表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史とDNA

日本の少数ハプロ続

作者: とびうお君

 残りのハプロもやってみようと思う。まずはあまり重要でないほう。01B1。これは日本では少ないってのが重要。O1系が少ないって点で直接渡来があったとしたら山東省が濃厚(元々半島の農具に山東省の影響がある)だって点。ただし遺伝的に影響を与えない程度ならいくつかあったと思う。唐突に江南などの物品がちらほら出るから。ただし文化ってほどの広がりが無い。


 縄文系と融和していった半島系に対してどうも直接渡来じゃないか?と言われてる地域は固まって住んでるような感じが見えるらしい。長崎がその候補として上げられる。あそこに出島が合ったのは偶然じゃなくて、昔から南方から来た場合五島列島にぶつかる事が多いらしい。そうじゃないと半島の方にいってしまうらしい。


 ただし、直接米の原産地から渡来があったのじゃないか?程度の推測の域を出ないけど。


 これの場合東北地方に多いのと、中国人にそれなりにいるので、その混じってきた程度しか日本にはない。しいて言うなら何故か北海道が多い。渡来の入り口である九州より多い。むしろ一番低くなるかもしれない地域。アイヌでは出ない。だから不思議になる。一番の可能性としてはデータのばらつき。サンプル数が少ないと平気で全国平均1%程度の物が、5、6%出てしまう。


 以前インドネシアでO1B2の日本に多い47Zが8%も出るのは無視できないと思ってたけど、別のデータでは1%以下だった。この程度だと、歴史時代の日本人の移民とかを考えてしまう。ベトナムに関しては、そもそもベトナムまで南下してから北上したのじゃないか?との説もあり。インドネシアのデータと根本的に異なるとの話しも出ている。


 ベトナムのデータから、直接渡来の可能性が出されていて、海岸沿いに移動する分にはさほど困難な航海じゃない。しかも道具を持ち運びしやすい。


 敢えて言うなら、日本が過去もっていた樺太領土からの混血者の帰還がありうる。敢えてだけど。こういった近代のケースは高い数値にならない。数多い中に入ってもたいした影響にならない。でも数が少ない時の先祖の移民ならぐっと増える。アダムやイブと似たような感じになる。過去先住民として入ってきたのは考えにくい。アイヌで無いから。


 コーカソイドの痕跡があるとかと話が違うのは、ハプロは直系に残ってないと残らない。コーカソイドの痕跡などは直系が残って無くても、子孫は残るから。おそらくばらつきだろうとは思ってる。そうなってくると本当にO1B2は話す事が無い。南方ハプロだが満州に多いので、もうすこし高く出ても良いが、普通に中国人全体の影響程度しか出てない。


 もう一度書くがO1系は高く出ないのが重要。私は弥生時代に水田稲作とセットになった江南からの直接渡来には批判的。山東省の場合、半島にいくつもりが日本に来てしまったうっかりがあると思ってるから。遼東半島じゃそんな事は無い。だが半島の西南部への移住なら、誤って日本ってケースもある。遼東半島は山東半島の先端から目で見えるらしいので間違えると思えない。


 後弥生時代ってのが問題。私はもっと前の時期だと思ってるから。そもそも遼河文明と交わりから南下という朝鮮ルートの場合、かなり前に出ないと弥生時代にたどり着くのが無い。その理由はドルメンや無文土器の出現がかなり早いのでその時期には来てないと不味いから。直接渡来だと時間的問題を考えなくて良い。都合よく江南から船でO1B2だけ来たって話をするから胡散臭いんだ。


 ベトナムの件が無ければ、北方で分岐した系統だと見る。ハプロの分岐は大体そうなので。


 O1Aに移るけど、ここでO1B1の北海道の件が関わってくる。O1Aも全国平均なら中国人に混じっただけじゃない?で終る。だが中国地方で偏って出るのだが、10%近い。これはちょっと無視できないのと、北海道はアイヌで出てないのが謎だった。その点北海道は特殊事情があるのでばらつきで無視しても良いと考えた。


 どういう事かと言うと、特定の血族集団の渡来の可能性がある。場所はあまり重要じゃない。敢えて言うなら船だろうという点。何故船?なら古来日本海側、瀬戸内海もここは船の移動が多い地域で、天皇家も船を使って奈良に向かっている。神話じゃないかと、いやそれよりも当時稲作民が船を使って移動した痕跡が考古学の発見から述べられている。


