8皿目 牛肉のワイン煮 2 ギルドの看板娘
「はい、魔術師レベルはCランクですね! 後は、私の方で台帳に書き写してお終いです」
虫眼鏡の様なもので執事の腹部を覗き込んでいた 肩まで伸びる緑髪を、外側にふわりと跳ねさせる茶色の前掛けの受付嬢は、羊皮紙に書き込まれた一通りの情報を確認して受け取ると、台帳の執事の頁を開きバン! とCランクの判を押した。
「よろしくお願い致します」
黒髪の執事は白い手袋で代金の銀貨二枚を渡す。
ギルドの情報更新に使われる羊皮紙は、山羊の皮を水で洗い、消石灰で漂白し、毛を取って乾かし、軽石で磨くとい手間のかかる貴重品であり、更新には代金がかかるのである。
ここは王都の真ん中に位置する魔術師のギルドだ。この国の魔術師達を管理する魔術師達の組合である。
最近二人目の魔術の師を持つこととなった黒髪の執事は、新たな情報登録の為に訪れたのだ。
「これは、主人からの差し入れです」
両手に持った二つのバスケットのうち、白い布の被せられた方をを執事が受付嬢に渡す。
『あの娘、お酒好きだからきっと喜ぶわ』そう言って、主人が用意させたのだ。
「まぁ! ありがとうございます! リィリエ様にもよろしくお伝えください」
頬の横で両手を合わせると、バスケットを受け取る受付嬢。
「いい匂い! お酒と……お肉!」
布をめくった受付嬢は目を輝かせる。
「オランジの果実酒と、牛肉の赤ワイン煮です」
まだ暖かい肉料理からはワインの風味をのせた甘いソースの香りが、柑橘を漬け込んだ果実酒からは甘酸っぱい酒精の香りが辺りに広がる。
「これは……我慢ができません」
目の前の嗜好品と料理にごくりと唾を飲み込む。
「お、お仕事中だけど……少しだけ、少しだけいただいちゃいましょうっ!」
少しだけならば、恐らくは仕事中の飲酒はバレない。きっと大丈夫なのである。
「ま、まずは……お酒からっ」
果実酒の瓶に口をつけると、そのまま、くぴくぴと飲み始める。
「甘くて、美味しい! なに、このお酒!」
ぷはぁーと瓶を口から離すと、中に透ける果実酒の中身を何度も見ながら歓喜の声を上げる。
王宮より報酬で賜った砂糖にオランジを漬け込んだこの果実酒は、とても甘いのである。砂糖が高級品であるこの世界では、かなりの嗜好品と言える。
こうして真昼間の魔術師ギルドの受付で、酒宴が始まってしまったのである。
「噂には聞いていたけど! この肉料理もすごく美味しい!」
執事の料理の腕前については、ここに訪れるリィリエやアンネッタから聞き及んでいた。しかし、聞くと見るとではこうも違うものなのだなぁと想像を超えてしまった美味に、受付嬢は認識を改めるのだ。
最高の酒に最高の肴、すでに受付嬢は酒宴を止めることなどできない状態にあった。
「こんな美味しいお酒とお料理……はじめてれしゅうっ。 ヒック」
突如、事態は急変した。
執事は目を見開き、その端正な貌が驚きに彩られる。
「僭越ながら申し訳ありません業務中の飲酒は、程ほどにされた方が宜しいかと存じ上げます」
執事が心配そうに物申すも、最早受付嬢には届いていなかった。
「そんら項目はらいけろ……ヒック! 肉の柔らかさは、Sランク!! って書いておきますれっ?」
執事の魔術師としての記録が書き込まれている頁にバン! とSランクの判が押される。
大分酒精がまわっているのだろう。受付嬢の翠色の双眸は完全に据わってしまっていた。
呂律の回らぬ受付嬢が、かきかきと『肉の柔らかさ』という特記事項を書き込んでゆく。
これでも本人はきっちりと仕事をしているつもりなのだ。
「ああっ……らめらっ、このお酒、止まんにゃぃっっ! このお酒も、Sランクれしゅっ!」
酒の格付けまでもが始まってしまった。特記事項がどんどんと追加されてゆく。
「魔術師としての腕はぁ中の下らけどもっ……料理の腕はぁ、しゅごいんれしゅれぇっ!」
「アンネッタさんが、好意を寄せるのも、わかりましゅうっ!」
果実酒の瓶を片手に一人うんうんと深く頷く。
しかし、このささやかな宴も、突然振ってきた『げんこつ』によって遭えなく幕を閉じることとなる。
受付嬢の上司が昼休みから帰ってきたのだ。そのまま奥へと連れて行かれ、受付嬢は小一時間お説教を受けるのであった。
∽ ∽ ∽
「……此方ですね」
その後、執事は王都の外れでもう一つの用事を済ませるべく探していた邸宅に行き着いた。
「アンネッタ様。執事のレンゲです」
かつんこつんと扉のノッカーを叩いてしばらくすると家主が出て来きた。
「……レン……ゲ?……」
思いがけない来客に驚いた家主の瞳が、やがて歓びの色に染まってゆく。
「はい。近くで用事がありましたので、ご挨拶に伺わせていただきました」
「……入って……」
どっどっ、と早く刻みだした胸の高鳴りを感じつつ、黒いドレスの魔術師は執事を家に向かえ入れる。
「牛肉のワイン煮を持ってまいりました」
「……牛肉のワイン煮……うれ……しい……」
黒い布の被せられたバスケットを受け取ると黒髪の魔術師は嬉しそうに頬を薔薇色に染めあげる。
彼女にとってこの料理は、『特別な人』の作った『特別な料理』なのである。
「……いい香り……」
黒い布をめくるとワイン煮の芳醇な香りが鼻腔を刺激した。
「……夕食が、楽しみ……」
バスケットを大切そうにぎゅうと抱きしめる黒い魔術師は、口に手を当て、何かを思い出したような素振りを見せる。
「……お願い…あった……私も……刻印したい……いい? 」
小首を傾げて不安そうに尋ねるアンネッタ。
魔術師は弟子入りの際に、師より腹部に魔術の刻印を刻まれる。実はまだ、執事はこの黒い魔女からの贈り物を受けていなかったのである。
「はい。アンネッタ様。よろしくお願い致します」
拒む理由などない執事は、燕尾服の上着を脱いで畳み、白いシャツの前を開いてアンネッタに腹部を晒す。
引き締まった美しい執事の白い肉体を前に、アンネッタは身体の火照りを感じ、鼓動をばくばくと加速させるのであった。
魔術の師らしく凛とした態度で執事に接したいが、アンネッタもまた年頃であり、異性の裸体を前にするのは恥ずかしいのだ。
「……大丈夫……痛く……しない……」
黒い印章が魔女の指を通して腹部に刻まれてゆく……
精一杯丁寧に時間をかけ、アンネッタは弟子の丹田に己の刻印を書き込んだ。
「……おわ……り……」
はぁと暖かい吐息を漏らすと、黒く長い髪の魔女は、刻まれた刻印に頬を寄せ、愛おしそうに指でなぞりあげる。
「ありがとうございました。アンネッタ様」
刻印を仕舞い、燕尾服に腕を通して着衣する執事に、黒い魔術師はえもいわれぬ満足感と高揚感を覚えるのだった。
「よろしかったら、お茶を淹れてきましょうか」
「……うん……」
執事の提案に給茶の希望をする。
「……てつ……だう……」
愛おしい弟子との初めての共同作業に胸をときめかせ、台所に向かう魔術師の黒い靴の足取りは、とても歓びに満ちていた。