8 一番、大切なこと
次の日、おっちゃんはいなかった。段ボール御殿も消えていた。
あんなにしっかりとしていたのに、壁紙がはってあって、フローリングが敷いてあって、配管がしてあって、電気が通してあって、パソコンがあって、快適で、居心地の良かったおっちゃんの家は、ただのがれきの山になっていた。
「おっちゃん?」
なんだよ、これ。新しいいたずら? ねえ、おっちゃん、どこ。どこから僕のことを見てるの?
「おっちゃん!」
返事がない。
スリングショットを握りしめた左手が痛い。爪が食い込む。
「おっちゃん!」
頼むって言ったじゃないか、今日、僕にスリングショットを射ってもらうって。
「おっちゃん!」
嘘だよ、嘘だって。なんでいないんだよ、どこに隠れてるんだよ。
一番大事なこと教えるんだろ?
何だよ、涙なら昨日一杯流したじゃないか。何で今日も出てくるんだよ。嘘だ、こんなの嘘だ。
「おっちゃん……」
下をむきかけ、首を振って我慢した。泣くな、居なくなったなんて決めつけるな。
でも、でも、おっちゃんは居ない。居ないんだ。
思わず、天を仰いだ。本当にどうしようもなくなったとき、人は、天を仰ぐんだ……。
その時だった。
涙ににじむ視界に、何かが揺れるのが見えた。
段ボール御殿があるのは橋の下。頭上には橋梁の鉄骨構造材とコンクリートがあるだけ。揺れるものなんか無いはずだ。
あった。
白い封筒が、紐に吊され、風に揺れている。
『そのスリングショットを、明日、1回だけ使って欲しいことがあってな』
外すはずがない。外せるはずがない。
引き絞ったゴムは、完璧に狙い通りの軌道に鉄球を運び、糸を断ち切る。
白い封筒が風に煽られながら、フラフラと落ちてくる。
手紙だ。
はやる心を抑えて、慎重に、封筒を開けた。おっちゃんの字だ。間違いない。
*
前略。
さすがお前さんだ、ちゃんと見つけてくれたな。
お前さんを、間違った道に引っ張ってしまうかもしれんと思ってたのに、
お前さんといるのが楽しくて、つい引っ張り回してしまった。
すまんな。
わしの最後の授業だよ。
人生で一番大事なことは、「大切にするものを間違えるな」ってことさ。
お前さんは、間違えなかった。
わしはな、間違えた。
大切なものを放り出して、逃げ出してしまったんだよ。
不況がどうとか、人件費がどうの、国際競争力が……とかな、
そりゃ、確かに色々とあったんだが、
結局な、自分の工場を放り出して、逃げちまった。
けどな、お前さんを見てたら、
どんどん成長していくお前さんを見てたら、
わしもな、もう一度、出来るかもしれん、と思えてな。
昔の仲間と、また頑張ってみる。
お前さんのおかげだ。ありがとな。
元気で。 頑張り名人様
おっちゃんより
*
橋の下だから。屋根があるから。雨は降らないのに。
手紙が水滴でどんどん濡れていった。
手紙、汚しちゃダメだ。そう思っても、目を離すことが出来なかったから、ぐちゃぐちゃになってしまって、後で乾かすのに苦労することになった。
これでいい。これでいいんだ。
おっちゃんは、こんな橋の下にいる人なんかじゃない。おっちゃんはこれでいいんだ。
けどね。でもね。
僕にとって一番大事なことはね、おっちゃん。
おっちゃんがそばにいることだったんだよ。
僕は、最後の一発を射ち終わったスリングショットを川に投げ入れた。
(了)
原稿用紙五〇枚程度の中編でした。
原作のオマージュというか、引用・リンクがうまく消化できているのか?
また、原作未読の方に原作への興味を引く要素はあったのか?
そもそも、作品としての読み味はどうなのか、など感想をいただけると嬉しく思います。