ナギの記憶2
気がつくと私は水槽の中にいた。息苦しくて息苦しくて必死になってガラスを叩いた。するとガラスの向こうにいた男の人が慌てたように駆け寄ってきて、ガラスを壊してくれた。一気に流れ出す水に体が引っ張られて床に叩きつけられた。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」
寒さに震え、咳き込みながら辺りを恐る恐る見回す。目の前の男の人が興奮したように何かを叫んで私に近寄って観察してきた。服を着ていない事に気がついて、私はとても恥ずかしくなって思わず悲鳴をあげていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「ここはどこですか? あなたは誰なんですか?」
受け取ったローブで身を包みながら男の人に質問する。するとその人は私に色々な事を話してくれた。どうやら私が今いるのはオリジンという所の地下にある研究施設らしく、彼はそこで色んな実験をしているらしい。
「何か自分の事で知っている事はあるかい?」
変わった質問だった。だけど不思議な事に何かを言おうとしても、何も出てこなかった。何も、覚えていなかった。自分が何者なのか分からなくてゾッとした。
「……分かりません。私は、私は一体誰なんですか?」
その質問に、その男の人は少し残念そうな顔を浮かべてから、私の事について話してくれた。私の名前はナギで、男の人は私のお父さんなのだそうだ。
「ごめんなさい。何も覚えていないんです」
そう言うと、お父さんは気を取り直して、これから思い出を作っていけばいいと言ってくれた。ふとお父さんから目を逸らし、私が出てきた水槽の方に顔を向けると、そこには同じ顔の女の人が何人も何人も私と同じように水の中にいた。私はそれを見て酷く気味が悪くなった。
「この人たちは……?」
「ああ、彼女達は君の姉妹達だ」
「姉妹? 弟じゃないんですか?」
「弟? 見ればわかるように彼女達は女の子だよ」
「……そうですね。なんで弟なんて言ったんだろう?」
それから私はお父さんの仕事を手伝う事になった。初めの内は気分が悪くなるような実験の手伝いをする事が多かった。だけど次第に慣れていった。ただ自分と同じ顔の姉妹達が実験に扱われる事だけはどうしても慣れなかった。あと、たまにお父さんは私の姉妹と裸で抱き合っていて、気持ち悪かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
「この少年の治療をお願いしたいんだけどいいかな?」
お父さんに紹介されたその男の子は、お父さんの実験のたびに心を壊した。私はそんな彼を治療し続けた。少しして、男の子と仲のいい女の子が怪物になった。せっかくのお話の相手だったのに、とお父さんに文句を言ったけど、ちょうどその頃に別の男の子を拾ったので、その子で我慢する事にした。ついでに治療をしていた男の子も化け物になったので、こっそりお父さんへの仕返しに彼ら2匹を逃した。あとで散々怒られたけど。
男の子を拾ったのは、いつもの様にお父さんの実験に付き合った後に街をぶらついていた時の事だった。辛い事があったみたいで、すごく荒んだ目をしていた。何となく、無視する事が出来なくて、彼に手を差し伸べた。
彼の名前はエルマー・オプファーといった。その名前には聞き覚えがあった。少し前に実験で扱った女の子の苗字と同じだった。どことなくその子の面影もあって、もしかしたら彼女の弟なのかなと思った。彼を拾う事にしたのは気まぐれだった。
初めは私の事を警戒していた。でも次第に私に懐いてくれた。私は不思議な事にそんな彼に既視感があった。だから私の方もエルマーに優しく、彼が望むように接した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
近頃、記憶に空白がある。今日も気がつけば、外にいた。不思議な事に異常なほどに感じていた飢餓感が無くなっていた。
それからすぐに『界神祭』という祭りがあると聞いて、お父さんに内緒でエルマーを連れて私はリウーネの街に向かった。
