一話 終わりの始まり
燦々と照りつける太陽――ではなく蛍光灯。
その光に目を細めながら、大きなバツ証と『処分』と乱暴に書き殴られた段ボール箱を運ぶ影が一つ。
中肉中背の男である。齢は十代後半と言ったところだろう。その顔は整っていないわけではないが、どこにでも居そうなありきたりな顔をしている。
彼が身に纏わせているのは都内のある高校の制服だった。胸部には三年生を表す緑色の刺繍が縫い込まれている。つまり彼は高校生なのである。
「全く、何で俺がこんなことを――」
と嘆息し、不満げな顔をしながらも、彼は箱を持って歩き続ける。文句は垂れるが根は真面目なようだ。
「それは亮平が図書委員なんかになるからでしょ」
その後ろで少年の後ろを涼しげな笑顔で追うのは少女だった。長い髪と紅い頬が特徴的な、端正な顔立ちの娘である。彼女も同じ高校の女子用の制服を着ている。そして膨らみの乏しい胸には緑色の刺繍がしてあった。そして彼女の首にはネックレスがぶら下がっていた。
「図書委員の仕事は本の整理でしょう。ならばその箱の中に入っている本を運ぶのも務めのうちに入るでしょう」
「何で今から処分する本を運ぶ事まで俺たちの仕事なんだよ」
「ブツクサ言わない!」
「つーか、お前も図書委員なんだからお前が持ってもいいだろ」
そう言って立ち止まって、亮平は「ほらよ」と少女に箱を差し出す。
「女子に持たせるの?」
と、半眼で睨まれて何も言い返せない亮平。彼は心の中で「都合のいい時にだけその特権を使いやがって」とヤケクソ気味に嘯いた。
「まあ、いいわ。図書室までもうすぐだし、持ってあげるわ」
少女は彼の進行方向にに周り、手を差し出してくる。しかし亮平は首を振った。
「構わんさ。――美咲様はお手をお休め下され」
彼はそう言って、スタスタと少女を追い抜かした。
図書室に着いた彼ら二人を迎えたのは、女性の司書だった。メリハリの付いた体躯の、女性らしい魅力を持った女性だ。彼女はにこやかに美咲に笑いかけ、
「月谷さん、お勤めご苦労様。……あら、国崎くんも来ているの? 珍しい」
銀縁の眼鏡をかけた司書は、そう言って驚いた様子で少年を見た。彼女の名は水沢千花という。水沢は少年が置いた段ボール箱を開いた。
「あら、これは黒島先生かしら?――シュレッダーに掛けておけってことかしらね」
冊子を取り出して、水沢はそう推測する。彼女が取り出したそれの表紙には『人工知能についての文献』と書かれていた。彼女の言う黒島とはこの学校の理科教師である黒島逸彦の事だろう。黒島は明るい性格の持ち主ではないため、生徒の間では『黒魔術をしている』と、まことしやかに噂されている。
亮平は段ボールの中に目をやった。その一番上には同じ様な冊子が一束。表紙には『進化と災禍』と書かれていた。彼は吸い込まれるようにその冊子を開いた。
『進化。
それは個体が長い歳月を費やして、徐々に環境に適応するために変化していく事である。しかし突発的な環境の変化に対して、急激に進化する場合もある。
人間は猿から進化した。それは陸生の肉食動物に虐げられていた環境に抗する手段として脳が発達した結果である。
人間が完成系か?
