5 習得
「次は、あの猫の骨格と筋肉まで」
はい。
「よし、あのじいさんの表情筋を描け」
はい。
「あの姉ちゃんの下着姿、いいか、ワシの趣味じゃない、お前の修行のためだ」
は~い!
10冊目のノートを終えた頃だろうか。僕はおっちゃんにいつどんな無理難題を言われても、スケッチを描けるようになっていた。それが生き物だったら骨格や内臓、筋肉までも。
街を歩けば、意識を切り替えるだけで裸の人が大行進する企画ビデオの世界に入ったり(いや、見たことはないよ、そういうのがあるらしいって)、骸骨の進軍するホラー映画の世界に入ることができたりした。だから、家で父親が立っている姿を見るだけで骨格の歪みがわかるし、歩いていると体の悪い部分、膝の外側靱帯のゆるみが腰痛に繋がっているんだな、とかも見えるようになってきた。
おっちゃんに、家で父親の膝をマッサージして腰痛を治してあげた、と武勇伝を自慢したら嬉しそうに笑ってくれた。そして、真顔になってこういった。
「お前、まだスリングショットを覚える気はあるか?」
あ。
「お前、見ることに夢中になって、スリングショットのこと忘れてるだろ」
「そんなこと、ないよ、ちゃんと覚えてるって」
すっかり忘れてた。これじゃ本末転倒だって。
「……まぁ、約束だったからな」
おっちゃんは、段ボール邸宅に戻ると、スリングショットと土台のついた鉄の棒を持って持って現れた。そして、10mほど離れた砂利の上に鉄の棒を置いた。ちがう、棒ではない。ごくわずかに、向こうが見えた。パイプ、か。
いいか、と言っておっちゃんが見せた見本はたった一度。
けれど、僕にはそれで十分だった。
肩幅に開いた足を見ただけで、どう体を安定させたらいいかがわかった。
90度内側に倒して突き出された左手が取っ手を持つとき、どの指にどのぐらい力を入れたらいいのか見えた。
玉を挟みこまれたゴムは、右手により頬の位置まで引き絞られている。2本のゴムと、本体とは完璧な2等辺三角形を描き、頂点から底辺に向かう垂線の延長上に標的をとらえている。狙いは、鉄パイプの内径2?ほどの穴。いや、違う。少しだけ、ほんの3?ほど上に照準がついている。そうか、落下分か。
そして放たれた球は、鉄のトンネルに吸い込まれた。
「やってみろ」
僕は頷いた。目を閉じる。先ほどの映像が浮かぶ。そこに、自分の体を重ねる。身長の差を修正。筋力の差を修正。おっちゃんにとって30%の力は、僕にとって45%ぐらいのはず。イメージと自分の体の感覚が一致したところで、目を開く。
左手は、的に向かって伸びている。それでも、ごくわずかに誤差があった。修正。
右手で玉をつがえ、引き絞る。ゴムの固さは想定済み。呼吸を止め、体のぶれを消す。世界から音が消えた。自分と、スリングショットと、玉と、的しか存在しない。
気がつけば、右手は自然に指を開き、玉はビデオのスロー再生のように、僕のイメージを上書きしていきながら、おっちゃんの玉と全く同じ軌跡を通って鉄パイプの中に吸い込まれた。
出来た。
これほど完璧に、自分の思い通りに何かが出来たことなんてなかった。
「やった、おっちゃん、出来たよ! 僕、出来たよ!」
自分でもびっくりするぐらいはしゃいだ声が出た。ガッツポーズをするなんて、自分じゃないみたいだ。
「それなりに見込みがあるとは思っちゃいたが、こいつは驚いた」
おっちゃんは嬉しそうに、ちょっと呆れたように拍手しながら言った。
「お前さん、もう何でも『狙える』はずだぜ? 周りを見てみろよ」
言われたままに周りを見てみた。
あぁ。
世界が変わっている。なぜだか、世界が色分けされている。スリングショットの玉の届く距離、遠くに行くにつれて必要になる落下修正の量、そういったものが視界の中に見えない色として映し出されている。
風が吹いた。その風を感じたとき、目に映る世界の色が変わった。ああ、横風の修正が必要だからか。嘘だろ? 3Dシューティングゲームじゃあるまいし。
「ほらな? さて、次のレベルに行こうか。単に撃つだけなら面白くないし、頭も悪いからな。ここからがいたずら名人の神髄だぜ」
おっちゃんは、僕の目を見て笑った。逆光の中で見た、あのときの笑顔だった。
「うん」
きっと、僕も笑えていたと思う。
こうして、僕とおっちゃんのいたずら修行が本格的に始まった。