 稲作の早すぎる伝播の原因はナンだと?調べていて、多分船を使ってすべての道具をセットに計画的に伝播していったからだと言うのがある、だがこれぱたっと東海で止まってしまって、突然関東とかが平行して進んでしまう。東海は陸路で広がって、関東は陸路より海路で伝わったのが早かったからじゃないか?と推測されてる。


 じゃ何故中国で止まったのか?で温度だと見てる。この集団おそらく南方集団。それゆえ温暖湿潤な瀬戸内海で止まってしまったんじゃないか?と見てる。特に縄文時代西日本に人が居なかったのでそれも大きいと思う。


 次に証拠となる。実は民族的にはつながりの無い沖縄で、南方系の台湾系の文化の遺跡が残っている。時代的にいつまで続いたのか?が分からない。だが過去は台湾との繋がりがあった。今民族的に影響が無いのだから意味が無いだろう?


 私はそう見ない。宝貝のリベンジではないが、通り道であった場合必ずしも途中に系統が残る必要は無い。宝貝もその可能性があると思ってる。ひょっとしたら、宝貝の南中国採取集団が他は山東に戻ったが、ベトナムにだけ残ったのではないか?って点。毎回地元の漁師や、何度も帰ってくるより、現地で拠点を構えたほうが効率良いのじゃないか?と思う。そして運搬専門に渡すなどすれば良い。


 山東省の集団がO1B2とは限らないだろう?だが、海をベースにするって民族だと限られてくる。当時の中国の漁労は基本大河を基本と居た淡水になる。古来から海洋民族であるO1AやO1Bの子孫がやはりその候補になるし、特に北方のO1B系なら文句なしにO1B2が候補になる。特にどこから半島のO1B2が来たのか?で一番の候補は山東省になってる。


 宝貝だと何故大陸から消えてしまったのか?の説明がしやすい。生業がなくなったから。だから私は戦国の国の滅亡で移動した説に批判的なんだ。なら何故O1系の他の系統が稲作の移動で移動し無い?となる。勘違いと言うか、りょうしょ文化の滅亡と戦国の国家の滅亡はものすごい時間のズレが合って、南方中国人の移動はどっちかと言えばりょうしょ文化の滅亡時期に多い。


 もっと前からだと思ってる。だがベトナムに限れば明確に4000~3000の付近がスタートになる。戦国期の移住はあっただろうが、大きな移住のスタートはここになる。1000年以上もずれていて、これを同じ移住として扱うのは無理がある。弥生時代と無理矢理リンクするために言われたもので、これは的確じゃない。りょうしょ文明崩壊の時期、夏王朝誕生とほぼ一致する。


 以前から北方系の南下と南方系の拡散は東南アジアでずれていたのが気になっていた。北方系の南下は4000~5000年付近になる。1000から500年は誤差なのか?玉突きだから?と考え居たけど、南方系と北方系の交流が盛んになるのと、南方系の拡散はややずれてると見ていた。


 5000年付近の新石器時代には明確に新モンゴロイドの形質がまだ南方で混じってなかった。もっと前の旧石器時代になると縄文人に近いのだが、それとは違う新モンゴロイドではない、モンゴロイドの形質の骨が出ていた。おそらく、過去O1系は新モンゴロイドらしい形質を持ってなかったと見ている。かと言ってオーストラロイド(アマンダン諸島の人達を見るとD系は多分これに近かったと見ている)とも違う人種。


 りょうしょ文化はじゃ混血か?と言うとそれはどうか?と思う。後の時代の呉越文化ってので、O2が出るけどサブグループが分からん。以前書いた原ラピタ人これは北方系に当たらない。O2が南方系だと思うのはこれが大きい。ミャオはどうか?と言うとこれは北方系だったと思う。時期的に民族が南下の歴史を記憶してるなら、多分近い時代だと思う。それゆえすでに黄河文明が生じていたと思う。


 ミャオは新モンゴロイドの形質が合ったか?なら分からない。それでもO2の北方集団が寒冷適応したとは思ってない。その理由は北方にほとんどO2がみつからない点。O2はモンゴルに辛うじて見つかるが、それは寒冷適応後の歴史時代だと分かる。少数であるのと、後は、内モンゴルで数多くのO2系の混血集団が居たと予想できるから。