答えは否である。人間の脳は十分に進化したが、病気や寒暖へ耐性など、未完成な部分も数多く存在する。
すなわち、人間はまだ進化の可能性を残していると言う事だ。
人類が絶滅の危機に瀕した時、私達は進化を遂げる可能性がある。
今のような生ぬるい安寧の中では人間はより素晴らしいものにはならない。それには安寧を打破する必要がある。災禍を起こさなければならない――』
「――何だ、これ」
その文献の内容を見て、亮平は唖然とする事しか出来なかった。彼の手の中の冊子には『人類の進歩の為に平和を壊すべきだ』と書かれているのだ。
「黒島は何を考えているんだ?」
そう言って、亮平は文献のページをめくった。そしてある文を目に留めて硬直する。
「まさか――」
彼の視線の先には、『災禍の計画』が書かれていた。そしてそれはぐるりと、丸く囲まれていて、その円の上には黒島の走り書きで『計画実行日時、二一二五年、十月八日』と記されている。
その日は一年前のちょうど今日。そしてその日はアメリカでロボットの暴走が起こり、市民を三十名殺害した日だった。
「偶然だ――」
そう言って、亮平は眩暈を覚えて頭を押さえた。彼の脳が激しい警鐘を鳴らしている。これ以上は踏み込んではならない――と。
しかし彼はそれに抗って、ページをめくって顔を顰めた。
「こら、勝手に人のものを読まないの」
そう言って水沢は亮平の手から冊子を取り上げた。それを段ボールの中に入れて持ち上げようとする。
「――ってこれ、重いわね」
と水沢は段ボールから手を離した。
「月谷さん。国崎くんを連れてきて正解だったね。女子にはこれは無理よ」
と言って彼女は苦しげな顔で持ち上げて、そしてシュレッダーのある司書室に入ろうとする。
「待ってくれ、先生」
「待ちません。これについての質問は受け付けません」
と彼女は司書室に入っていった。ドアの向こうではシュレッダーを起動する音が聞こえる。
「――俺の考え過ぎか?」
冊子に今日の日付と『日本での計画実行』と記されていたのを亮平は確かに見た。
終礼を終えると亮平は朧げな足取りで教室を出て、すぐに円柱型の部屋に入る。この部屋は人が五人ほど入るだけで満員になってしまう程の広さだ。そんな狭苦しい部屋に彼が入ったのは帰宅のためである。
それは『瞬間移動装置』と呼ばれる代物であった。二十二世紀の最初の年に研究者達がその技術を開発した。その十年後には実用化され、現在は各国が『瞬間移動装置普及政策』をとって、瞬間移動装置は世界中に普及した。
そしてその発展は様々な移動手段を凌駕し、廃れさせた。自転車や自動車はもちろん、自動車が走るための道路を死語にしたのだ。
神が作り出したこの世の倫理を愚弄するかのような急速な発展。それだけ人類は利便性を求め続けているのだ。今も、昔も――。
亮平はそれを当たり前と思って何事もなく利用している。あり得ない程の不自然な発展に気付かないでいるのだ。
亮平は瞬間移動装置内のボタンを操作した。壁から、双眼鏡のようなものが彼の目の高さに現れた。彼はそれを覗き込んだ。
瞬間移動装置の個人認証は網膜認証式とパスワード式、指紋式の三段階の手順を必要とする。
セキュリティが厳重にするのは重要だが、手順が多い気もする。
しかし歩いて帰る労力に比べれば対した浪費ではないと言える。と言うかむしろ歩いて帰る道がないのだ。ちなみに彼が図書室に移動する際に用いらなかったのは『登下校時以外、瞬間移動装置の使用を禁ずる』と言う校則があるからである。――要するに『登下校での歩行などがなくなり、運動する機会が減ったのだから、少しの距離ぐらい歩け』と言う事だ。
運動する機会が減った今日、体力の衰退を防ぐため、日本人は一日一時間の運動を義務付けられている。
帰宅後に運動時間を設けている彼はこの後、運動しなければならないのだ。
