16皿目 ボルシチ 魅了された女吸血鬼
「美味しそうな血の匂い。貴方、とても美味しそうな匂いがするわ」
女吸血鬼はそういうと白い肌の美貌の執事の頬に手を添えた。
「食欲をそそると、言っているのよ?」
執事は爛々と輝く吸血鬼の紅い瞳に吸い込まれそうな感覚に陥る。魅了の瞳術だ。
吸血鬼は獲物が暴れぬように魅了して血を吸うことがあるのだ。
∽ ∽ ∽
その日の業務を終え、自室に戻った黒い髪の執事は、燕尾服の上着を脱ぐと、しゅるりとハンガーにかけた。窓の外から時折吹く夜風が肌にに心地よい。
やがて窓を閉めようと振り向いたときに執事は異変に気づく。
二階であるこの部屋を、窓の外から宙に浮いたように紅い瞳の女が覗いているのだ。
カーテンを閉めようと執事が動いた刹那。女は窓の隙間から、霧のようにすり抜けて部屋に侵入してきたのである。
吸血鬼は、霧や獣に変身するという話を執事は思い出した。
吸血鬼とは、夜の貴族とも言われ、生命の根源たる血を吸う不死の存在である。
吸血鬼に血を吸われ殺された人間もまた、吸血鬼になると言い伝えられている。
「初めまして、私はローラ。見ての通り吸血鬼よ」
驚く執事に、吸血鬼は挨拶をした。どうやら会話の成立する相手のようだ。
ローラと名乗った吸血鬼は、吸血鬼ゆえに年の頃は不明だが、見た目は二十歳前後位であった。
赤と黒を基調としたレトロな調子のドレスに、黒い外套を纏い、病的に白い肌に、金色の長い髪は肩先で波打ように綺麗なウェーブを描いている。
「お初にお目にかかります。邸の執事、レンゲと申します」
胸に手を当て、一礼。そうして冒頭に繋がるのである。
「貴方、私の魅了に耐えたの!それに、なかなかの美丈夫」
吸血鬼は愛おしいものを撫でるかの様に執事の白い頬を撫でた。
「気に入ったわ。私の執事にならない?」
「申し訳ございません。私は当家の執事を勤める者です。そういったお誘いをお受けすることは出来かねます」
申し訳なさそうに首を横に振る執事。
「そう、それは残念ね。こちらは、もう少し強引な交渉をしてもよいのだけれど?」
了腕を胸の前で抱いて、女吸血鬼は短いため息をつく。
――刹那。
ガタガタン!
「大丈夫か! レンゲ!」
突如、窓の外から、燕尾服を着た青く長い髪の美青年がするりと飛び込んで来た。
その頭には黒い山羊の角が生えている。
邸の庭に住み着いた夢魔であり、黒髪の執事の友人でもあるレーヴだ。
青い執事は、黒髪の執事を庇うように吸血鬼との間に立った。
そして、もう一つ。
とたたた、と廊下を走る音が近づいて来る。執事の部屋の扉がぱたんと開き、銀色の髪のメイドがひょこりと飛び込んで来た。
「レンゲ様! お怪我はございませんか!」
透けるような白い肌に尖った耳、邸妖精のアリアだ。
「吸血鬼め! 私の友人の首に傷をつけようというのならば、容赦はしないぞ!」
青い執事は端整な貌に牙を剥いて吸血鬼を威嚇する。
「淫魔の執事に……妖精のメイド? な、なによ貴方達! 一体なんなのよ!」
突然のことに驚き取り乱す吸血鬼。
「レンゲ、吸血鬼を倒すには、心臓に杭を打つしかない」
青い執事はそう言うと、手のひらに杭を出現させ構える。
「なんなのよは此方の台詞です! レンゲ様、銀の食器を持ってまいりました。これならば、少しは抗うことができます」
腰を落とし、銀のナイフとフォークを両手に構えるアリアは、猫のようにいつでも飛び掛りそうだ。
アリアの目には、一切の容赦をしない気迫があった。
邸妖精は縄張り意識が大変強く、自分のテリトリーに踏み込んだ他の妖精や魔物を全力で排除する習性があるのだ。
今にも襲い掛かりそうな青い執事とメイドを前に、吸血鬼は両手を上に上げて攻撃の意思が無いという意思表示をする。
「な、何もしないわよ! ちょっと良い執事が居たから声をかけただけじゃない!」
ただそれだけで、命を狙われそうになったのである。
たまったものではない。
「良い執事という所は共感するね」
相手に攻撃の意思がないと判断した青い執事は、右手に出現させた木の杭を消した。
しかし、妖精のメイドは両手のカラトリーを収める気配が無く、紅く小さな唇は容赦なく言い放った。
「何も無いというのであれば、このままお邸から立ち退いていただきます」
