教授
「……変転の際に生じるエネルギー値を元にして、魔物の頑強性は決定づけられる。そのため、そのエネルギーの過剰注入の元となる複数の魔核の移植がより強大な魔物の作成に繋がる。この考えを用いれば人工魔人の作成も可能となる」
大量の本や衣類や食べ残しなどが散乱した汚部屋の一角に置かれたソファに横になりながら、腰まで伸びたボサボサの金髪に厚ぼったい丸眼鏡を掛けた肉感的な体型の20代前半の女が既に何度も読んだ論文を改めて読み返していた。
「人工魔人か。全く兄貴は今どこにいるのかねぇ」
そう呟く彼女は、魔に魅せられて堕ちてしまった自分の兄であるディマン・リーラーを思い出す。2人の父親であるイヴェル・リーラーは確かに人として踏み外した研究を行なった。しかしその本質は魔物になった人間を元に戻したいというものだった。
彼が狂ったのは彼の妻、つまり彼女の母親が魔物となって娘であり、彼女の姉である少女を殺し、その後イヴェルの前で殺されたからだ。だがディマンは違った。ディマンの望みの本質は自分の手で最強の存在を創り、それを彼ら家族を追放した世界に見せつける事だった。
「何でも出来るお前にはこの哀れな願いは理解出来ないだろうな」
10年以上も前、最後に会った時に言った兄の言葉を思い出す。そしてその時の兄の表情も。幼い自分を育ててくれた兄のいつもの穏やかな表情ではなく、深い憎しみの籠った目を彼女に向けてきた。優しさの裏には、妹の才能を受け入れられない醜い妬みの感情が潜んでいたのだ。
「あんたみたいな凡人で気狂いの願いなんか知るかよ」
イブリス・リーラーは苦々しげに顔を歪めてから、ソファの横に論文を置き、眼鏡を外して眠りについた。
〜〜〜〜〜〜〜
「もー、教授、いい加減に起きて下さい。授業ですよ!」
ドンドンと部屋の外でノックの音が聞こえてくる。イブリスは面倒そうに起き上がると床に散らばるゴミや本を蹴飛ばし、尻を掻きながらドアを開けた。
「って、またですか! 早く服を着てください!」
ドアの前に立っていた15、6歳の少年はイブリスが服を着ていない事に顔を赤らめる。イブリスは教授でありながらも、まだ20代前半であり、彼からしたら歳の近いお姉さんのような印象なのだ。その上美人である為、少年にとってはいささか刺激が強すぎた。
「おっと、また脱いでいたか。お、なんだ興奮したのか? 一発ヤってくか? 私もちょうどムラムラしてたから別にいいぞ」
片手で輪を作り、そこにもう片方の手の人差し指を抜き差ししながらニヤニヤ笑う。
「セっ、セクハラですよ! いいから、みんな待っているんで早く来て下さい!」
少年はさらに耳まで真っ赤にさせて叫ぶ。
「そりゃ残念。じゃあ他の奴らには私が準備している間、教科書の256から270ページを読んでおく様に伝えておいてくれ」
「分かりました。すぐには来られないんですか?」
全裸のイブリスの方から顔を背けつつ、少年が尋ねる。
「うむ、今日の授業で使う資料が部屋のどこかに埋もれていてね。探すのに10分はかかるだろう」
その言葉を聞いて少年が呆れた様に溜息をついた。
「はぁ、またですか。3日前に掃除したばかりじゃないですか」
少年がイブリスのゼミに入り、先輩から彼女の世話係の役目を引き継いでから既に1年ほど経過していた。その間、セクハラを受けながらも部屋掃除をさせられたり、毎日のように食事を作らされたり、危険な実験の助手をさせられたり、おもちゃにされたりと散々な目にあってきた。見返りもあるが割に合わない。
「まあまあ、この前みたいに後でヌいてやるから先に行っててくれ」
少年はその言葉で最後に会った三日前の時の事を思い出し、股間に血が集まるのを感じる。
「わ、分かりました。べ、別にそういう事をしたいとかそういう訳ではないですからね! 教授の命令には断れないから従っているだけで!」
「はいはい、分かった分かった。さあ、早く行きなさい」
イブリスがそう言うと、少年は前屈みになりながらその場からいそいそと去って行った。その後ろ姿にイブリスはクスリと笑った。
「全く、からかいがいのあるガキだこと」
部屋に戻ると積まれていた洗われた下着から適当に選んだものを身につけ、さらにシャツとズボンを着て、最後に白衣をその上から着込んだ。それから部屋の中を探し回り、ようやく授業の資料を見つけると、だるそうに部屋の外を出た。太陽に焼かれてうんざりとした顔を浮かべながらも、イブリスは大講堂へと向かった。
