怪我をされているようです。治療用のアイテムを使用しましょう。左手を上に向けて下さい」
左手に小さな試験管が現れる。重みがある。現実だARなんとかじゃない。
「うは、先輩。手品ですか?」
西川の目が輝いていた。
菊千代に指示されるままにコルクを抜いて赤い液体を怪我をしている右腕に振り掛けると、ズキズキしていた痛みがすうっと引いていった。空の試験管がすっと消える。
半端ないですねぇと西川が感心している。だが、どうでもいい。
「はい、ステータス異常は回復いたしました。残念ながらメニューは一条様ご自身では操作が出来ないため御用の場合はこの菊千代にご命令下さい。以上でオリエンテーションは終了です。何か質問はございますか?」
この状況で質問がないとでも思ってんのかコイツは!
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