街はお祭りということもあって、ものすごく賑わっていた。エルマーと色んな出店を見て回ってすごく楽しかった。だけどはしゃぎすぎていつの間にかエルマーと逸れていた。不安になって、エルマーを探している内にどんどん暗い通りを進む事になった。気がつくと男達につけられていた。そして男達は私を犯そうとした。私は怖くなって意識を失った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
気がつくとあたり一面血の海だった。
「あれ? 何これ?」
私のすぐ近くには先ほどまで生きていたはずの男たちが様々な死に方をしていた。私は薄気味悪くなって慌てて、すぐそばに落ちていたマントで自分の体を包む。痛みはないため、なぜかは分からないが乱暴はされなかったようだ。うっすらと血のようなもので濡れているマントに不快感を感じるも、肌を隠すためには我慢するしかない。それから私はまた道を探すために、その場から逃げるように走り出した。
しばらくして私は死にかけの男の子を見つけた。その子を助けようとしたら、突然現れたその子のお姉さんが私を突き飛ばしてきた。そして……
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……俺のこと、分かりませんか」
泣きそうな顔をしたその子は、私にそう聞いてきた。その顔を見ただけで、私の心はかき乱された。
「ごめんなさい。人の顔を覚えるのは苦手じゃないけど、多分あなたとは会ったことがないと思う」
そう答えると、彼はより一層辛そうな顔を浮かべた。
「すみません。あなたとよく似た知り合いがいて……」
男の子は力なくつぶやいた。
「その人は今どうしているの?」
思わず私は聞いてしまう。
「……死にました。いや、俺が殺しました」
その言葉が嘘ではない事を、私は感じた。それ以上に不思議な事に、私はそれを知っているような気がした。でも、私はそんな事ないと慰めたかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
死にかけていた男の子の治療が終わった私は、既視感のある彼に自分の事を告げる事にした。
「あの、私、15歳ぐらいまでの記憶がないんです。でも、あなたを見たことがある気がするんです。だから、もしかしたらあなたと会ったことがあるかもしれません」
その言葉を聞いた彼はあらゆる感情が抜け落ちたような表情をした。少し怖かったけど、私は彼ともう一度会ってみたかった。
「だから、もしよかったらもう一度会えませんか?」
「……ああ」
私のお願いにぶっきらぼうにそう答えた。もしかしたら私の失った記憶を彼が持っているかもしれないと思って、少しだけ期待に胸が膨らんだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
また私はいつの間にか外にいた。自分の服に血がついていた。正直血がついている事には対して何も感じなかったけど、記憶が抜けている事がひどく怖かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ジン君からお姉さんの話を聞いてから、私は自分の話をした。だけどやっぱり私の記憶に何も刺激はなかった。
「そういえば、朝スラムで起きた事件を知っていますか?」
なんの話か知らなかったのでそう聞き返した。
「スラムで? 何かあったの?」
でも、人が魔人か魔物に喰い殺されるなんてよくある事だ。それに私のお父さんだって、実験でいっぱい人を殺している。私もその手伝いをしてきた。
「そうなんだ。可哀想に。でも仕方ないよね」
そう言うと、ジン君はすごく驚いていた。だけど人を喰い殺す事の何が悪いのだろうか。人の命はそんなに大切なんだろうか。彼が何に起こっているのか全く理解出来なかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
お腹が空いて堪らなかった。目についた食べ物を口に入れる。扉を開けては中にあった食べ物を何人も喰べた。だけどお腹はずっと空き続けた。
気がつけば森の中にいた。心配そうに話しかけてきた食べ物をまた喰べた。喰べて喰べて喰べて。それでも足りなかった。ふと自分の喰べた物を見て、ようやくそこで、自分が何を喰べていたのかを理解した。驚いたけど、それよりも、自分の姿をどうしようかと思った。そこら中、血だらけだったからだ。これじゃあ、街には戻れない。だからエルマーを呼び出して、その間に近くにあった洞窟に身を隠した。