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「伝承にある無神術とはつまる所、無属性の術を意味する。では無属性とは何なのか? 誰か考えのある者はいるか?」
200人ほどの生徒達が集まった大講堂でイブリスが尋ねる。すると100人以上の生徒が一斉に手を挙げた。
「おぉ、朝一から元気だな。それじゃあ……モタト、言ってみて」
浅黒い肌の少年が立ち上がる。
「はい、無属性とは特定の属性に偏らない純然たるエネルギーを意味します。無神術は他の神術や法術とは異なり、親和力というものを有しません。だから無神術の使い手はこの世界の外側にある虚無に干渉し、その際に生み出されたエネルギーを利用して本来形を持たない無形の事象を有形、つまり形へと変転させます」
「ふむ、教科書通りの回答をありがとう」
イブリスがそう言うと、モタトは満足そうな顔で着席した。
「今モタトが言ったように通説では無神術はこの世界の外、虚無に干渉する能力だと言われている」
「でも先生、虚無って本当にあるんですか?」
「うん?」
1人の女生徒が手を挙げながら質問する。
「だって、無神術の使い手って、歴史上数人しかいないんでしょ。どうやって調べたんですか?」
「正しい疑問だなソフィー。私も昔そこが気になったから虚無というものを調べ始めたんだ。それで、結論を言うと虚無は確かに存在する」
「それじゃあ、何で虚無に触れるとエネルギーが生み出されるんですか? 何もないならエネルギーが生まれようがないじゃないですか?」
再度質問をするソフィーにイブリスは嬉しそうな顔をする。
「確かに便宜上虚無と言われているが、実際の話、その名前が不適切であるという事は周知の事実だ。虚無とは本来何もない事を意味するのに、実際には虚無と呼ばれる場所はエネルギーが充満した空間だからだ。ならばなぜそこを虚無と表現するのかというと、確かにそこにあるはずなのに、我々には観測する事が出来ないからだ。存在するはずなのに知覚する事も出来ない虚にして実の空間、それゆえにそこを表現する為に『偽りの無』という意味を込めて虚無と呼ぶのだ」
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講義を終えると、イブリスは研究室に戻り、途中にしていた研究を再開する。彼女がメインで調べているのは父親同様に魔物についての生物学である。目的も父親と同じく、魔物となった人間を元に戻す為である。ただし父親が人体実験をしたのとは異なり、彼女の場合は動物実験程度に収まっている。それなのに彼女はすでに癒着したばかりの魔核であれば安全に肉体から分離させる事に成功していた。
これは単に彼女の能力の高さによるものではあるが、父親の実験記録を彼女が有していたおかげでもある。当時5歳にも満たなかった彼女とその実験に参加していた兄に、父親が実験記録の一部を託し、チェルカから逃した。その記録は凄惨なものだったが、そのおかげで彼女は今こうして魔生物学の権威として教鞭を取っている。そんな彼女が無神術の研究をしているのは、虚無という空間に干渉する唯一の手段が無神術であるからだ。
ただしこの研究は行き詰まりつつあった。何せ研究しようにも資料として扱えるのは、当時無神術で作られたもの程度なのだ。分解する事も禁止されているので、理論を確認するための実験を行う事が出来ない。
「理論として、無神術であれば、肉体の変転すらも抑える事が出来るはずなんだがな。まあとりあえず今はこちらに集中するか」
そう言って彼女は目の前にある記号の羅列に目を落とす。数百年前に滅んだ国で1000年以上前に使われた言葉であり、ラウフ・ソルブの鏡の制御法が書かれているのでは、と言われている本の写しだ。実験に行き詰まった時の暇つぶしに利用している。
「それにしても300年前に失われた国で1000年以上前に使われた古文て、そりゃあ難しすぎるよなぁ。ただでさえ古文は現代と文法も単語も異なるのに。まあそれはさておき……前回はどこまで考えたっけ……確か古代ラーゲル語系統の……」
そんな事を言いながら、その日は夜遅くまでイブリスは解読に没頭した。