亮平は憂鬱そうに嘆息をしながら、認証を済ませた。
室内の光が消え、激しい機械音が轟く。
――ガゴン、と激しい音。
次の瞬間には彼はその室内にはいなかった。
帰宅した亮平を迎えたのは紺のワンピースとフリルの付いた白い服を身に纏わせ、頭には同じくフリルのついたカチューシャを乗せた――所謂メイド服を着た少女だった。亮平と同じ位の齢だろう。あくまで見てくれは。
『お帰りなさいませ』
「ただいま。フィグネリア」
抑揚のない声で迎えの言葉を告げるメイド服の少女。人形のように整った顔ではあるが感情が乏しい印象を受ける。瞳に闇が穿たれている。
それもそのはず、彼女は人間ではないのだ。
『雑事用アンドロイドTYPE-3』。見た目は無論、色、身体の構造、肌の質感までも人間と同じ様に忠実に再現された機械。
人工知能を内蔵したアンドロイドが彼女の正体なのだ。
フィグネリアの様な雑事用アンドロイドはワープパネルよりも前に庶民の間で普及した。しかしそれはロボット工学に長けた日本だけで世界的に見るとそれほどメジャーなものではない。海外ではむしろ戦闘用のロボット兵器が多い。国が必要としている力の需要の違いだろう。日本では労働力を必要としたからの発展だろう。
『どう言ったスケジュールに致しましょう』
フィグネリアが首を傾げると、彼女の頭上のカチューシャのフリルも揺れる。ちなみに彼女がメイド服を着ているのは決して亮平が着せたわけではない。
「亮平。お帰り」
頭を書きながら、眠たげにそう言ったのは亮平と面立ちの似た短髪の少女だった。フィグネリアにメイド服を着せているのは彼女の趣味である。
「早苗。お前、また学校に行ってねえのかよ」
「うるさいなあ。行くも行かないも私の勝手でしょうが」
寝ぼけ眼を擦りながら、彼女は唇を尖らせる。その様子に呆れながら、亮平はネクタイを解いた。
「弟に面目が立たないとは思わんのか」
「働いてるから別にいいだろぉ」
亮平の姉である国崎早苗は情報系に詳しく、電子分野では驚くべき才を見せる。業界では知らぬ者はいないとも言える程だ。
故に彼女はその手の業界から仕事の注文が来たりするのだ。彼女にしかできないプログラムなので破格の報酬がやってくるのだ。
「一応、親父達が学費を払ってくれているんだし、学校には行けよ」
「余計なお世話だよ」
早苗は「ふん」と鼻を鳴らして、自室に戻った。亮平は溜め息を吐いて、フィグネリアを見つめる。
「早苗がお前みたいなしっかり者なら良かったのにな」
そう言って、亮平はフィグネリアの頭を撫でる。フィグネリアは表情を変えずに亮平の顔を見上げているだった。
「――あ、そうだ、亮平」
そう言って、早苗は自室のドアから首をピョコリと出して、
「何だかフィグの通信の調子が悪かったから、一時的にオフラインにしてるから」
「ああ。了解」
亮平が頷くのを見ると、早苗は顔を引っ込めて扉を閉じた。
『――スケジュールはどうしましょう』
「そうだな。運動してくるから、洗濯物を頼む」
『畏まりました』
そう言って、フィグネリアはポケットからタオルを取り出し、亮平に渡した。
「――はぁ、はぁ!」
ジムルームから喘ぎながら出てきた亮平は、その場でくずおれた。
「――はぁ……」
息を整えながら、フィグネリアに渡されたタオルで汗を拭き取る。
その声を聞きつけて、フィグネリアはすぐに亮平の元に駆けつけた。その手にはトレイが握られていて、そのトレイの上には色々なコップが乗っている。
『お飲物は何になさいましょう』
「水をくれ――」
フィグネリアは「畏まりました」と亮平に水を渡した。
亮平は一気にそれを飲みほした。
『おかわりはいかがですか?』
「いや、いいよ」
と亮平が首を振って、コップを返そうとした時――
――銃声ッ!
