隔絶した力
蒼気を纏わせた拳で殴りかかる。しかし接触する瞬間、またしても両手の指を合わせるあのポーズをとり、レトは呟く。
【『震波』】
その途端、イースの体が揺れる。凄まじい振動が波のように彼の内部から発生し、硬直する。グラグラと激しい目眩に襲われ、立っていられなくなる。
「な……にを……」
【ただ内から揺らしただけよ。これだけでは死にはしない】
隙だらけのイースに、しかしレトは止めを刺さない。自分の肉体がどの程度細かい動作ができるかを確認しているのだ。
【『裂』】
今度はイースの血管が次々に破裂した。
「ごはっ」
あらゆる所から血が噴き出る。内臓を損傷したため口から血を吐き出し、目からは血の涙が溢れ出した。どう考えても致命傷だ。
【『戻』】
また指を合わせ、一言呟く。その瞬間、イースの肉体が元に戻る。ただし失った右腕だけは別だった。
【『音』】
イースに向かっていったその言葉は彼の耳元に到達する頃には巨大な音となっていた。鼓膜が破れ、耳から血が流れる。
【『雷』】
空中から雷が落ちる。全身を雷に覆われ、イースは死を覚悟した。
【『戻』】
だがまたしても肉体が強制的に元に戻される。やはり失った腕だけは戻らない。『戻』とは状況的に肉体の時間を巻き戻しているのだろうとイースは推測する。しかし、それにも限界があるのだろう。彼の感覚では恐らく限界時間は3分ほどであると考える。ただしそれも予測でしかないため、本当はどうなのか分からない。それほどまでに力が隔絶している。
【『幻』】
突如イースの眼前に地獄のような光景が広がる。人々があらゆる方法で死に、それを見ていた自分の体が溶け出す。恐怖で叫ぶが聞く者はいない。次の瞬間、肉体は再生し、目の前には無数の鳥型の魔獣がいた。嘴の下には凶悪な鋭い歯が並んでいる。何が起こるか推測したイースは逃げようとする。しかし足はいつの間にか啄まれて骨しか残っていなかった。気がつけば一斉に鳥達がイースに向かって飛んでくる。鳥葬という言葉が頭をよぎりながら意識を失った。
だがまたしても意識が覚醒すると、今度は信頼する部下達と息子が目の前にいた。彼らはそれぞれ手に研がれた鋭い剣を持っていた。息子のアスランが徐に近寄ると、イースの指を一本切り落とした。片腕を切り落とした時でも痛みに耐えた彼が悲鳴をあげる。心が摩耗し、耐えられなくなったのだ。それから部下達が次々と近寄ってくる。死んだはずのアレキウスもいる。彼らは次から次へとイースの肉体を削っていく。やがて漸く死を感じたところで、また場面が変わり、新たな死が生み出された。それが666回も続く頃には既に彼の精神は崩壊していた。
【『戻』】
そんな彼の耳に呪いのような言葉が届く。途端に精神が強引に引き戻された。気がつけば目の前にはレトがいた。先程まで体験していた事が幻であった事を理解する。だが精神へのあまりにも重い衝撃にイースは膝から崩れ落ちる。そんな彼をレトは愉快そうに笑いながら観察する。
「なぜ……殺さない?」
弱々しくイースが呟く。たった10回の術の行使で彼の心は完全に砕けていた。
【かかかかか! 先程までの威勢はどうした?】
「くっ……!」
その言葉にイースはよろめきながらも立ち上がる。
【そうだ。もう少しこの体の実験を手伝ってもらうぞ。さっきの男はお前よりも脆かったからな。まだ完全にこの体の力を把握できていないのだ】
無慈悲なレトに、イースは覚悟を決めて飛びかかった。
【かかかかか!】
高らかに笑いながら、またしても両手の指の先端を合わせる。
【『重』】
肉体に凄まじい重圧がかかり、地面に貼り付けられたように動けなくなる。バキバキと骨が潰れ、折れていく音と、体の内側からグチャッという内臓が潰れる音が聞こえてくる。
【『戻』】
また肉体が元の状態に戻る。
【『腐炎』】
ただの炎ではなかった。いつぞやレヴィが放った黒い炎。それよりも禍々しい何かだった。黒い炎はドロドロと、まるで粘性の液体であるかのように質量を持っており、イースの肉体に触れた瞬間、燃えるのではなく、その箇所を腐らせ始めた。
「ぐあああああああああ!」
肉が腐る痛みに耐えられず、悲鳴をあげる。
【『戻』】
肉体が元の状態に戻る。
【『氷炎』】
