32皿目 タンシチュー 続 お嬢様と異世界料理
「邸の仕事には十年も打ち込んできた癖に。私にはまだ何も打ち込んでいないじゃない!」
「……どういう意味でございますか?」
信じられないという顔の執事に、それじゃあ駄目なのよ、と女主人はぷんぷんと左右に頭を振った。
「駄目ね! 全然駄目!」
どこから持ってきたのか、右手に持った乗馬用の鞭をまるで過ちでも正すかのように、左の手の平にぴしゃぴしゃと振るう。
「せめて鞭の一つでも打ち据えるべきじゃなくて?」と、腕を組んでふふんと鼻を鳴らす女主人。
おそらく酔っているのだろう、酒精の香りが鼻についた。
突然ではあるが、執事は困惑していた。
酒精をあおり酔った主人に絡まれていたのだ。
酒癖の悪い女主人には、普段食前酒すら適量を超えて供さないようにしていた執事であるが、邸のメイドが主人に請われ酔うほどに果実酒を与えてしまったのだ。
そして晩餐を運んできた執事は面食らうことになるのである。本当に悪い酒だ。酒は悪くないのかもしれないが。
「じゃあ聞くけど、あなたが邸の執事を務める理由は何?」
「代々お仕えしている一族の名に恥じぬ働きをする為です」
胸に手を当て、深々とお辞儀をする執事。
「一族の名に恥じぬ働きと、私という存在が理由ということね?」
「……!?」
付け加えられた一つに少し驚くも、ある意味間違いではないと頷く。
「私はリィリエ=アード=バランシュタイン宮廷魔術師にして、あなたの主人よ?」
「存じております。お嬢様」
再びぺこりとお辞儀をする。
「なら、どうして私を食事に誘わないの!」
「……もう一度お願いいたします」
整った貌が沈痛そうな面持ちをし、思わず聞き返してしまう。
「寂しいときは使用人でもいいから、かまわれたい時もあるって言ってるのよ!」
乗馬用の鞭がご機嫌ななめに机をぴしゃりと打ち付ける。
「どのような時に、そのような寂しさをお感じになるのですか?」
「……そうね。お酒を飲んだ時とか? かしら?」
「では、お酒は今後控えて頂きます」
執事はぴしゃりと言った。ただでさえ酒癖が悪いのだ。けして甘やかしてはならない。
「だ、駄目よ! 今後は私の言うままに出させるわ」
「お嬢様を思えばこそです。ご理解ください」
「今日のようにね」と女主人は勝ち誇るも、美しい貌に冷たい氷のような笑みを張り付かせる執事に、女主人はしゅんと俯いた。
この執事は、駄目と言ったら駄目なのだ。久々の酒で高まった高揚も、冷たい笑みに興冷めしてしまう。
「もう! 久しぶりのお酒だったのに! 責任取りなさいよ!」
下唇を薄く噛み、涙目でキッと睨む女主人。
「申し訳ありません。どのようにお詫びをすればよろしいでしょうか」
棒読みの台詞で諦めたように黒髪の執事は言った。
「《 変身 》の魔法が使えるんでしょ? 私の言うように変身して晩餐を給仕なさい。それで許してあげるわ」
どのようにして覚えたかは不明だが、最近執事が新しく使うようになった魔法だ。
「かしこまりました」
致し方あるまい。たとえ悪い酒でも、これ以上口をはさむのは野暮なのである。
∽ ∽ ∽
「お待たせいたしました。晩餐の牛タンシチューです」
金色の長い髪を後ろで束ねた軍服の青年が平たい器に盛られた料理を給仕する。
軍服は王族の着るタイプの識別の派手な物であり、藍玉のように輝く瞳の収まったその顔と風貌は、何処かの国の美しい王子のようだ。
女主人のオーダー通りに変身した執事の姿である。
「出たわね! 見たことも無い料理」
眼の前に置かれた料理に「知っているわ。異世界の料理ね」と鼻を鳴らす女主人。
そしてちらりと執事の方を横目で見やる。
――いいっ! 凄くいいわ! 金色で長髪の美しい王子。
どきどきと胸を高鳴らせ、眼の前の平たい器からスプーンで一口スープを掬うと口に運ぶ。
複雑な味の組み合わさった濃厚なスープの味わいが口の中で広がる。
「美味しい! これ凄く美味しいわね」
スープの味に歓ぶ女主人に、軍服の青年が「ありがとうございます」と一礼する。
次いで料理の主役たる肉の塊にに手をつける。ごろりと肉厚に切られ、柔らかく煮込まれた牛のタンを掬って口に運んだ。
舌で押すだけで形を崩す肉は、口の中で旨味を残してほろほろと溶けてゆく。
「蕩けるように柔らかいわね」
ごくりと飲み込んだほどけた肉が喉元を通り過ぎ、ふうと満足そうに熱い息を吐く。
瞬く間にシチューの皿は空になった。
普段なら理由をつけてするおかわりも、好みの異性の前では慎ましやかで居たくなる。
「このしちゅーというのは、とても好みだわ。ねぇ?」
皿をかちゃかちゃと片付ける王子風に話しかける。
「そうですか。それならまた今度お作りしますね。」
好みの容姿の王子風をどうしても意識してしまい、髪の先をくるくると弄り、気恥ずかしそうにそわそわとする女主人。
「それで……明日からもその格好で務めて欲しいのだけれど……」
「……お断りいたします」
冷たいため息を一つ。それでも《 変身 》の魔法は解かずに一礼し、キッチンワゴンを押して主人の部屋から出る執事。
「王子様に振られちゃったわ」
部屋に残された部屋の主は小さくため息をつくと思う所を考える。
最近執事は口に香袋を忍ばせているみたいだし、なんだか妙に色っぽく感じる時もある。
一体何なのだろうか……
しかし、熱いタンシチューを食べた値千金の満足感に適う物はない。
料理は美味しかったんだし、邸の執事は美丈夫である。
《 変身 》の魔法は断られたけど、もうそれでいいではないか。
それだけで十分なのである。
リィリエは考えるのを止め、食後の満足感に身を任せて椅子にもたれるのであった。