亮平は慌てて、立ち上がる。今の轟音が明らかに家の中から聞こえたからだ。
「フィグネリア!」
『はい』
そう言って、フィグネリアはスカートを翻しながら、銃声の元へと向かった。亮平も疲労など忘れ、その背中を追った。
そして早苗の部屋の前でフィグネリアが立ち止まる。アンドロイドは無断で主人の部屋に入る事を許されない。だから亮平はフィグネリアに命令を飛ばす。
「俺が許す! フィグネリア、入れ!」
『畏まりました』と応えながら、フィグネリアは手首を握って、素早く捻る。彼女の白い手が外れ、内蔵された暴徒鎮圧用のマシンガンが顔を出す。
そして彼女は扉を蹴り飛ばし――すぐにマシンガンを乱射した。
そしてしばらく連射すると、彼女は銃を降ろし室内に入った。
亮平はその姿を見て、早苗の自室を覗き込んだ。
そこには荒れた家具と二つの死体があった。
一つは見知らぬ女性のものだった。恐らく、フィグネリアのような雑事用アンドロイドだろう。
そして、もう一つは――
『――すみません。亮平様』
フィグネリアは転がる早苗の姿を見て首を振った。
「アンドロイドの暴走――」
そう呟いて、彼は学校での出来事を思い出す。黒島が作成した、あの文献の内容を。
「――計画実行は今日」
亮平の口の中に鉄臭い血の味が広がる。彼は震える拳を振り上げ、壁を殴りつけた。
分かっていたのに、誰にも伝えられなかった。まさかこんなことになるなんて。
拳に痛みを感じる。壁が赤く染まっているので、恐らく、血が出ているのだろう。
しかし壁を何度も殴りつけた。何度も何度も何度も何度も。
自分の所為で早苗が殺された。
亮平はそんな自分への憤りを堪える事が出来なかった。
『おやめ下さい。亮平さま。お手が傷ついてしまいます』
しばらくその様子を眺めていたフィグネリアだったが、亮平の自傷行為に耐えかねて、そう告げた。
亮平は手を止め、その手を力無く降ろした。そして光の宿っていない瞳でフィグネリアに目をやる。
「フィグネリア――」
渇いた声で亮平は前にいる少女の名前を口から紡いだ。フィグネリアが応答すると、
「お前は大丈夫なんだよな。このアンドロイドみたいに暴走したりしないよな」
『アンドロイドが暴走したのは、恐らくウイルスが原因でしょう。私の通信は現在オフラインになっております。それに私には早苗様が備えて下さったセキュリティプログラムがありますから』
機械的に、無表情に、フィグネリアはそう告げた。
亮平はしばらく黙り込んで、俯いた。
人類を進化させると言う馬鹿げた計画に黒島は関わっている。
彼の言う災禍――つまりロボットによる大虐殺が今も起こり続けているだろう。
彼を止められるのはあの文献を見た自分だけだ。
自分の顔を殴りつけて顔を上げた。フィグネリアを見つめる彼の目には憎悪と復讐と決意の色が表れていた。
「フィグネリア、学校に向かおう」
亮平の目尻には光るものがあった。フィグネリアはそれに気付かないフリをして頷いた。
『畏まりました』
円筒形の部屋が開き、中から亮平とフィグネリアが現れる。
「フィグネリア、行こう」
『待ってください、亮平様』
フィグネリアは無骨な銃が覗く腕で亮平の行く手を遮る。亮平は少し驚いたようにフィグネリアを見つめた。
「どうした?」
『――奇妙に静かです。それに私に内蔵されたサーモグラフィーが人体から発散されるはずの熱を数個しか感じ取っていません』
抑揚のない声が伝えた言葉は不穏なものだった。亮平は歯軋りをして、
「全員が家に帰った――そんな訳ないよな」
『あり得ないでしょうね。部活をやっている生徒や教師はまだ残っているはずでしょう』
フィグネリアは淡々と、そして冷酷に告げた。亮平はしばらく俯いていたが、大きく溜め息を吐くと、
「黒島を探そう」
決意したように歩き出した。
フィグネリアはその背中を追いながら、
『亮平様。そこの教室から体熱を感じます』
と彼女は目の前の教室を指差した。
その指が向く先にあったのは亮平がほぼ毎日、足繁く通っていた自らの教室だった。
「中に人が?」