 これらは北上したのではなくて、混血によって移動したと見ている。万里の長城が大体その付近だと見ている。次に北方とそうとう混血している華北の集団でも基本的にはGM遺伝子が南方の方が強く出てる点。


 ミャオはそもそも南方のO1集団と似た集団であった可能性もある。


 長江文明の遺跡でちょくちょくO2は南下があった時期出てるが、サブグループが分からないので明確な事は言えない。これは形質の変化からの判断が大きい。黄帝の戦いをその時期だと見てるようだが、私は怪しいと思ってる。戦いは事実だと思うが、侵略じゃなくて交流じゃないか?と見ている。それゆえ混血はそういった中でなされたものじゃないか?と。


 どう違うのか?と言うと今の様に父系ハプロを占有するようなのが侵略の混血で、普通に日本のように共存していくような状態もあるから。イマイチハプロに出ずに形質だけ徐々に変化したのはそのせいかと。未来の中国で言う冊封って奴じゃないか?と見てる。自治従属って関係。


 そもそも黄帝の並存する形でりょうしょ文化がある。神話なので時期はアテにならない。それでも、夏王朝の成立から考えて、同時期か?前になる。黄帝(北方中国人)が領土拡張的な戦争を行ったのならりょうしょ文化の南方的な独立性が矛盾する。衝突はあったが侵略ではないと見ている。


 侵略的混血は夏王朝の影響が高いのじゃないか?と見ている。天皇と蝦夷の関係にそっくり。または夏王朝を中心とした北方連合になる。ますますこれが天皇と似ている。または、すでに交流的混血によって形質を変えていたりょうしょ文化の末裔が南下するとともに影響を与えたか?


 これ難しいのだが、O2の影響はかなり後になる。O1B2の経路にはあまりO2との混血は見えないが、チベットビルマの拡散はO2の混血が目立つむしろD系より高いぐらい。これは系統が違う。ベトナムの形質が変わったのは謎になる。形質が変わるほどの変化ならハプロにでるのだが、タミルへの移住の間のニコバルなんて01B1100%になる。


 Dは中国全土として、基本C1が南方のすべての民族の土台になる。半島だけC2の北上がベースになってる。C1からO1への変化は一応ある。これは旧石器時代と新石器時代の骨が違うから。そこからさらに形質が北方系変化する。ベトナムでの変化がどっちの変化なのか?読み取れなかった。だが大きな変化とあったので、混血後じゃないか?と見た。


 ただベトナムは特殊で、歴史時代に何度も中国人の侵略を受けている。中国人の亡命政府があったほど。DとO2、O1とO2の混血の移動の後にO2中心の南下がある。さらに近代に近く華僑の移住がある。ただし、これは福建省に限られてラピタ人の移住に近い。特殊なサブグループのO2とO1Aの系統が福建省出身の華僑の高い比率を占める。(ここ出身の孫文もO1A)


 ここがややこしいのは、客家と言う北方から難民が存在する点。この点過去の夏人の可能性も高い。元から住んでいるO1Aも多いのでこの辺り複雑なんだ。何か遺伝的な決定的な証拠が無いと私は客家が元北方民だと言うのが胡散臭いとは思ってる。


 日本の研究は弥生時代に限られるので、この辺り北方化の時期がかなり後で参考にならない。あの時期は半島人と変わらないぐらい北方との混血を果たしている。台湾の高いO1AはBC3000年程度で見て良いのか?なら違う。そもそもあそこ中国なんだ。過去の台湾平原のときの名残になる。だから台湾からのO1Aの拡散は多少ややこしいと見ている。


 原郷が沈んでなくなってたまたま増えた台湾がルーツだとなってる可能性がある。または中国大陸の原郷がその後の民族の移動で滅茶苦茶になってしまった可能性もある。取りあえず東南アジアのO1A語族は台湾がルーツだと現在の所はされている。これマレー系と言うのだけど、実はマレーO1B1の方が多い…。


 実に厄介。多分過去はO1Aだったが、後から来たO1B1のタミル系に塗り替えられたと見ている。ただ言語的にはマレー集団として残ったのかと。それと言うのも、ニコバルがそうなのだが、mtDNAは純粋な中国人集団じゃない、どちらかと言えばオーストラロイドに近い。顔を見たけど、中国人みたいな、インドネシア人みたいな良く分からない顔。はっきり中国人だといえない部分がある。もちろん今の中国人は北方O2系の影響でさらに変わってしまっている。


