記憶
「ひとまずこれで終わりだな」
短剣を腰に収めながらジンが呟く。あたりには多くの死体が転がっていた。ゴウテンは自分がした事から目を逸らすように空を見上げ、クロウは人々に手を合わせて祈った。
ミコトがそこで漸く結界を完成させて立ち上がり、周囲を見て顔を青くした。結界を張る事に集中していた為、どんな状況なのか分かっていなかったのだ。ジンもゴウテンもクロウも皆、斬り殺した人々の返り血によって体を赤く染めていた。
「ヒッ」
流石の彼女も彼らを見て、恐怖と嫌悪から小さく悲鳴を漏らした。だが次の瞬間、
「ミコト様!」
空を見上げていたゴウテンが叫びながらミコトに飛びついて押し倒す。血溜まりの中に倒れ込んだ二人の上を雷が走り抜けた。
「何者だ!」
クロウが叫びながら、上空を見るとそこには肌を薄黒く染め、黒い眼の中に血のように赤い虹彩、そして真っ白な瞳孔を持った女が空中に浮かんでいた。
「あいつは……」
その女を見てジンは驚愕する。そんな彼の驚きをよそに、女はゆっくりと空から降りてきて彼らの前に立った。
「やあ、私を見捨てて逃げるなんて酷いじゃないか」
黒に染まった悪魔がニコリと笑った。
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彼女は自分こそが世界で一番不幸だと思った。愚かな両親のせいで人界で生まれた彼女は僅か9歳で世界の残酷さを知る事になった。
人間との共存などという無知蒙昧な幻想を唱えた彼女の両親は彼女を連れて他国を旅していた時に、山賊に騙されて襲われた。そこで、アトルム人とドワーフの血を引いた父は死に、エルフの母は彼女の前で陵辱され、なんとか彼女を連れて襲ってきた山賊を殺害して逃げ延びた。
漸く現実を知った彼女の母親はそのままティターニアに戻った。腹の中に忌むべき命が宿った事も知らずに。
傷ついた彼女達を、しかしティターニアは受け入れなかった。母は禁を犯して人界に出たため。そして彼女は愚かな両親の娘であるため。そんなつまらない事の為に彼女達は忌避された。母親の貧しい両親は彼女達を受け入れず、自分の娘を唆した男の子供である彼女の存在すら否定した。それでも、かろうじて彼女達を家に住まわせる事は許可してくれた。だが彼女達は後指を指され、彼女は同年代の子供達からいじめられた。
そんな状況が悪化したのは、母親が妊娠していた事が判明してからだ。お腹の父親はもちろん少女の父親ではなく、山賊の中の一人だった。それが分かったのは生まれた妹にアトルム人の特徴が一つも無かった為だ。
母親はそれを知り、新たに生まれたその命を嫌悪し、子供を育てる事を拒絶した。その子に名前すら与えなかった。だから代わりに少女が名をつけた。逆境に負けないよう戦士を意味するソールという名を与えられた自分とは異なり、幸福が訪れるようフェリスィアという名をその子に与えたのだ。
彼女達の母親はそれから数ヶ月後に心労で亡くなり、ソールは10歳にして妹を一人で育てる事になった。祖父母は彼女に厳しかったがフェリスィアには少しだけ優しかった。それは彼女と違って少しだけ耳が長く、ハーフエルフの特徴を持っていたからだ。彼らにとって父親が誰であろうが関係なかった。同族の特徴を持っているかどうかだけが大事だったのだ。ソールはそれが羨ましかったものの、彼女にとってもフェリスィアは可愛かった。自分の命をかけてでも守ろうと思った。
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15歳になると、ソールは美しく成長した。彼女をいじめていた子供達も、今では彼女に夢中だった。そんな視線を彼女は疎ましく思った。彼女にとって重要なのはフェリスィアだけだったからだ。フェリスィアと共にいる事だけが彼女の幸せだったのだ。
だが人生は残酷だ。ある日、彼女の体内から破裂しそうになるほどの莫大な力が溢れ出した。使徒としての覚醒だ。すぐに彼女は妖精女王ティファニアの前に連れて行かれ、正式に使徒として認められた。
彼女の祖父母は興奮し、踊り狂った。無能で無価値な少女。そのうち体で稼がせようかとすら思っていた煩わしいゴミが突然宝石になったのだ。貧しかった彼らはティファニアから彼女が受け取った金をすぐに強引に奪い取った。
使徒はティターニアで歓迎されるべき存在だったはずなのだが、彼らにとってソールは使徒になってすら見下す対象であった。一方、ソールはその時まで散々自分の事を何度も売りに出すと脅したり、口汚く罵ってきた彼らに仄暗い殺意が芽生え、祖父母を殺害しようとしたがフェリスィアがいたので堪えなければならなかった。
そうして彼女にとって本当の地獄が始まった。
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使徒になってから彼女は様々な訓練をする事になった。
使徒は人界で活動する必要があった。だから徹底的に知識を叩き込まれた。それまで学校にすら行かせてもらえなかった彼女にとって、新しい事を知るのは楽しかった。
使徒は人界で任務に就く必要があった。だから彼女は自分の持つ力を十全に扱えるように術の訓練を毎日行った。どんどん卓越していく力は彼女が失いつつあった尊厳を取り戻させた。