「アリアさん、少し待ってください」
黒髪の執事、レンゲが妖精を制する。
「ローラ様。よろしければ、なにか召し上がっていきませんか?」
「……そうね。お誘いに乗らせてもらおうかしら。でも、アリーオは料理に使わないでもらえると嬉しいかしら」
こうして吸血鬼は邸で食事をすることとなったのである。
「お待たせいたしました。ボルシチです」
強い酸味を感じる赤いスープが皿に盛られて給仕される。
「なかなか、良い香りね。酸味の利いたスープは、私の好むところよ」
香る酸味に白い鼻をひくりとさせると、ローラはふふんと腕を組んだ。
「レンゲの作るスープは絶品だ。これを機会に君もベジタリアンになると良い」
青い執事レーヴはふふふと笑い女吸血鬼に言った。
吸血鬼が血を吸うという行為は、血を介してのエナジードレインであり、実は対象は人でなくても牛などの家畜、野菜、料理などでも良いのだ。
ただし、代用になるからと言って、媒体によってエネルギーの風味は違うので個人の感じる美味い、不味い、美しい対象から吸収することへの悦楽など、吸血鬼ならでは拘りはまた別の話となる。
レーヴは夢魔であり、人の精気を吸うのが本来の食事の形であるのだが、この邸に住み着いてから、レンゲから給される野菜のソテーやスープから精気を摂取しているうちに、人から精気を吸わなくなってしまったのだ。
「それじゃあ、いただくわ」
スプーンでスープを掬い、口に運んだ。
強い酸味が血のように心地よい。
「な、なに? 何なのよ、この料理!」
一口食し、口に手を当てて驚く。
吸血鬼は長寿な種族だ。ローラもまた、見た目以上に長い生を生きている。
長い人生の余興として、嗜好品のように色々な料理を食べてきたが、この料理は、そのどれとも違った。
この料理は危険だ!ローラの本能がそう告げていた。あまりに美味過ぎるのである。
「美味しい、これは……止まらないわ」
次々とスプーンで口にスープを運ぶ。
唯でさえ旨味の宝庫であるトマテをベースにしたスープが、そこに溶けた野菜や肉の味で、さらにそれを奥深い物に仕上がっているのだ。特に酸味を好むローラは、見た目も血のように赤く美しいこのスープの魅力に、虜となっていた。
「駄目だわ……このスープがある限り、駄目になってしまいそう」
口の中の赤いスープを蕩けそうな表情で味わう。紅い瞳もとろんとしており、まるで恍惚の表情だ。
「これはいい。なんとも、味わい深いね」
レーヴもボルシチを愉しんでいた。軟らかく煮込まれた肉をスプーンで掬い口に運ぶ。
「肉も崩れる程に軟らかく、まるで蕩けるようだ」
もむもむと軟らかい肉を頬袋で転がす。
「ポトフも美味いが、このぼるしちというスープもとても美味いぞ!」
少し酸味の強い味わいも、お気に召したようである。
「美味しいよぉ……」
レーヴの隣の椅子で、妖精は焼き菓子を食べていた。アリアは、甘い菓子を好む。
普段大気のエネルギーを食事にしている妖精のアリアには、人間の料理は塩気が強すぎるのだ。
大好きな甘い菓子をはむりと一口齧り、白い歯を見せてにこにこと無邪気に笑う。純粋無垢な妖精は、今幸せの真っ只中にいた。
そして、今日はもう一つ特別な計らいを執事から貰えていた。
「甘ぁい、紅茶」
紅茶にジャムを一欠けら入れて貰えたのだ。
焼き菓子と甘い紅茶、彼女にとってこれは、至高のご馳走であった。紅茶の中のジャムを、スプーンの先で少し削り食べる。
「――~~~っっ!?」
脳まで蕩かすその甘さに、アリアは天使のような笑顔で、無邪気に歓喜するのであった。
「馳走になったわね。とても美味しかったわ」
玄関で夜風に吹かれ、女吸血鬼の金色のウェーブが靡く。
「また、ぼるしちを食べに来ても良いかしら?」
ウェーブのかかった髪を、右手でかき上げて吸血鬼は言った。
「はい。熱い紅茶を淹れ、次は玄関でお待ちしております」
少し冗談めいて、執事は胸に手を当てて一礼した。
女吸血鬼はふふりと笑う。
「それじゃあね、レンゲ。本気で執事に欲しいと思ったわ」
「ありがとうございます。ローラ様もお気をつけてお帰りください」
執事に見送られ、ボルシチに魅了された女吸血鬼は、玲瓏たる月の夜空に舞い上がると、暗闇の彼方に飛び去っていった。