 それでも根本的に母系の血が出ていると感じる。多分マレーシアもそう。すでにオーストラロイドと混血していたマレー系集団が母体になって父系だけ摩り替わってしまったと見ている。ちなみにタミル人もいるけど、これは10%にも満たないのでマレー人のO1B1の高さには繋がらない。タミルへの通り道なのでO1B1に摩り替わってしまっただけで、原マレー人はO1Aだと思われる。


 何故か?と言うとタロイモ文化圏といって、東南アジア式焼畑農業はマレーシアをルーツとしてるから。タロイモ系の起源地としてインドマレーシアの辺りになるらしい。しかも過去に以前書いたが、アフリカから来たモロコシを持ってきた焼畑農業が東南アジアのルーツになる。これらのルートを通っておそらくインディカの摩り替わりが発生したと思っている。過去は熱帯ジャポニカがその主流だった痕跡が今でも見られる。


 インディカの起源はタイになる。インドにどうやって伝わったのか?は分からない。インディカの起源を雲南アッサムだという説もあるが、私はタイだと思う。インディカに混じった野生種の起源としてタイだろうとみているから。遺伝関係は人間より植物の方が面白いかもしれない。そこから民族の移動を絡めて行くとなる。インドにどう伝わったか?は複雑。O1Aはタイで止まっていてインド方面の稲の伝播はチベットビルマなのか?タミルなのか?正直分からない。それほど稲作に詳しくは無い。


 雲南アッサム起源ならチベットビルマとなるのだが、私はタイ起源説なので。話しは脱線したが、このマレー系の拡散によって広がるのだが、そう単純じゃない。東南アジアのマレー系の土台にO1Aがいるのは確かだが、マレー農業の拡散はO1Aとは別のグループの可能性がある。日本ではほぼO1Aで良いが、東南アジアの拡散は別。その根拠として、インド系のハプロが台湾に向かってちらほら広がってるから。


 Rすら来ている。ただRの問題はアリーア人が海洋民族と言うのがピント来ない。時期的にはBC2000年にはもうRのインド侵入は始まってるので問題は無いけど。この点は、アリーア人と言うのはバラモンクシャリカ階層に絶対ではない。階層が低くなるほどRの割合が低くなるだけで、カースト最低そうにもRはいる。R1Aに限られるので、R1Bが多い大航海時代の西洋の民族ではない。


 この点はフィリピンなどでスペイン人とはっきり区別できる。ただマレー系農業はBC4000年にはもう始まっていたのだが、その辺り拡散が一度だったのか?は分からない。他にもHもちらほら見えるらしいが、後の時代に移住してきたタミル人とはおそらく違う。


 マレー系とは台湾からマレーへと、マレーから台湾へのとてもややこいルートを取っている。台湾は一度オランダ領になった事があるが、それはR1Bなので区別はつく、だが台湾の痕跡は目立つ父系ではない。地味なマレーのmtDNAのサブグループによって区別できる。古代の海洋民族は母系が多い。これは良く分からないがそうなっている。何故台湾で父系が消えてO1Aだけになってしまってるか?はこれがある。


 実は日本のサトイモ起源がよく分からない。タロイモの北限への進化系がサトイモらしい。先島諸島に昔あったが後に塗り替えられてしまったマレー系文化が本土に到達していた痕跡が中国地方の特異なO1Aの正体では無いか?と見ている。


 仮に稲作の移住だとしよう。なら何故もっと全国に拡散し無いのか?との不思議が出てくる。しかも稲作の中心である九州では高く出ない。直接ルートならこれはおかしい。稲作とは関係のないO1Aとなると台湾のマレー系農業が最も可能性が高い。


 ただ沖縄の遺伝子が塗り変わってる点で重要なのは、少数ハプロとはいえないが、沖縄の高いC1A1やmtDNAのM7Aは南方の海洋民族ではない。これは移住者の九州で高かったのが後の弥生系の拡大で減ってしまったのが沖縄では残ったからになる。これは指摘されてて、C1A1は一度九州の火山噴火で絶滅しかけた可能性があるといわれている。C1A1の原郷は九州で、沖縄から船で北上してきたか?は分からない。