使徒は優れた肉体を持つ必要があった。だから彼女は徹底的に肉体を強化した。鍛えた体はそのまま彼女にとって自信を持たせる一因となった。
使徒は敵を誘惑する必要があった。だから様々な快楽の与え方を学んだ。老若男女問わず、彼女は相手にした。体の中で汚れていない場所はもうなかった。
使徒は様々なものに対して耐性を持つ必要があった。だから彼女は毎日のように致死量ギリギリの様々な毒を飲まされた。死にたいくらい苦しくても死ねない辛さを彼女は知った。
使徒は痛みに強くなる必要があった。だから多種多様な拷問を受けた。悲鳴を抑えられるようになるまで何度も何度も繰り返された。彼女の心は痛みに慣れていった。
使徒は強くなる必要があった。だから魔獣や魔物が入った檻の中に放り込まれ、何度も死にかけながら、命を奪う術を身につけた。
使徒は精神的にも強くなければならなかった。だから恐怖に耐えられるように薬物を投与され、狂いそうになる程恐ろしい幻覚を何度も見せられた。だが彼女はどうしても慣れる事はなかった。
使徒は冷酷である必要があった。だから人を殺す訓練を繰り返し行った。その時が来たら躊躇わないように何度も繰り返し人を殺した。それこそ赤子から老人まで何人も。幸いな事に彼女はこれが得意だった。寧ろ楽しかった。
そんな毎日の繰り返しだった。ソールの心は徐々に摩耗していった。
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覚醒してから5年。20歳になったソールは恋を知った。相手は純朴な青年だった。研究が好きな彼は彼女がどんな存在であろうと関係なかった。彼にとって彼女は使徒である前にただの一人の女性だった。
ソールはそれを知って喜び、彼らの関係はすぐに友人から恋仲へと変わった。10歳になったフェリスィアは大好きな姉が取られる事を少し不満に思ったようだったが、同時に姉の幸せを喜んで祝福してくれた。
それからの数ヶ月間はソールの人生の中で、最も幸せな時間だった。愛する恋人がいて、最も大切な妹がいて。そんな彼らといつまでも共に過ごし続けたいと心の底から祈っていた。
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使徒に愛情は不要だった。それは任務に支障を来すものだった。だから彼女は愛を手放さなければならなかった。彼女は何も知らなかった。
いつものように殺人訓練の為に呼ばれた彼女の前に、覆面をして椅子に縛られた男と少女が連れてこられた。どうやら兄妹のようだった。彼女は何も疑問を持たずに、まず少女を笑いながら拷問した。口に何かを詰め込まれたらしい少女のくぐもった悲鳴が聞こえた。30分かけて、少女が動かなくなるまで彼女は楽しんだ。
少女を先にしたのは男に恐怖と無力感を与える為だった。妹を守れないなど、兄としてあってはならない。ソールにとって、フェリスィアを守って生きてきた事だけが誇りだった。つまり彼女からすれば妹を守れないのは尊厳の喪失に等しかった。それをこの男に突きつけてから、またしても拷問を楽しんだ。男の方は倍の時間をかけた。
全てが終わった後、いつもと違って覆面を取るようにと命令された。彼女はどんな愚か者がこんな目にあったのか、鼻歌混じりで男の覆面を取り、驚愕した。昨日の夜、愛を交わした男が虚な瞳でこちらを見ていた。ソールはさらに少女の覆面も取るように命令された。
それを拒否すると、教官からこれが最後の訓練だと告げられた。男には妹がいなかったのをソールは知っていた。だからソールは再度拒否した。何を言われようと、この先どんな責め苦を受けようとそれだけはしないと叫んだ。誰かが彼女の体を押さえつけた。彼女は束縛から抜け出そうと必死でもがいた。
血だらけの少女が座る椅子の前に強引に連れていかれ、少女の覆面に顔をぶつけさせられた。呼吸音は聞こえなかった。さらにずるずると胸まで顔を引きずり下ろされて、耳を当てさせられた。心音はもう聞こえなかった。
ソールの手が何かの力によって無理やり動かされて、その覆面を剥ぎ取った。
ソールの悲鳴が部屋の中に響き渡った。
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『目覚めたか』
横から声をかけられたのでそちらを向くと、そこには同じ人とは思えぬほど美しい男がいた。
「あなたは……」
『記憶を読ませてもらった。愚かしい事をするものだ』
同情するような事を、無感情な声で男は呟いた。ソールは何を言っているのか分からなかった。だが心を苛んできた何かから解放されたかのように気分がスッキリしていた。
「あなたは一体誰なんですか?」
『我はアスル。お主に新たな命を与えた者だ』
ソールは目を丸くする。命を与えるのは人間の範疇を超えた、まさしく神の御業だ。
「私に一体どうしろと?」
その質問にアスルが笑う。
『なに、難しい事ではない。我の代わりに鬱陶しい蠅どもを消してきて欲しいだけだ』
至極簡単な依頼だった。だがそれは彼女の心に響いた。まるで麻薬のようだった。それしか考えられなくなり、心の底からアスルの願いを叶えたくなった。彼女は跪き、首を垂れた。それを見てアスルは満足そうに頷くと、行けと小さく命じた。それを受けて彼女は思い切り飛び上がった。