亮平は教室を指差して、フィグネリアに問うた。
『はい』とフィグネリアは頷いた。
もしかしたら、級友に生き残りがいるかもしれない。
彼は期待を孕んだ瞳でドアに手を掛けようとした。
亮平にとって、聞き覚えのある悲鳴が劈いたのは直後だった。
「美咲――ッ!」
教室のドアを荒々しく開け、亮平は駆けた。
「亮平――?」
教室内には美咲と警備用アンドロイドが相対していた。警備用アンドロイドが構える銃口は美咲の方へと向いている。
警備用アンドロイドは亮平の姿を一瞥し、美咲に視線を戻した。そして、狙いを定めるように手の高さを調節する。
「ひ――ッ!」
美咲の顔に恐怖の色が濃く表れる。
意識する前に、亮平は駆け出していた。美咲に手を伸ばし、彼女の身体を突き飛ばす体制を取る。
だが――彼が辿り着く前に銃声が鳴った。
美咲の額に穿たれた孔から勢いよく血が噴き出す。そのまま美咲の身体は力なく後ろに倒れた。
飛び散った赤い液体が亮平の頬を濡らし、服を染める。生暖かい血を浴びて、亮平はその場にくずおれた。
「――ぁ、ぁあああああああああああああああ――――――ッ!」
絶叫。まさにそう呼ぶに相応しい叫び。
亮平は憎しみの籠った表情で警備用アンドロイドを睨みつけた。
警備用アンドロイドは表情を変えずに亮平に銃口を向けていた。
しかし彼の心の大部分を占めていたのは死への恐怖ではなく、憎悪と自分への怒りだった。
このまま何も出来ずに死ぬのか。
黒島が糸を引いているのを知っているのは俺だけだ。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
「――ざけんなよ。こんな狂った計画の為に、何故人がこんなに死ななくちゃなんねえんだよ!」
亮平はそう訴えるが、彼の声が警備用アンドロイドの心に届くはずはなかった。アンドロイドに心など元々ありもしないのだから。
警備用アンドロイドは美咲を撃った時の様に亮平に狙いを定めた。そして――
――銃声が轟いた。
銃声のしばらく後、倒れたのは警備用アンドロイドだった。
亮平は床に突っ伏す警備用アンドロイドの頭部を見た。そこには弾痕と思われる孔が空いていた。
『――亮平様、御無事でしょうか?』
その声を聞いて、亮平は安堵の溜め息を吐いた。
「ありがとう。助かったよ、フィグネリア」
そう言う亮平にフィグネリアは手を差し伸べた。亮平はその手を取って立ち上がった。
『お怪我はございませんか?』
「大丈夫だ。それよりも――」
と亮平は床に倒れる少女に目をやる。
美咲の頭からは今だ血が流れて、床に広がる赤の面積を広げている。
「彼女は――?」
答えが分かり切った問いだった。しかし問わずには居れなかった。最悪の可能性しかないがもしかしたら一億分の一の確率があるなら、それに期待したかった。
『非常に残念ですが――』
結果は彼の期待外れだった。
そして彼の予想通りだった。
「――そうか」
亮平は美咲の傍にしゃがみ込み、彼女が首にぶら下げていたネックレスを取って、自らの首に掛けた。
「守れなくて済まなかった」
そして亮平は立ち上がり、出口に向かって歩を進め出した。フィグネリアは彼の後ろ姿を追った。
亮平は教室を出る寸前で振り向いて、
「――じゃあな」
そう告げて、駆け出した。
亮平が次に向かったのは、科学実験室だった。もしかすると、黒島がそこにいるかもしれない、と思ったからだ。
「フィグネリア、ここは?」
と理科室の扉の横の壁に張り付いた亮平はフィグネリアに尋ねる。熱エネルギーの有無を見分けて、人がいるかいないかの確認をするためだ。
『ここには熱が二つあります。一つは人間のモノでしょう。もう一つは人型機械の電力使用によって放散される熱です』
つまり彼女の言葉を要約すると、『中には人間とアンドロイドが一対いる』と言う事だ。
人数、機数ともに互角だ。故にここはアンドロイドの性能の差が物を言う。フィグネリアは戦闘用ではないと言えど、超一流のプログラマーの改造が施されているので並の戦闘用アンドロイドよりも強いだろう。