 沖縄が塗り変わってしまってるため、そこにルートがあったも現在からは分からないと書いてるが、私がO1B2やO1Aだけを贔屓するのは、宝貝の採取に半島のルーツであろうO1B2の居た可能性の高い山東省の人間がかかわってるのが研究から分かってるからと、過去先島諸島におそらく台湾からの影響だと見られる南方形の文化が遺跡として出てるからになる。


 C1A1は最近中国で見つかったため、半島の陸路の経由の可能性がかなり高くなったと見ている。そもそもロシアなどでも過去遺跡から見つかってるので、C1A1は内陸で生活する狩猟民である可能性が高い。


 日本とはずれるけど、モンゴル系でダウール族ってのがいる。この種族何故かO1系を豊富にふくむ。遊牧民系に時折現れるO1系。元はバイカル湖あたりまで広がっていたらしいので、私が過去想像していたスキタイ後に移住してきた森の民かと思う。まあバイカル湖の辺りはちとずれるので、今は主に内モンゴルにいるため、ここでO1系と混血した集団になったと見ている。これは古くからO1系が内モンゴルにいる証拠の一つだと思う。


 今回の話とはかなりずれる。例えばラピタ人の移動は歴史時代になる。なにかしらの滅亡があったのか?と言うとそれは具体的には分からない。文献に何か残っていても良いと思うが、南すぎるのかイマイチこれって話が見つからない。O2の移動、O1の移動は度々あり、かつ時代もバラバラ。おかげでどの時代の移動なのか?分かって無いとかなり困る。例えばO2が北方形質を持って混血してO1が広がったのか?これだけでも随分イメージが違う。


 そもそもマレー系といわれる南方系の人たちは母系にオーストラロイドを土台にしてて、元の南方中国人はまた違うタイプだっだと思われる。要するに今はちょっと濃い人達になってる。北方系とも混ざってない、かと言ってオーストラロイドの形質も弱い(無いわけじゃない、旧石器時代のC1系がおそらくいたため、それと言うのも長江文明はO系ではなくC1系の狩猟採取民がベースだったのでは?と言われてるから。旧石器時代の人骨は縄文人に似てる)。


 新石器時代の南方の人骨は、縄文人にも弥生人にも似てないこれらとはずれたグループだと人骨の研究者が述べている。2回変化が起きてると成る。西方に多いFがラピタ人に全く含まれてないため、どういう風に混血を避けたのか?分からないが、ラピタ人が移動する3000年前はもうすっかり南方人骨は北方系に近くなってしまっている。


 まずはスンダランドからのO1Aの拡散(今でも海岸部にすんでいて過去も似たような海岸部に住んでいたと思われる)があり、おそらくここにはO1B1は含まれてない。この時一斉に広がったのか?それともじわじわ広がったのか?が分からない。その後の稲作の拡散は分かり易い。スタートはすぐに分かる。りょうしょ文明の崩壊になる。約4000年前付近にスタートする。O1Aの拡散はこれとは別じゃないか?と見てる。


 しかもこれに今も中国に居るタイ族の拡散の流れもある。これがりょうしょ文明の崩壊と関係してるか?は不明。その理由として、タイ王国誕生はかなりのあとの時代になるから。だが間違いなくもっと前に南下は始まっている。そうじゃないとインディカが生まれないから。雲南アッサム説に対してが、私はタイ起源説なので。


 大体タミル人の移動と一致する時期にインディカの稲作は始まってるので、O1Aタイ族の移動はそれ以前になされないと不味い。どちらにしろ私はアッサム雲南もタイ族からの流れになる。場所的にタイと中国南部を結ぶ流れと、チベットビルマ族のビルマへの流れは重なるから。ビルマ(ミャンマー)がタイの隣なので当たり前と言えば当たり前なのだが。


 ビルマ族のビルマ建国や、タイ族のタイ王国建国の移動とは別だと思ってる。チベットビルマは雲南アッサムあたりにいて、そこから南下して建国する。だがタイはすでに南下したグループがいたことになる。インディカの野生種の起源がその辺りになるから。タイ王国建設の前までタイ族は動いてない。そんな単純な話じゃない。


 ハプロと民族的な移動はまた別だからなのが大きい。


 これにサバンナ農耕と根菜類農耕はまた別ってのがある。たまたまどちらもマレーから発達するのが大きいが、サバンナ農耕はイネ科作物の山岳焼畑で、根菜類は芋やバナナになる。おそらくこっちは海。サトイモの流れがサバンナと時期がずれてRを集団にふくむのはこのせいだと思う。


