ネイロの夢
ハンナがソラという名を名乗り始めて、三ヶ月が経とうとしていた。
爽やかな春は、あっという間に過ぎ去り、夏を感じる暑さが連日続いていた。
「暑いな。こう暑くては、パンもすぐに駄目になってしまうな。なあハン……ソラ。」
「ゲンマさん。お家ではハンナでいいですよ。」
「そうだった。年をとると覚えが悪くてな。」
二人は、日々の生活を楽しんでいた。
独り身のゲンマにとっては突然、孫ができたような不思議で、それでいて幸せな感覚だった。
そんな中、死にものぐるいで勉強に励むネイロがいた。
最近は特に部屋に籠りっきりで一日中、顔を見ない日さえもあった。
ハンナは心配で仕方なかったが邪魔をする訳にもいかず、心苦しかった。
「ネイロさん、頑張ってますね。」
「そうだな。坊っちゃんの試験まで、もう十日しかないからな。」
ハンナは、未だにネイロが何の試験を受けるのか聞けていない。
一度タイミングを逃すと、なかなか聞けないものだと痛感いている。
しかし、さすがにハンナも、しびれを切らし、
「あ、あのゲンマさん。ネイロさんは、一体なんの試験を受けるのでしょうか?」
ハンナの言葉にゲンマは驚きを隠せなかった。
「聞いてないのかい?」
無言で頷くハンナ。
「じゃあ聞いてごらん。きっと教えてくれるから。」
「でも……」
「ほら、今日は歌の日だろ。その時に聞いてみなさい。坊っちゃんは、きっと言いたくてたまらない筈だよ。」
ネイロは、どんなに疲れていようが、週に一度は必ずハンナの歌に付き添った。
毎回来てもらうのは悪いからと、ハンナは遠慮がちだったが、
「今となっては、ハンナより俺の方が楽しみにしているんだ。」と、言ってネイロは笑っていた。
この日も夕方になるとネイロは早々に二階から降りてきて、ハンナの支度が終わるのを待っていた。
「すいません、お待たせして。」
「よし、行こうか――ソラ。」
この時期は陽が長く、外はまだ充分明るかった。
そこでハンナは、少し遠回りをすることをネイロに提案した。
「じゃあ俺の散歩コースで行くか。」と、二人はリケル川の川沿いを歩くことにした。
「ネイロさん……あの勉強の方は、どうですか?」
「ど、どうって、頑張ってるよ。」
少しの間、沈黙が続いた。
「それで試験、合格できそうですか?」
「さあ、どうかな。でも絶対に合格するって決めたからな、死んでも受かってやるよ。」
「あまり、無理なさらないように。」
「ありがとう。」
再び沈黙が流れ、辺りには川の流れる音だけが煩く聞こえた。
「あ、あの……」
「どうした?」
「試験って……なんの試験なんです……か?」
ハンナは完全にタイミングを失ったものを強行手段で質問した。
「エッ?オレ、いってなかったかなあ。」
ネイロの下手な演技にハンナは思わず笑いそうになったが必死に堪えた。
実はネイロの方も自分から切り出すタイミングを失っていたのだ。
本音を言えば、言いたくてしょうがないのである。
そして、いつハンナが聞いてくるのかと、ずっと待ちわびていたいたのだ。
「俺が受けるのは正務局の試験だ。」
「正務局……すいません、私よく分からなくって」
ネイロの目は「待ってました!」と、ばかりに輝いた。
「正務局ってのは、この国の正義と法を司る機関なんだ。」
ハンナは理解しようと一生懸命に話しに耳を傾けた。
「この国は比較的平和な国だ。政治、経済全般を国王がしっかりと、やってくれているからな。」
ネイロは火がついたらしく、熱く語り続ける。
「そして国内の治安を守るのが正務局だ。さらに国王から全権を与えられた正務局の中でもロイヤーと呼ばれる肩書きを持つ高官は、その中でも特別で、正務局での全ての決定権に対し自由に発言できる力があるんだ。」
ハンナには、理解するのが難しかった。
だが夢と希望に、みち溢れるネイロの姿が羨ましくも喜ばしかった。
「だから俺は、試験に合格して必ずロイヤーにまで成り上がる。絶対に、どんな手を使っても。そしたら、まず始めにジェラルドの奴らを、とっ捕まえてやるからな。ソラ……いやハンナ。」
二人は、その後いつものように駅前広場に向かった。
すると、そこには既に多くの人がハンナを待っていた。
「きた!ソラちゃん、待ってたよ。」
「今日も聴かせてね。」
人々の歓声にネイロばかりかハンナも驚いた。
「あ、あの今日も宜しくお願いします。」
観衆は拍手でハンナを出迎えた。
そんな中、ネイロは少し不安になっていた。
毎回、ハンナが歌うたびに確実に観衆が増えてきている。
もしこの先、自分が正務局に勤め始めたら、きっとハンナの付き添いも、ままならないだろう、と。
ネイロが気がつくとハンナは、いつもの歌を歌い終えていた。
辺りは拍手と歓声に包まれている。
「ありがとうございました――それで今日は、もう一曲別の歌を歌いたいと思います。初めてなので上手く歌えるか不安ですけど……聴いてもらえますか?」
観衆は一気に盛り上がりをみせた。
ハンナは緊張する自分を落ち着かせるため、ゆっくり息を吸い込んだ。
そして、第一声を発した時には、彼女の中に「緊張」という文字は、完全に消滅していた。
「君の光りは、華よりも、あの星よりも強く美しく輝いている~それが例え、落ち込んだ時や悲しい時にでも、その光りは衰えをしらずに、より一層煌めくだろう。だから自信を持って俯かず前を向いて歩いていこう――」
ハンナは目閉じ歌った。
そして歌い終えると、ゆっくり瞼を開いた。
その瞬間、観衆は「ソラ!ソラ!」コールを連呼した。
もちろんネイロも初めて聴く歌に聴き入っていた。
そして、場が落ち着くと、最後にもう一度、いつもの歌を歌い、終演となった。
帰り際、ハンナの視界の端に駅長ロイが映りこみ、ハンナはロイに大きく手を振って、ネイロと共に帰路についた。
その帰り道。
突然ネイロは、「ハンナに紹介したい奴らがいるんだ」と、言って街の狭い裏路地にハンナを案内した。
そこは、小さな建物で入口には古びた木の扉がある。
まるで小屋のような造りの建物の扉を開き中へ入ると、そこは地下へ降りる階段があるだけ、であった。
「ネイロさん。ここは?」
「俺、ハンナが歌っている時に色々考えたんだ。もし俺がいない時にハンナに何かあったらどうしようって。」
ネイロが自分のことを、そんなに心配してくれていることに、嬉しさの反面、照れくさくなった。
「それで出た答えが。今から紹介する奴らなんだ。信頼できて、逞しくて、そしてハンナとも共通の楽しみがある。」
二人は、地下へ続く階段を降りる。
「共通の楽しみ?」
降りきると、そこには表の木製の扉とは全く違う、重厚な鉄製の扉が不気味に待ち構えていた。
ネイロは、その扉に手をかけ力強く押し開けた。
そして、
「そう。共通の楽しみ。――音楽さ。」
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