亮平はフィグネリアに言い聞かせるように告げた。
「いいか、フィグネリア。この教室に突っ込んでアンドロイドを狙え。人間の方には手を出すな」
フィグネリアは大きく肯定の意を見せた。
『畏まりました。亮平様はここでお待ち下さい。流れ弾が命中してしまわれる恐れがございますので』
フィグネリアはそう告げてから、扉の前に立った。そしてメイド服のポケットから十六ミリ弾の拳銃を取り出して、ドアに向かって構えた。
弾が装填されているのを確認し、そしてトリガーを引いた。
――囂しい銃声が響く。
――一発、二発、三発、四発。そして五発目で銃声は止んだ。
『亮平様。入りましょう』
フィグネリアは落ち着いた声音で亮平に告げた。
扉の奥には回転椅子に座る白衣の後ろ姿があった。その白衣を着た者は、亮平たちが入ってきたのを待っていた様に回転椅子を回してくるりと振り向いた。
「国崎か。ふむ、君が生きているとは」
興味深そうにそう言ったのは、眼鏡を掛けた切れ目の男だった。身長は高いが痩身からか、どこか骸の様な印象を受ける。
「君の姉の国崎早苗は薄らと私の企てに気付いていたようだから、危険度が高い人物として、殺害の優先順位をトップクラスにしていた。そして君も彼女の肉親であるから、という理由で優先順位を高く置いていたのだがな」
痩身の眼鏡の男は口の端を吊り上げた。彼の不吉な笑みを見て、亮平の脳内に煮え滾った感情が上ってくる。
「ふむ。良いぞ。良い方向に予想が外れてくれた。君には『魔法』を持つ資格があるのかもしれ――」
「――黙れよ」
そしてついに亮平の中の感情の堰が外れた。彼は痩身の男の前に歩み寄って、眼鏡の奥の双眸を睨みつける。
「不用心に近付くのはいただけないな。私が得物を持っていないとは限らないだろう?」
にへら、と垂れ下がる目尻を見て、亮平は痩身の男の襟を掴んで壁に押し付ける。
「ほう。若いな。しかし君には荒削りであるが、光る物を感じる」
「――いいから、黙れよ! 黒島ぁ!」
亮平は声の出る限り叫んだ。その叫びを聞いて、黒島の瞳から冗談めいた雰囲気が消えた。黒島は亮平の手を乱暴に振り払った。
「今の君は私に逆らっていい立場なのか?」
そして彼が指を鳴らすと、廊下から戦闘用アンドロイドが五体ほど現れた。彼らは手を出すこともせず、じっと亮平を睨みつけていた。
「私に従い、傅き、隷されるのが正しい選択ではないのか?」
そう言って、黒島は冷めた目で亮平を睨みつけた。
「君はどちらを選ぶ? アンドロイドに殺されるか。それとも僕の下で働くか」
亮平は唾を飲みこんだ。
死ぬのは怖い。それに死んでしまえば、誰が黒島に復讐をするのだ。もし黒島に従っていれば、いつか暗殺の機会があるかもしれない。
――しかし。
「殺戮に加担するわけにはいかねえんだよ!」
その言葉は彼の心からの叫びであった。悪を屠る事が正義であるが、一度、悪の加担をしてしまえば、それは正義ではない。別の悪だ。
「残念だな。君には大きな希望があったのに。君は輝く好機を棒に振ったと言うわけだ」
呆れたように黒島は窓に寄ってカーテンを開けた。そして窓のロックを外し、横にスライドさせる。
――その時、突風が室内を襲った。
バラバラと空気を切る音が聞こえる。
「生き残っていればまた会おう」
黒島はそう言って窓から飛んだ。彼が重力に従って自然落下しそうになったところを、無骨な機体が受け止める。
「逃げるのか!」
亮平は窓に駆けたが、彼が外を見た頃には、ヘリコプターは遥か上空にあった。
ぴぴぴ、と言う電子音が亮平の背後で鳴った。亮平が振り向いた瞬間、五体の戦闘用アンドロイドは同時に告げた。
『コード七五五八三。――殺戮を開始します』
亮平が身構える前に、戦闘用アンドロイドは五体のうち三体が一斉に亮平に向かった。残りの二体は右手首、左手首を外して、銃口を見せた。
――何か打開策は無いか。
そう思って彼が背後に目をやると、鉄で作られた無機質な棚があった。そこには様々なガラス瓶が並べられている。
――これだ!