〜〜〜〜〜〜〜〜
エルマーを喰べるとすぐにジンが来た。私はすごく嬉しくなった。だって、今度こそジンを喰べる事が出来るんだから。
口の中に広がるジンの味はどんどん私の記憶を呼び覚ましていった。ようやく私は私が誰なのか知る事が出来た。でもそれと同時にどんどん頭の中に声が聞こえてきた。その声は私に言った。
【そろそろ変わるがいい】
その言葉に私は逆らう事が出来なかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜
ぼんやりと、私はジンと【レト】の戦いを見ていた。どうにかして自分を止めたかった。さっきまで私を支配していた食欲は失せて、それ以上にジンと戦っている事、殺してしまうかもしれない事が怖かった。でもどうしようもなかった。体は私の言う事を全く聞いてくれなかった。
だからジンが死なないでくれる事だけを誰かに祈ろうと思った。だけどこの世界の神様達が人の事をおもちゃとしか見ていないことを、もう私は知っていた。
私の思いが通じたのか、ジンは【レト】の核を破壊した。私はそれでようやく自分の意識を表に出す事ができた。
「ごめんね。また苦しめちゃって」
私は涙を流しながらジンに謝る。ジンも顔をくしゃくしゃにして、全然出来ていなかったけど、頑張って涙を堪えようとしていた。
「こっちこそ、ごめん。また姉ちゃんに多くの人を殺させてしまった」
「うん。でもジンならきっと止めてくれるって信じてた」
「……ああ。だって約束したから」
「うん。だから……ありがとう。今度こそ、本当にさよならだね」
私は心の底からそう願う。死んだら今度こそまた地獄に行くかもしれない。だけど、それでももう生きている事が、自分の罪の重さが耐えられなかった。
「いつまでも、愛しているよ」
体が光に包まれ、粒子になって消えていく中で、私はジンに笑いながら伝えた。
〜〜〜〜〜〜〜
「……あ、あ」
シオンは朦朧としながら呟いた。目の前にはディマン・リーラーが嬉しそうな顔で彼女を観察していた。
「目覚めたか? さて、お前は今どちらなんだ?」
「わ、私は……僕は……」
自分が何者なのか分からなかった。彼女はどの記憶が自分の記憶なのか分からなかった。
「ふむ、記憶に混濁が見られるか。まあ、予想通りではある。さて、お前はまだ闇法術が使えないのだったな」
「う……あ……」
「予想ならばお前の魂には全属性の法術を操る法魔が取り憑いている。それの覚醒を促すならば、やはりそこを刺激してみるか」
薬品を入れた注射器をシオンに見せつける。
「闇法術は限られた人間にしか扱えないというのが通説だが、実はある過程を経ればかなりの高確率で後天的に素養のない人間に身に付けさせる事が出来る。学校で教えた事は無いがな」
まるで教師のように朦朧としているシオンにディマンは語る。
「すべての法術は人が体内から生み出しているという通説は、実は違う。基本的に法術とは自分と親和性の高い自然に存在する力に干渉して発現させている。つまり、火の親和性が高ければ、火法術を。水ならば水法術を。風なら風法術を。フィリア様が我々人間に与えた力とはこの自然の力への親和性であり、それを基に様々な事象を発現させる力を総称して法術という」
ディマンはシオンの右肘に針を突き刺す。
「しかし光と闇だけは違う。光は魂に関連し、闇は精神の活動に依存する。つまりこの二つだけは人間の体内にのみ存在する力によって発現する」
注射器に含まれた液体が徐々にシオンの体内に注入されていく。
「この精神の活動というのが大切でな。魂と異なって精神に干渉する事は酷く容易い。そして、闇法術は対象者に深い絶望を与える事で、後天的に身に付けさせる事が出来る。まあ、俗に言う闇堕ちというやつだ。悪くなるのではなく、闇法術を身につけるという意味になるがな」
ディマンは薬品を全て注入し終えると、注射器を引き抜いた。
「さて、話は逸れたが、今お前に注入したのは一種の幻覚剤だ。ナギと法魔の精神との結びつきが強くなっている今、お前の精神は脆く、壊れかけている。この状態で、更なる絶望を加えれば、お前は闇法術を手に入れられるだろう」
シオンの耳元にディマンは顔を近づけて小さく囁く。
「いい夢を」
「あ……あ、ああ、ああああああああああ!」
血が流れるほど手を強くシオンは握る。体がガクガクと震え出す。悲鳴が部屋中に響き渡った。




