7 ぼくにできること
「おっちゃん、あの、さ。話があるんだ」
「ほう、奇遇だな。わしもだよ」
いつも通りの段ボール御殿前。おっちゃんは、いつも通り拾ってきた雑誌を眺めていた。
「じゃ、おっちゃんからどうぞ」
年長者を立てる、というわけではなく。単に、逃げているんだと自分でもわかっていた。けれど。
「いや、ワシは後で話すよ。お前さんの話を先に聞こう」
おっちゃんは、いつも通りの微笑を浮かべていた。
やっぱり、やめようかな。そしたら、またいつも通り遊べるし……。
いつもの自分の考え方が頭をよぎった。でも、違う。そうじゃない、ってことを言いに来たんだ。
僕は、深呼吸をして、言った。
「おっちゃん、これ、スリングショット、返します」
「ほう?」
おっちゃんは、目で続きを促した。
「あの、あのさ、これで遊ぶと、ものすごく楽しいよ、ほんと楽しかった。嘘みたいだよ、僕がこんな一生懸命になれるなんて。でもさ……」
言葉に詰まる。いいたいことが、うまく形にならない。それでも、伝えないと。
「でも、どうした?」
おっちゃんの声は優しかった。
おっちゃんは、わかってるんだ、きっと。わかってて、いやわかってたから、僕にスリングショットを教えたんだ。
「でもさ、これじゃ、だめなんだ。スリングショット使って、やりたいこと考えれば考えるほど、これを使わなくても出来ること、これを使わずに自分の手でやった方がいいことばかり思いつくんだよ」
最初は、最初は、すごい武器を手に入れたと思った。これがあれば、遠くから、見えないところから悪い奴をやっつけられるって。
でも、鉄球を遠くからぶち当てるなんて、やってることは悪い奴と何が違うのか。使い方によれば、生き物を殺す力を持った武器を、人間に当てることなんて出来なかった。だから、おっちゃんがやるように、痛快ないたずらにはまった。
だけど、だけど、結局それは自分の手で直接できることだった。
子供のガチャガチャを占領する大人買いおじさんがいたら、注意すればいい。訪問販売の営業で母ちゃんが困ってたら、代わりに追い払えばいい。ばあちゃんを助けたかったら、最初から声をかけたらいいんだ。
不良に絡まれたときだって、自分で胸を張ることだって出来たんだ。
僕がやりたいことは、僕が直接動けば出来ることばかりだった。スリングショットなんて武器に頼らなくて出来ることばかりだった……。
いつのまにか、なんでかわからないけど、僕は泣いていた。涙がでてきた。なんだか、無性に情けない気がしていた。
「『至芸は芸を去る。これ、不射の射なり』か」
おっちゃんが、なんだか難しいことを言いながら僕の頭をなでていた。
「中島敦の『名人伝』っていう小説があってな、その言葉だよ」
「名人伝?」
「ああ。力を求めた男の話でな。そいつは、お前さんみたいに、弓の修行をしたんだな。全てをなげうって何年もかけて練習して、上達したんだよ。おまけに師匠を射殺してまで名人になろうとしたんだ」
何の話しだろう。よくわからない。でも、大切なことなんだと、おっちゃんの声が教えていた。
「でもな、そんなにまでして弓の名人になりたかったそいつもな、おまえさんと一緒のことをしたんだよ。最後には自分でその弓を捨てたんだよ。ま、だいたいそんな話さ」
おっちゃんの言葉は、柔らかく、暖かくしみこんでくる。
「その話にも、おっちゃんみたいな名人の師匠がでてくるの?」
「バカ言うな、ワシは名人でも何でもないさ。口ばっかり達者な段ボールの家のおっちゃんさ」
「だって、だっておっちゃんがたくさん教えてくれたから、僕は……」
おっちゃんが教えてくれたこと。
よく見ること、よく考えること、自分で動くこと。
それは、スリングショットの撃ち方なんかじゃなかったんだ。
「お前さんが、自分で気付いたのさ。ワシはなんにもしてないよ」
おっちゃんは、温かい手でしばらく僕の頭をなでていた。
ふと、思い出した。
「ねぇ、おっちゃんの話は? おっちゃんの話って何? 新しいいたずらのことだったら……」
もし僕を楽しませようとして何かを考えようとしていたのなら、それを裏切ったことになってしまう。
「いいや、いたずらのことじゃない。ただ、そのスリングショットを、明日、1回だけ使って欲しいことがあってな。それを頼もうと思ってたんだよ」
「明日? 僕が?」
「ああ。明日、お前さんが、だ」
よくわからなかった。おっちゃんの顔は、いたずらを持ちかけるときの顔じゃない。
スリングショットで撃つなら、おっちゃんが自分で撃てばいいのに。何だろう。
「わかった、おっちゃん、明日また来るから。でもさ、スリングショット返すけど、これからもいたずら以外にも色々教えてよ」
「ああ、わかった。明日な、一番大事なことを教えてやるよ」
おっちゃんは、笑って手を振った。気持ちのいい笑顔だった。そう見えた。
その時の僕は、まだ子どもだった。今日と同じ明日が、必ず来ると思っていた。
「じゃ、お前さん、元気でな」
だから、おっちゃんは教えてくれたのだ。子どもだった僕に。
じゃ、バイバイ。僕は、いつも通り手を振って家に帰った。