亮平は棚を開けようとしたが、鍵が掛かっているようだ。
「チッ」
と彼は舌打ちをして、棚のガラスを叩き割った。そして瓶を取るや否や、アンドロイドに投げつける。
ガラス瓶はアンドロイドの頭に当たって弾け、中の液体がアンドロイドに降りかかる。しかし彼等は怯むことなく、突っ込んでくる。その腕を取り外すと、口の広い鉄の筒が現れた。そしてそれを亮平に向けた。
――ヤバい!
そう直感した亮平が思わず身を縮こめた時――
――アンドロイドが大爆発を起こした。
亮平は奇妙な浮遊感に苛まれていた。彼が目を開けると、壁が迫ってくる光景が確認できた。否、彼に壁が迫っているのではない。彼が壁に迫っているのだ。
亮平の身体は衝撃波によって、吹き飛ばされていたのだ。
このスピードで壁にぶつかってはただでは済まないだろう。しかし彼にはどう抗う事も出来なかった。
彼は衝撃を覚悟して目を閉じた。
そして――柔らかな感覚が彼を包み込んだ。
『ご無事ですか? 亮平様』
彼が目を開けると、目が覚めるような白が広がっていた。フィグネリアのフリル付きのエプロンドレスの色だ。
本当に人間と同じ様な、優しい柔らかさだな、と亮平は一息吐いた。
「助かった。フィグネリア」
そう言って彼は、立ち上がって爆発によってついた汚れを払った。
どうやら軽い火傷や擦り傷があるだけで、目立った外傷はないようだ。
「しかし、どうして――」
と亮平が爆煙に目をやった。その時、フィグネリアが彼を突き飛ばした。
それに寸分遅れて、亮平の顔があった場所を銃弾が通過する。
『亮平様。失礼しました。しかし、まだ一機残っております』
フィグネリアは爆煙から視線を外さずにそう言った。
その時、爆煙から影が飛び出した。それは顔面から内部の機械の構造をむき出しにした戦闘用アンドロイドだった。爆発によって表面が剥がされたのであろう。その手にはサブマシンガンが握られている。
『任務。遂行。義務。殺戮!』
呪文の様にそう呟いて、戦闘用アンドロイドは亮平に突っ込んだ。フィグネリアは立てかけられていた鉄パイプを握って、戦闘用アンドロイドの頭に振り下ろした。しかし戦闘用アンドロイドはそれを躱し、フィグネリアに銃口を向けた。
初めから強者を先に倒す事が目的だったのだ。
それに気づいた亮平の足は無意識の内に戦闘用アンドロイドの前に彼の身体を運んだ。
そして彼はアンドロイドを殴りつけた。
機械の身体に対して生身の拳。
意味の無い悪あがきに過ぎない、筈だった――。
――しかし、アンドロイドはその場にくずおれ、動かなくなった。
「何だ?」
亮平は倒れたアンドロイドの頭部を訝しげに見つめて、嘯いた。
「やったのか?」
アンドロイドに触れた自らの掌を見つめ、亮平は首を傾げた。
何だ。今の力は――?
魔法? ――否、あまりにも非現実的だ。
亮平はそう断言した。夢がない、などと言われるかもしれない。しかし科学の技術が進歩した時代に生きている彼らの世代では仕方が無いと言える。魔法などという幻想を捨て、現実的に考える者は少なくない。彼もその一人だった。
故にこそ、その異能を実体験すれば酷く狼狽するものだ。
「どういう事か、分かるか? フィグネリア」
彼は自己解決を放棄した。そして解決を転嫁した。
『亮平様の御掌から強力な磁力が発生していました。発生の原因は分かりません』
フィグネリアは首を振った。
科学的な原因が分からないと証明されてしまえば、魔法はあり得ないといった偏見は、いとも簡単に破れる。
それに黒島が言っていた『アギト』というもの。それはもしかしてこの力のことではないのか。
亮平は再び掌を見つめ直して――
――力が抜けたかのようにゆらりとその身を揺らし、ついには倒れた。
床に倒れ伏す彼は安らかに寝息を立てていた。