今度は絶対零度の炎だった。あまりの冷たさに肉が凍る。体が全く動かなくなった。意識が飛びかける彼の耳に、またしてもあの言葉が届いてくる。
【『戻』】
強引に治され続ける肉体を見続ける彼の精神は本来なら狂っていただろう。それなのに、『戻』という一言が彼の精神すらも元の状態へと回帰させ続けた。この状況から抜け出すには相手を倒す以外に道は無い。それなのに両者の間には隔絶した壁が存在していた。
〜〜〜〜〜〜〜
『うわっ、えげつないねぇ』
青年の呟きに、嬉しそうに女性が頷いた。
『そうねぇ。本当に素晴らしい出来だわ』
『イースっておばさんが作った使徒の中でも上の方の実力だったよね。このままじゃ死んじゃうけどいいの?』
至極真っ当な質問に、フィリアは笑う。
『いいのよ。これはレトちゃんの試金石なの。まだ復活したばかりでどれほど強いのかっていうね』
『ふーん。改めて見ると、今回の法魔は随分ととんでもない化け物だね。あれじゃあ今のジンくんには無理そうだ』
『ええ、ええ。だからこそ彼にはもっともっと強くなって欲しいわ。じゃないと面白く無いもの』
『はいはい。精一杯頑張りますよ』
ラグナは苦笑しながらポリポリと右頬を掻いた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ひゅうひゅうと呼吸しようとして、息ができない事を何度も実感する。自分の中になければならないはずのモノが、心臓を残して、全て目の前にいるレトの足元に転がっていた。レトは肺を持ち上げると、それに齧り付いた。
しかし、それをイースは認識できない。目が残っていなかったからだ。『転移』の実験という理由で体から次々と大切なモノが奪われていく事実に恐怖しても、イースには何も出来なかった。
「…………」
殺してくれと心の中で叫ぶも、声帯が無いため言葉にならない。逃げたくても足の骨はすでに彼女の足元に転がっている。そんな状態なのに彼女の一言で全てが元に戻る。
もうそんな状況がどれくらい続いているのかイースには分からなかった。30分かもしれないし、1時間かもしれない。あるいはそれ以上か。もはや彼には国を守るという考えは、強い意志は残っていなかった。あるのはただ死への渇望のみだった。
【『戻』】
〜〜〜〜〜〜〜
ハンゾーの肩を借りながら、ゆっくりとジンは森の中を進んでいた。急いでシオンを追いかけるつもりだったが、血を流しすぎたためか体がついてこなかったのだ。
「もうすぐそこです」
邪悪な気配を追いかけて、漸くそばまで来た。
「いた」
遠目にシオンの姿を確認する。そしてその前で倒れているイースの存在も。
「あれはイース王か」
「そのようです」
突然、イースの体が頭だけ残して破裂する。確実に死に至る攻撃だ。それなのに次の瞬間信じられない事が起こった。まるで時間を巻き戻したかのように飛び散った無数の肉片が宙を舞い、イースの元へと集っていき、彼の肉体を再構成し始めたのだ。
瞬く間に完全な肉体に戻ったと思えば、今度は骨が一本一本歪な方向に向き始める。イースがあまりの痛みに絶叫する。以前会った時に感じた、絶対的な強者としての自信はそこにはなかった。そうなるまでに一体どれほどの拷問のような戦いが繰り広げられたのか、容易に想像ができた。
「なんと酷い」
ハンゾーが呟く。シオンの顔をして楽しげにイースの拷問を繰り返すレトを見て、ジンは衝撃のあまり、呼吸が出来なくなる。現実を受け入れるのを頭が拒否する。しかしいくら否定しようとも、目の前の光景から、もはや自分の知るシオンはどこにもいないのだと理解した。
「シオン……」
涙が自然と溢れてきた。すぐ近くにいるのにもう彼らの距離は縮まる事は無い。これから始まるのは血に塗れた闘いだ。そこに愛は無く、残るは痛みだけだ。何もかも捨て去って、死ぬ事が出来ればこの現実から逃げられるのではないかと、最も楽な考えが頭を過ぎる。
『あいつがいないなら、それもいいか』
ジンはそう思い、立ち上がった。そしてハンゾーの止めようとする声も聞かず、ふらりとレトとイースの前に現れた。
「よう、シオン。楽しいか?」
その声に、レトが振り向いた。
【ああ、楽しいとも】
そう言いながらも、彼女の瞳から涙が一雫溢れた。