 流れ的にはO1Aの拡散後にインドマレーシア原産の芋類の農業がO1Aを伴った形で、母系集団でまた台湾に戻ってくる流れになる。でもどりといって不思議な現象だったが、多分これ母系で前に広がったO1Aが混ざっていただけで別系統だとしてなんとかすっきりした話になってる。


 台湾からマレーにかけて似たような人種になるのは、双方向の移住で重ね書きのような効果を生んだからじゃないか?と見ている。これらにタイ族(O1A)、ビルマ族(O2)、モンクメール(インドではタミル人O1B1)の移動が絡んでくるという形になる。この中でマレー族だけ特殊なのはおそらくC1系のオーストラロイドの母系混血(インドネシアではC1がそれなりに濃く出る)が濃いからだと思われる。


 縄文人を過去の人がマレー系と勘違いしたのは多分これ。


 北方民族の南下とりょうしょ文明の崩壊は時期があまりに近くて何か関係があるような気がするが、黄帝の戦ったのはミャオ族じゃないか?といわれてて、ミャオ族は多少場所がずれる。元々北方に居たミャオ族は黄河文明に接近する形で北上してきた可能性がある。ただ時期的には気候悪化による南下とほぼ重なる。


 洪水説、気候変化説、北方民族との争いなどなど、りょうしょ文明崩壊は様々な説があり、それが確定と言うほどでもない。私としては、夏王朝こそ南下の原因じゃないか?と見てるのだが。夏王朝にその性格がなくても明らかに北方民族との連続組織になっていたっぽい王朝なので、国家的な侵略であった可能性が高い。


 黄帝は国といえるようなものではなかったのではないか?と思ってる。北方VS南方って単純な争いじゃなくて、狭い地域の部族集団同士の戦いに過ぎなかったのじゃないか?と見ている。だからやや北方に近い地域じゃないか?と。ミャオの遺跡からはD系は出てない。ただ蚩尤羌族だと思われるので変な感じはある。


 決戦の場のたくろくがどこにあったのか?は分からないが、予想されてる場所はかなり北方で南方には程遠い。湖北省が大体ミャオ族が築いた文化の北限になる。ぎりぎりぶつかったかな?って程度でかなり北にせり出してないと争いが起こるとちと思えないので。北方民族の南下と単純に一致させるのは不味いかもしれない。


 例え、形質が変化しても、交流程度のものかもしれない。それぐらい夏王朝後の変化は激しいからだ。あれは明らかに侵略的だと見ている。中国人の人種に答えを求めようとしてるが、私はそうは思わない。天皇も似てるが、王国の誕生と言うのは侵略的な集団にしてしまうのじゃないか?と見ている。しかも侵略性の高い遊牧民達も巻き込んだ国家なのだから。


 よくよく考えてみると、タイ族じゃなくて、タミルに向かった集団がタイでインディカの栽培化に成功して、そのままインドに広がって、後からタイ族が南下すればすっきりする。ただFの割合が少ないので、ほとんどO1B1はタイに居なかったのかもしれない。どちらにしろ、伝承で伝えたれてるタイ族の南下は紀元後らしい。


 タイ族が分かりにくいのは、よく分からないハプロが高頻度で出るからに成る。これがO1B1の古い系統らしい。やはり先に別の移住がある気がしてならない。そうなるとタイ族の南下が紀元後って矛盾がすっきりする。


 後ミャオ族はやはり南下後北上した可能性が有る。これによって逆に黄帝が南下したのではなく、ミャオ族の北上で衝突したのではないか?と思う。北方民族の南下は事実だが、その時期がすごく問題になる。どうも稲作民が先に北上してる気がしてならない。


 母系の方だが、日本だとB4とB5がこのタイプじゃないか?って推測のハプロに当たる。特にB5は山東省にはなくて、台湾と半島だけに有る。北方系にはあまり居ない事になる。かといって広東省もほとんど出ない。半島はついでで、日本と台湾に共通したものだとすると、これはありうると考えてしまう。半島に普通にあるから気にしてなかった。


 ただしタロイモの移動はもっと早い可能性が有る。台湾を海ルートで北上した集団が居たというだけで。そもそも台湾の影響と言うのはもっと昔の話しからになる。それが時代とともに変化するのもあるので、それとこれとは別。重要なのは今消えてしまった民族の系統が日本とは関係ないとは言い切れないって話しなので。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